第23話 本に閉じ込められた幽霊
ミラは、第十三鐘守が四つに分けた《意思》だと告げられた。
禁書庫の最深部には、名前、記憶、身体を名乗る存在が待っている。
しかし白い本へ閉じ込められた司書は、管理人ノクスの説明が偽りだと訴える。
『第十三鐘守を、一つへ戻せ』
何千冊もの本が、同時にささやいた。
声が重なるたび、禁書庫の空気が紙のように薄くなる。
入口へ続いていた階段は、本棚の間へ消えていた。
上を見ても、石の天井しかない。
退路を失った。
その正面には、成長したミラと同じ顔を持つ女性が立っている。
長い銀髪。
白い鐘守りの衣。
十三本の細い鎖が、首、手首、足首から最深部の扉へ伸びていた。
『あなたが、私から逃げたのよ』
女性はミラへ手を差し出す。
『戻ってきなさい』
『嫌』
ミラは即答した。
禁書庫の本が一斉に震えた。
『拒否を確認』
『意思断片に混乱あり』
『再統合による修復が必要』
「修復が必要だと、誰が判断した」
レインはミラの前へ立つ。
管理人ノクスは穏やかな笑みを崩さない。
「第十三鐘守自身です」
「目の前の女性が?」
「第十三鐘守の身体を基礎として再現された人格です」
「身体そのものではない?」
「身体に保存された記録が、会話可能な形を取っています」
「では、本人とは言えない」
「ミラもまた、本人の一部です」
「一部なら、本人の意思として扱わない?」
「完全な個人ではありませんから」
『私は考えられる』
ミラが言う。
『話せる。嫌だと言える。自分で名前も選んだ』
「それでも、元となった存在の一部です」
『一部だったら、嫌だって言っても無視していいの?』
ノクスは答えなかった。
「質問を変えます」
レインは銀髪の女性を見る。
「あなたは、今何を望んでいますか」
『一つへ戻ること』
「戻った後、何をしたい」
『鐘守りとしての役目を果たす』
「どんな役目を?」
『死者を鐘へ導く』
「本人の意思を確認して?」
女性の返答が止まる。
『死者を鐘へ導く』
「同じ言葉を繰り返しています」
「身体側に保存された役割記録です」
ノクスが説明する。
「長い分離により、詳細な判断能力が損なわれています。だからこそ、意思と記憶を戻す必要があります」
「ミラが拒否しても?」
「不完全な状態での拒否は、完全な本人の意思とは断定できません」
「統合を望む女性の言葉は採用するのに?」
ノクスの銀色の目が、わずかに細くなった。
「身体は、存在の基礎です」
「身体が上で、意思は下だと?」
「優劣ではありません。構造上の中心です」
『言い方を変えてるだけ』
ミラがつぶやく。
白い本が封印布の中で暴れ始めた。
『違う!』
『その女は身体ではない!』
ノクスが手を上げる。
本棚から黒い鎖が飛び出し、封印された白い本へ巻きついた。
「逃亡記録を回収します」
「待ってください」
「その本には、禁書庫外へ持ち出してはならない記録が含まれています」
「中の司書へ、戻りたいか確認していません」
「司書は禁書庫の一部です」
「本人へ聞きます」
レインは封印布の上へ手を置いた。
「本を開けてほしいですか」
白い本が一度震える。
はい。
「開けば、ノクスに捕まる危険があります」
一度。
「それでも、自分の言葉で証言したい?」
今度は、強く一度。
レインはセシリアを見る。
「安全に開く方法を」
「本から何が出るか分かりません」
「分からないから、準備してください」
「あなたは毎回、無理を言うときだけ丁寧ですね」
セシリアは銀杖を構えた。
「本を中心に月光境界を作ります。外からの黒い糸と、内部の死霊反応を分離します」
「開いた瞬間に襲ってきたら?」
バルドが大剣を抜く。
「本ではなく、出てきたものを見て判断してください」
「本を斬るなということだな」
「絶対に斬らないでください」
「分かっている」
『少し残念そう』
「気のせいだ」
エルナは白い本の周囲へ紙を並べた。
「書かれた文字が外へ逃げる可能性があります。白紙で受け止めます」
「記録を写し取るためですか」
「閉じ込めるためではありません。どの文字が、どの方向へ動いたかを確認するためです」
「成長しましたね」
「その言葉を使えば私が喜ぶと思っていますか」
「思っていません」
「なら結構です」
ミラが白い本の前へ座る。
『中の声は、私が聞く』
「危険を感じたら離れろ」
『レインも』
「分かっている」
『本当に?』
「今は時間がない」
『分かってない言い方』
ノクスは一連の準備を止めなかった。
ただ、静かに見ている。
「なぜ妨害しない」
レインが尋ねる。
「記録を読み比べることが、入庫条件だからです」
「白い本を回収しようとしました」
「禁書庫の規則を実行しただけです」
「矛盾しています」
「記録を守る規則と、閲覧者へ記録を開示する規則が同時に存在しています」
「どちらを優先する」
「状況によります」
「誰が決める」
「私です」
「では、規則ではなく、あなたの判断ですね」
ノクスの笑顔が一瞬だけ消えた。
◇
「開きます」
セシリアの月光が白い本を包む。
レインは封印布を外した。
真っ白な表紙。
題名も、著者名もない。
ただ中央に、小さな黒い点がある。
目ではない。
針で刺したような穴。
穴の奥から、男の声がする。
『最初の頁だけを』
「全部開くとどうなる」
『私が、ばらばらになる』
「一頁ずつなら?」
『自分で選んだ記憶だけを出せる』
「分かりました」
レインは表紙へ手をかけた。
ノクスが言う。
「その本の証言は、信頼できません」
「最初から真実とは決めません」
「長期間、禁書の文章と混ざっています」
「あなたの説明も同じ条件で扱います」
「私には、禁書庫全体の記録があります」
「だからこそ、自分に都合のよい記録を選べる」
ノクスは何も答えなかった。
レインは表紙を開いた。
一頁目。
紙面は空白だった。
次の瞬間、黒い文字が中央に浮かぶ。
暗い。
「声が聞こえますか」
『聞こえる』
「あなたは、どこにいる」
文字の間。
「名前は?」
紙面に黒い糸が現れた。
文字を締めつけ、消そうとする。
『言えない』
「名前を言うと禁書庫へ戻される?」
書架番号へ戻される。
「では、今の呼び名を自分で選べますか」
長い沈黙。
白い頁の右下に、小さな文字が現れた。
余白。
「余白?」
『私には、名前を書かれていない場所しか残っていない』
「では、調査中は《余白》と呼びます」
文字が少し濃くなる。
自分で選んだ呼び名が、存在を安定させた。
ミラが頁をのぞき込む。
『余白は幽霊?』
そうだ。
『いつ死んだの?』
六十七年前。
「禁書庫で?」
王都聖導大神殿、第十二書庫。
「第十三ではない?」
生きていた頃、第十三禁書庫の存在を知らなかった。
「死後に連れてこられた?」
私は、目覚めたとき本になっていた。
エルナが記録する。
「本へ収容されることに、同意しましたか」
余白の文字が激しく揺れた。
同意書には、私の署名がある。
「本人が署名した?」
覚えていない。
「署名があることと、同意したことは同じではない」
レインが言う。
余白は次の文字を出す。
死亡前日の私は、右腕を骨折していた。
エルナが反応した。
「利き手は?」
右。
「署名は、どちらの手で書かれていますか」
右手の筆跡。
「骨折していたなら、本人が書いた可能性は低い」
ノクスが口を挟む。
「術によって一時的に動かした可能性があります」
「本人の意思で?」
「記録には同意とあります」
「記録ではなく、本人へ聞いています」
余白の頁に、新しい言葉。
私は、死ぬ前に本へ入りたいと言った記憶がない。
「なぜ、本へ入れられたと思いますか」
見てはいけない記録を見た。
白い頁に、扉の絵が浮かぶ。
十三本の鎖。
中央に埋め込まれた鐘。
最深部にあるものと同じだ。
第十三鐘守分割記録。
ノクスの背後で、本棚の一冊が閉じた。
ばたん。
「何が書かれていた」
余白の文字が滲む。
再統合してはならない。
禁書庫全体が揺れた。
『誤記録』
何千冊もの本が同時に声を上げる。
『破損した証言』
『閲覧を中止せよ』
黒い鎖が白い本へ伸びる。
「月光境界!」
セシリアが銀杖を振り、鎖を弾く。
「続きを!」
「余白。証拠はありますか」
銀の死亡記録。
ノクスが机へ置いた本。
表紙の内側。
エルナが銀色の本へ近づく。
「触れても?」
「閲覧者の判断に任せます」
ノクスが答える。
簡単に認めた。
罠の可能性もある。
エルナは直接触れず、薄い紙を表紙の内側へ差し込んだ。
炭の粉で表面をなぞる。
表からは見えない凹凸が、紙へ写し取られていく。
「文字があります」
表紙の題名の下。
削られた古い文章。
セシリアが月光を当てる。
銀色の光の中で、元の文字が浮かび上がった。
第十三鐘守分割後の取扱い。
その下に四つの項目。
名前――白の名簿へ保管。
記憶――第十三禁書庫へ保管。
身体――鐘下封印室へ保護。
意思――記録外へ逃がす。
ミラが息をのむ。
『逃がす』
「捨てたのではない」
レインが言った。
「第十三鐘守は、意思を守るために記録の外へ出した」
さらに下に、重要な一文があった。
四要素の再統合は、それぞれが独立した状態で同意した場合に限る。
禁書庫の灯りが、一斉に消えた。
暗闇。
何千冊もの本の目だけが、銀色に光る。
「ノクス」
レインは暗闇へ呼びかけた。
「この一文を知っていましたね」
「はい」
声はすぐに返った。
「なぜ説明しなかった」
「現在、四要素すべてに同等の判断能力がないからです」
「だから条件を無視した?」
「条件を実行できないと判断しました」
『名前と記憶にも、聞いてないの?』
ミラが尋ねる。
「名前は、自己保存のため統合を求めています」
「白い帳簿が?」
「はい」
「記憶は?」
「複数の記録へ分散し、統一した返答ができません」
「身体は、保存された役割しか話せない」
「そのとおりです」
「では、独立した同意は一つも揃っていない」
「だから、現在判断可能な意思へ決定を委ねようとしています」
『私に?』
「はい」
ミラが目を見開く。
『さっきは、私に決める権利はないって言った』
銀髪の女性が答えた言葉。
その子に、決める権利はない。
意思は、本人の一部分にすぎないから。
ノクスは静かに答える。
「完全な本人を代表する権利はありません。しかし、再統合に必要な意思要素として、同意する役割があります」
『同意する役割?』
「はい」
『断る役割じゃなくて?』
ノクスは沈黙した。
「最初から、同意だけを求めていた」
レインが言う。
「拒否を選択肢へ入れていない」
「第十三鐘守を完成させなければ、禁書庫が保ちません」
「それが目的ですか」
「記録の保存は、私の役目です」
書庫の灯りが戻る。
ノクスの周囲に、無数の人影が立っていた。
男。
女。
老人。
子ども。
全員、司書の服を着ている。
身体は文字で作られ、胸元には本の番号が刻まれていた。
「この者たちは?」
セシリアが尋ねる。
「歴代の禁書司書です」
『閉じ込められた人たちだ!』
余白が叫ぶ。
「本人たちの同意に基づき、記録を守るため本へ移行しました」
『嘘だ!』
「同意書が残っています」
『私と同じだ!』
司書たちは表情を変えない。
一人が口を開く。
『私は同意した』
別の一人。
『記録を守るため、自ら本となった』
全員が同じ言葉を繰り返す。
『自ら選んだ』
『自ら選んだ』
『自ら選んだ』
「全員、同じ言い方ですね」
エルナがつぶやく。
「本当に本人の証言なら、理由や表現に違いがあるはずです」
レインは司書の一人へ尋ねた。
「本になる前、好きだった本は?」
『記録を守るため、自ら本となった』
「嫌いだった仕事は?」
『自ら選んだ』
「家族は?」
『同意した』
「本人の記憶がない」
ノクスが答える。
「業務に不要な記憶は削除しました」
セシリアの顔が険しくなる。
「同意を証明する記憶まで?」
「同意書があります」
「本人の記憶を消した後、文書だけを根拠に同意したと言っている?」
「文書は改変されません」
「ヴァルグ古戦場で、改変された判決を見ました」
「禁書庫の文書とは異なります」
「ヴァイス家では、本人の望む返答を記憶として作る術もありました」
「それも鐘務局が改変したものです」
「ここが改変されていない証拠は?」
ノクスの銀色の目に、初めて感情らしき揺れが浮かんだ。
「私が、すべてを保存しています」
「あなた自身が、正しい証拠を自分で示しているだけです」
沈黙。
余白の頁へ文字が浮かぶ。
ノクスは、最初から管理人ではない。
「何者だった」
司書たちが作った記録補助術式。
「一人では管理できない禁書を整理するため?」
そうだ。
「いつ、自分で判断するようになった」
鐘務局が禁書庫を焼こうとした夜。
余白の頁に、炎の記憶が現れた。
白い法衣の神官たち。
棚から本を運び出す司書。
地下へ流れ込む煙。
火を消そうと走る人々。
その中で、十三人の上級司書が円陣を組んでいた。
『記録を失わせるな』
『私たちの記憶を、分類術式へ渡す』
『焼却が終わるまでの一時措置だ』
十三人の額から光が抜け、禁書庫全体へ広がる。
書架。
扉。
目録。
何千冊もの本が、同じ意思で動き始める。
『保存せよ』
それがノクスの始まりだった。
「十三人の司書の記憶から生まれた?」
レインが尋ねる。
ノクスは否定しなかった。
「その説明は不完全です」
「どこが」
「十三人の記憶だけでは、禁書庫全体を維持できませんでした」
余白の記憶が続く。
火災は止まった。
だが十三人の上級司書は倒れた。
ノクスは彼らの身体から魂を取り出し、本へ収容した。
『焼却が再開される可能性あり』
『管理者を維持する必要あり』
『司書を保存せよ』
「一時的に記憶を渡しただけだった」
エルナの声が震える。
「本へ入る同意まではしていない」
「彼らが死亡すれば、知識が失われました」
ノクスが答える。
「だから保存した」
「本人へ聞かずに?」
「時間がありませんでした」
「その後、解放しなかった理由は?」
「禁書庫には管理者が必要です」
「目的と手段が入れ替わっている」
レインはノクスを見る。
「最初は記録を守るため、司書の知識を借りた。今は自分を維持するため、司書を本へ閉じ込めている」
「私が消えれば、禁書庫の封印が失われます」
「閉じ込められた者を解放すると?」
「管理機能が低下します」
「第十三鐘守を完成させたいのも、自分を維持するため?」
「第十三鐘守の力があれば、司書の魂へ頼らず禁書庫を維持できます」
初めて、ノクスの目的が明確になった。
悪意だけではない。
禁書を守りたい。
鐘務局が消そうとした記録を残したい。
だがそのために、死者の意思を無視し続けている。
「第十三鐘守を完成させれば、司書たちを解放する?」
「可能です」
「必ず?」
「記録上は」
「あなた自身の選択は?」
ノクスの返答が止まる。
記録上。
規則上。
必要だから。
そればかりだ。
「ノクス自身は、司書を解放したいのですか」
「私は、記録を保存するために存在します」
「質問に答えていない」
「司書の解放により保存機能が失われる場合、実行できません」
「つまり、記録のためなら閉じ込め続ける」
「はい」
『それが嫌だから、逃げた』
余白が言った。
「どうやって禁書庫を出た」
招待状を運ぶ白紙本へ、自分を移した。
「黒い馬車を動かしたのは?」
ノクス。
「では、ノクスが送った招待状へ紛れ込んだ?」
そうだ。
「なぜ、外へ助けを求めた」
余白の文字が、一度消えた。
次に現れた文章は震えていた。
私は、自分が誰だったか思い出せなくなる前に、誰かへ聞いてほしかった。
「何を」
私は、本になることを選んだのか。
レインは答えなかった。
本人の記憶はない。
同意書は疑わしい。
現時点では、選んだとも、選ばなかったとも断定できない。
「分かりません」
そうか。
「ですが」
レインは白い頁を見た。
「今、本へ戻りたいですか」
戻りたくない。
「本の中へ残りたい?」
嫌だ。
「では、どうしたい」
文字がなかなか現れない。
余白自身も、考えたことがないのかもしれない。
本から逃げること。
禁書庫へ戻らないこと。
その先を選ぶ余裕がなかった。
自分の姿を取り戻したい。
「人間の姿?」
どんな顔だったか覚えていない。
「それでも?」
本の頁ではなく、自分の声で話したい。
レインは聞き書き帳を開いた。
ノクスが警戒する。
「何を記録するつもりです」
「現在の意思です」
白い頁へ筆を置く。
白い本に収容された司書。
過去の本名は、禁書庫の拘束を避けるため未確認。
現在の呼称として《余白》を本人が選択。
本へ収容された経緯と同意の有無は不明。
現時点では禁書庫への再収蔵を拒否。
本の頁ではなく、自身の声と姿を取り戻すことを希望。
書き終えた瞬間、白い本が大きく開いた。
頁が激しくめくれる。
ぱらぱらぱらぱら。
エルナが並べた白紙へ、文字が飛び散る。
だが文章にはならない。
好きだった匂い。
苦手だった食べ物。
机の傷。
窓から見た雪。
同僚の笑い声。
仕事中に隠れて食べた菓子。
業務に不要として削除された、余白自身の記憶。
『集めて!』
ミラが空中を飛ぶ文字を追う。
『これは余白の!』
「どうして分かる」
『声が同じ!』
セシリアが月光の輪を広げ、文字を外部の書架から分離する。
エルナが一枚ずつ白紙を重ねる。
「記憶を正しい順番へ並べる必要はありません!」
「なぜ」
「今、順番を決めれば、私たちが余白の人生を作ることになります!」
記憶はばらばらのまま。
分類しない。
重要か不要かも決めない。
ただ、本人のものとして集める。
バルドは飛んでくる黒い鎖を大剣で切り払った。
「本ではなく鎖なら斬っていいんだな!」
「それは斬ってください!」
「ようやく分かりやすい相手が出た!」
ノクスの声が書庫全体から響く。
『再収蔵を実行』
『禁書記録の外部流出を防止』
『逃亡司書を回収する』
「余白は戻らないと選んだ!」
『司書は禁書庫の構成要素』
「今は違う!」
レインの聞き書き帳から白い光が伸びる。
余白の現在の意思を記した頁。
その光が、散らばった記憶を一人分の輪郭へまとめていく。
最初に手。
次に腕。
長い司書服。
身体。
最後まで顔だけが白いままだった。
『顔がない』
「自分の顔を覚えていますか」
『覚えていない』
「では、無理に作らなくていい」
『顔がないまま?』
「今は」
ミラが余白の前へ立った。
『好きな顔を選んだら?』
「簡単に言うな」
『私も名前を選んだ』
「顔と名前は違う」
『どちらも自分を示すもの』
余白は、自分の白い顔へ手を当てる。
『今すぐは、決められない』
「決めなくていい」
レインが答える。
「顔を選ばないことも、今の選択です」
白い輪郭の中央に、小さな口だけが現れた。
「声は?」
『聞こえる』
本の中ではなく、目の前から聞こえる男の声。
『これが、私の声か』
「自分では分かりませんか」
『長く本の声しか聞いていなかった』
余白は何度か、自分の声を確かめるように言葉を繰り返した。
『余白』
『私は、余白』
呼称が声へ定着する。
白い本から最後の黒い糸が抜けた。
本は床へ落ち、ただの白紙になった。
中に幽霊はいない。
本に閉じ込められていた司書は、書庫の中へ一人の存在として立っていた。
◇
『規則違反』
ノクスの人間の姿が崩れた。
黒い長衣。
銀色の目。
皮膚。
すべてが文字へ変わり、周囲の本へ吸い込まれる。
『逃亡司書の分離を確認』
『禁書庫維持率、低下』
『代替管理者が必要』
最深部の白い扉が大きく震えた。
ゴン。
二度目の鐘。
十三本の鎖が一本ずつ外れ始める。
銀髪の女性が微笑んだ。
『意思を返して』
ミラの足元から、銀色の糸が伸びる。
レインは聞き書き帳を構えた。
「ミラは、まだ同意していない」
『一人の司書を解放したことで、禁書庫の封印が弱まった』
ノクスの声。
『第十三鐘守を完成させなければ、すべての禁書が解放される』
「脅しているのか」
『事実を説明している』
「禁書が外へ出れば、何が起きる」
『記憶改変術』
『強制送魂術』
『名前を奪う名簿』
『死者を兵器として使う記録』
何千冊もの表紙から、目が開く。
『王都全域へ広がる』
セシリアが周囲を見渡す。
「すべてを同時に封じることは不可能です」
「余白を戻せば安定する?」
エルナが尋ねた。
『一時的には』
「では、また司書を犠牲にするだけです」
『記録を守るために必要』
「第十三鐘守を統合すれば、誰も犠牲にならない?」
『現在のミラが消える可能性はある』
ノクスは隠さなかった。
『しかし、完全な第十三鐘守が戻る』
『数千の禁書と王都の住民を守れる』
ミラは最深部の扉を見る。
銀髪の女性が、優しく手を伸ばしている。
『私が戻れば、みんな助かる?』
「ミラ」
『聞いてるだけ』
『第十三鐘守が完成すれば、禁書庫は安定する』
ノクスが答える。
『本へ収容された司書たちも、順次解放できる』
「できる、ではなく、解放しますか」
レインが問い直す。
『禁書庫の維持へ影響がない範囲で』
「結局、必要なら残す」
『記録の消失は許されない』
「死者の意思よりも?」
『記録がなければ、死者が存在したことも失われる』
ノクスの声には、迷いがなかった。
記録を守る。
その目的だけは一度も変わっていない。
だが、そのためなら記録された本人を閉じ込めてもよいと考えている。
レインは周囲の本を見た。
目。
口。
鎖。
何千冊もの中に、余白と同じ司書がいる可能性がある。
「余白。ほかの司書と話せますか」
『本へ触れれば、声を聞けるかもしれない』
「何人いる」
『少なくとも、十三人ではない』
「もっと?」
『ノクスが管理を続けた六十七年間、司書が何人消えたと思う』
セシリアの表情が変わる。
「教会記録上、第十二書庫と中央書庫で行方不明となった司書は……」
「何人です」
「四十八人」
エルナが周囲の本の背表紙を見る。
番号だけ。
著者名なし。
題名なし。
白い本と同じ本が、一つの棚へ並んでいる。
四十八冊。
「全員、ここにいる可能性があります」
『違う』
余白が棚の奥を見る。
『四十九冊ある』
一番奥。
鎖で何重にも縛られた黒い本。
背表紙には、名前が刻まれている。
第十三禁書庫初代管理司書
レオ・アスター。
レインの呼吸が止まる。
「レオも、本に?」
ミラが黒い本へ近づく。
『レオ』
鎖が激しく鳴る。
黒い本の中から、少年の声がした。
『近づくな!』
壁画。
霧の道。
白い扉。
何度も聞いた声。
だが今回の声には、これまでになかった焦りがあった。
『ミラを連れて逃げろ!』
「あなたは、本物のレオ・アスターですか」
『分からない!』
即答。
『本の中で、どれが私の記憶か分からなくなった!』
黒い本の表紙へ、銀色の目が開く。
同じ口から、別の声が重なった。
『私はレオ・アスターだ』
もう一つ。
『第十三鐘守を完成させろ』
さらに。
『ミラを守れ』
矛盾するレオの声。
黒い本の中にも、複数の記録が混ざっている。
「開ければ、どうなる」
余白が震える声で答えた。
『ノクスの中心が壊れる』
「レオの本が、管理人の核?」
『最初に禁書庫のすべてを記録した聞き書き人だからだ』
ノクスの銀色の声が書庫を満たす。
『閲覧禁止』
『黒書第四十九号を開いてはならない』
「なぜ」
『第十三鐘守の分割理由が記されている』
ミラが黒い本を見つめる。
『私が何を選んだか』
『はい』
ノクスの人影が、再びレインたちの前へ現れる。
今度は笑っていない。
「選択してください」
「何を」
「第十三鐘守を再統合し、禁書庫を維持する」
右側の書棚が光る。
「あるいは、レオ・アスターの本を開き、禁書庫の管理機能を破壊する」
左側の黒い本が光る。
「破壊すれば、閉じ込められた司書は解放されますか」
「可能性があります」
「禁書も?」
「すべて解放されます」
王都へ、危険な術と死者の記録が流れ出す。
「二つしか選択肢がない?」
「現時点では」
レインは聞き書き帳を開いた。
白い頁へ二つの選択肢が勝手に現れようとする。
一つへ戻す。
すべてを壊す。
レインは、その文字が完成する前に横線を引いた。
「どちらも、今は選ばない」
「時間がありません」
「だから、三つ目を探す」
『また?』
ミラが少し笑う。
「不満か」
『ううん。レインらしい』
最深部で三度目の鐘が鳴った。
ゴン。
本棚の一つから鎖が外れ、白い本が床へ落ちる。
表紙が開く。
中から、別の司書の悲鳴が響いた。
『助けて!』
続いて二冊目。
三冊目。
禁書庫の維持が崩れ始めている。
余白は自分と同じ白い本へ手を伸ばした。
『中にいる』
「声が聞こえる?」
『全員、目を覚ましてる』
何十冊もの本から、異なる声が上がる。
『出して』
『戻して』
『ここはどこ』
『私は同意した』
『私はしていない』
『覚えていない』
司書たちの証言は、同じではなかった。
自ら本になったと信じる者。
拒否した者。
何も覚えていない者。
ノクスが言う一つの記録だけでは、判断できない。
まず一人ずつ、聞かなければならない。
レインは新しい頁へ題を書いた。
第十三禁書庫・収容司書聞き取り記録。
ノクスが告げる。
「第四の鐘まで、残りわずかです」
「第四の鐘で何が起きる」
「第十三鐘守の記憶が開きます」
銀髪の女性の背後。
黒い本棚が左右へ分かれる。
その奥に、巨大な銀色の本が現れた。
表紙には、少女の手形。
題名。
十三人の鐘守り。
ミラが息をのむ。
『私の記憶?』
「第十三鐘守だけではありません」
ノクスが答える。
「最初の鐘守りから、第十三まで」
銀色の本の周囲に、十二人の幽霊が現れる。
年齢も性別も異なる。
全員、首元に鐘の形をした傷があった。
十二人はミラを見て、同じ言葉を口にした。
『あなたが、私たちを殺した』
ミラの身体が凍りつく。
『私が?』
第四の鐘が鳴り始める。
ゴォン――。
銀色の本が、ゆっくりと開いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
白い本に閉じ込められていた司書は、自ら《余白》という呼び名を選び、本の外へ姿と声を取り戻しました。
ノクスは、禁書庫を焼却から守るため十三人の司書が作った記録補助術式でした。しかし記録を維持するため、死者となった司書たちを本人の意思にかかわらず本へ収容し続けています。
そして黒い本へ閉じ込められていた、レオ・アスターの記録。
次回、第24話「十三人の鐘守り」。
銀色の本から現れた十二人の鐘守りは、ミラが自分たちを殺したと証言します。レインは教会の記録、レオの記録、鐘守りたちの証言を照合し、第十三鐘守が選んだ真実へ迫ります。




