第21話 愛しているという嘘
ヴァイス邸の記憶保管室には、まだ一つの記憶が歩いていた。
それはアルノーよりも昔に生まれ、「愛している」という言葉を使って相手の記憶を書き換えるもの。
レインたちは、ヴァイス家が隠してきた最初の嘘を調べる。
『まだ一つ、歩いてる』
ミラが、西廊下の奥を見つめていた。
「誰の記憶だ」
『アルノーじゃない』
壁の内側で、銀色の目が開く。
『愛しているという嘘を、最初に教えた人』
レインたちの背後で、鏡が一枚ずつ曇り始めた。
記憶保管室は封鎖した。
中央鏡の接続も切った。
それでも西廊下に置かれた小さな装飾鏡、肖像画を覆うガラス、窓に残った雨粒までもが、同じ光景を映し出している。
白い石造りの部屋。
暖炉。
椅子に座る一人の女性。
その前に、黒髪の男性が立っていた。
男は女性の両肩へ手を置き、穏やかに言う。
「愛している」
女性は答えない。
「愛しているよ」
再び男が言う。
女性の口元が、本人の意思とは無関係に持ち上がる。
「私も、愛しています」
その声は、鏡から聞こえた。
椅子に座る本物の女性は、何も言っていない。
「過去の記憶ですか」
セシリアが銀杖を構える。
「死霊反応はありません」
「記憶保管室が作られた頃の場面でしょうか」
エルナは西廊下の鏡へ布をかけた。
だが映像は消えない。
布の表面に、同じ男女が現れる。
「鏡がなくても再生できる」
「屋敷全体へ染み込んでいるのかもしれません」
バルドが壁を手の甲で叩いた。
「なら、屋敷を壊すか」
「毎回、最初に壊す提案をしないでください」
「最後には壊すことになる場合が多い」
「今回は壊しません」
「まだ決めるのは早いだろう」
映像の中で、男が三度目の言葉を口にする。
「愛している」
女性の身体から、黒い煙のようなものが抜けた。
怒り。
拒絶。
恐怖。
言葉にならない感情が、部屋の壁へ吸い込まれていく。
代わりに鏡の中の女性が笑う。
「私も、愛しています」
『嫌がってる』
ミラがつぶやく。
「どちらが」
『椅子にいる人』
映像は笑顔しか映していない。
それでもミラには、女性が感じていた恐怖が伝わっているらしい。
「アルノー」
レインは、妻の寝室前に立つ当主を見る。
「この二人を知っていますか」
アルノーは廊下の映像を見つめていた。
「初代当主オルフェン・ヴァイスと、その妻セルマだと思う」
「記憶保管室を作った人物?」
「家に伝わる話では、オルフェンが亡くなった妻を忘れないために作った」
「この女性は、まだ生きています」
映像のセルマは椅子へ縛られている。
手首を覆う長い袖の下に、革の拘束具が見えた。
「伝承と違いますね」
エルナが記録を始める。
「記憶保管室が作られた時点で、セルマは存命だった」
「では、亡くなった妻へ話しかけるための術ではなかった?」
セシリアが問う。
「少なくとも最初からではありません」
レインは、映像の部屋を観察した。
椅子の隣に、小さな机がある。
机には黒い箱。
記憶箱だ。
その横に、見覚えのある紋章が刻まれている。
月輪の中央に、黒い鐘。
「鐘務局」
セシリアの表情が険しくなる。
「ヴァイス家の術にも、鐘務局が関わっていた」
『あの人もいる』
ミラが、映像の奥を指した。
暖炉の横。
白い法衣を着た人物が立っている。
顔は薄い布で覆われている。
胸には黒い鐘の紋章。
両目だけが、布の奥で銀色に光っていた。
『私の名前を知ってる人と同じ目』
「同一人物ですか」
『分からない。でも、同じ感じがする』
白い神官は、オルフェンへ小さな手鏡を渡した。
『相手の目を鏡へ映し、望む言葉を三度告げなさい』
「神官の声が聞こえるのか」
『うん』
『一度目で、拒絶した理由を鏡へ移す』
『二度目で、拒絶した記憶を薄くする』
『三度目で、望む返答を記憶として与える』
セシリアが息をのむ。
「記憶鐘の仕組みと同じです」
「名前の代わりに、拒絶する記憶を取り除く」
「本人の一部を剥がし、別の記録を入れる」
ミラは神官の声を聞き続ける。
『術を使う言葉は、何でもよい』
『ただし、相手が信じたい言葉ほど深く入る』
オルフェンが尋ねる。
「最も強い言葉は?」
神官は迷わず答えた。
『愛している』
廊下の温度が下がった。
『人は、その言葉を疑った自分を責める』
『愛されているのに拒む自分が悪いと思う』
『だから、ほかの命令よりも強く記憶へ入る』
レインは拳を握った。
「愛情を利用した命令術」
「術そのものより、相手が持つ罪悪感を使っています」
エルナが言う。
「愛していると言われた。だから許さなければならない。応えなければならない。疑ってはいけない」
『愛されるのは、嬉しいことじゃないの?』
ミラが尋ねる。
「嬉しい場合もある」
「ですが、言葉を受け取った者が、同じ気持ちを返す義務はありません」
セシリアが答えた。
「愛しているという言葉は、命令ではないはずです」
『でも、この人は命令にした』
「ああ」
映像の中で、セルマが顔を上げた。
目から涙が流れている。
「あなたが愛しているのは、私ではない」
オルフェンの表情が変わる。
「何を言っている」
「あなたを愛している私よ」
「同じことだ」
「違う」
セルマは鏡の中で笑う自分を見た。
「私は怒る。迷う。あなたを嫌う日もある。離れたいと思うこともある」
「疲れているだけだ」
「それも私なの」
「私は、お前を苦しみから救おうとしている」
「私が望んでいない方法で?」
「時間が経てば分かる」
「その言葉を何度繰り返すの」
オルフェンは手鏡を握りしめた。
「愛している」
セルマの身体から、さらに感情が抜かれる。
しかし彼女は歯を食いしばり、言葉を返さなかった。
「愛している」
鏡の中のセルマが笑う。
「私も、愛しています」
本物は言わない。
三度目。
「愛している」
セルマの唇が強制的に動き始める。
その直前、彼女は隣の机にあった筆を取った。
鏡の表面へ、赤い文字を書く。
私が何も拒まなくなったなら、それは私ではない。
鏡が激しくひび割れた。
映像が途切れる。
西廊下の壁から赤い文字が浮かび上がった。
私が何も拒まなくなったなら、それは私ではない。
「この言葉が、鏡の術を完全には完成させなかった」
エルナが壁を調べる。
「本人が自分自身を示す記録を残したからです」
「リディアたちを戻したときと同じだ」
現在の選択。
迷い。
拒絶。
保存された記憶と異なる答え。
それが本人を識別する基準になった。
「セルマは聞き書き人だったのですか」
セシリアが尋ねる。
「帳面は持っていません」
「しかし、本人の意思を言葉へ固定する方法を知っていた」
エルナが壁の文字を読み進める。
「鏡術の開発者は、オルフェンではありません」
「セルマ?」
「はい」
文字の下に、小さな署名があった。
証言鏡術式設計者――セルマ・エーデル。
「ヴァイスではない」
「結婚前の姓でしょう」
さらに古い文字。
忘れられた者の証言を、後世へ残すために。
レインは周囲の鏡を見る。
セルマが作ろうとしたのは、幸福な記憶を保存する道具ではなかった。
死者や弱い立場の者。
その場で証言を聞いてもらえない者。
彼らが見たことを後世へ残すための鏡。
証言鏡。
それをオルフェンと鐘務局が、人間の記憶を書き換える術へ変えた。
「最初から、道具が悪かったわけではない」
レインが言った。
「使う者が目的を変えた」
「記録するための仕組みを、望む答えを作る仕組みへ変えた」
エルナは悔しそうに鏡を見た。
「書物でも同じです。記録を残す者が、都合の悪い部分を除けば、後世には別の歴史が残る」
「教会も同じことをした」
セシリアの声は低かった。
「死者の選択を確認する仕組みを、強制送魂へ変えた」
記憶鐘。
証言鏡。
聞き書き帳。
本来は、誰かの声を残すための道具だった。
だが記録する者が命令を始めれば、声を奪う道具へ変わる。
◇
西廊下の奥から、靴音が聞こえた。
こつ。
こつ。
七歩。
止まる。
今度現れたのは、セルマだった。
映像ではない。
青白く透けているわけでもない。
生者と同じ色を持つ、記憶の姿。
彼女は壁の中から歩き出し、レインたちの前に立った。
「あなたが、今も歩いている記憶ですか」
セルマは答えず、アルノーを見る。
その顔が、少しずつリディアへ変わる。
「愛している」
アルノーの声で言った。
次にオルフェン。
「愛している」
初代当主の声。
最後に、銀色の目を持つ神官。
『愛している』
聞いた者の心へ直接入り込む声。
レインの頭の中に、父ダリオの姿が浮かぶ。
「お前のためだ」
父は言ったことがない。
だが父の顔を使って、望ましい言葉が作られている。
「死者の声を聞くのをやめろ」
「危険だからだ」
「お前を愛しているから、私の言うとおりにしろ」
偽物だ。
それでも父の姿で言われると、一瞬だけ心が揺れる。
セシリアの前には、教会の上司らしき神官が現れていた。
「教会はあなたを守ってきた」
「疑うことは裏切りです」
「愛されているなら、従いなさい」
セシリアの銀杖を持つ手が震える。
バルドの前には、五人の部下。
「隊長を恨んでいません」
「だから、もう私たちのことを忘れてください」
「隊長を思って言っています」
バルドの顔が苦しそうに歪む。
エルナの前には、王立記録院の研究者たち。
「あなたの知識を評価している」
「だから、資料をすべて渡しなさい」
「所有者の許可など必要ありません。研究のためです」
誰もが、拒みにくい言葉を使われている。
『レイン』
ミラの声。
目の前に、現在のミラと同じ姿が現れた。
『私はレオに会いたい』
「本物のミラは隣にいる」
だが隣を見ると、本物も鏡のミラも同じ顔をしている。
『私のために、白い帳簿を開いて』
片方が言う。
『過去の名前を取り戻して』
『私を大切に思っているなら、してくれるでしょう?』
レインは目を閉じた。
声を聞く。
偽物は、レインが断りにくいように言葉を選んでいる。
本物のミラなら、頼みはする。
だが、レインの気持ちを理由に命令するだろうか。
「本物に質問する」
二人のミラが同時にレインを見る。
「俺が白い帳簿を開きたくないと言ったら、どうする」
一人は即答した。
『私のために開いて』
もう一人は不満そうに頬を膨らませた。
『理由を聞く』
「それでも断ったら?」
『勝手に開ける方法を考える』
「それも困るな」
『でも、レインに私を大切に思っているなら開け、とは言わない』
「なぜ」
『大切に思うことと、私の言うことを聞くことは別だから』
偽物のミラの顔に亀裂が走った。
本物が自分で選んだ答え。
記憶が予測した、都合のよい返答とは違う。
「お前が本物だ」
『分かるのが遅い』
「申し訳ない」
ミラは偽物へ向き直る。
『愛しているって言われたら、何でもしていいの?』
記憶の集合体は、銀色の目を開いた。
『愛は拒絶より強い』
『違う』
ミラは首を横に振る。
『嫌なものは嫌』
『愛されていても?』
『愛されていても』
『相手が傷ついても?』
『傷つかない方法は一緒に考える。でも、嫌なものを受け入れなくてもいい』
銀色の目が揺れる。
ミラには、生前の恋愛や家族の記憶がほとんどない。
それでも、今まで出会った死者たちから学んでいる。
自分で名前を決めた者。
旅立ちを選んだ者。
残ることを選んだ者。
許さないと決めた者。
「全員、自分の言葉で答えてください」
レインが呼びかけた。
「愛や信頼を理由に、従うよう求められている言葉へ」
セシリアが最初に口を開いた。
「私は教会を信じたい」
偽の神官が笑う。
「なら、従いなさい」
「ですが、今の教会を疑っています」
偽の姿が揺れる。
「信じたい気持ちと、疑わないことは同じではありません」
セシリアの前から神官が消える。
次にバルド。
「俺は部下を守れなかった」
五人の部下が言う。
「隊長のせいではありません」
「俺にも責任はある」
「忘れてください」
「忘れん」
バルドは大剣を背負ったまま、部下たちを見る。
「お前たちを大切に思っている。だからこそ、都合のいい言葉で許されたことにはしない」
五人の姿が光へ変わる。
エルナは震える指で眼鏡を押し上げた。
「私は知りたい」
研究者たちが言う。
「なら、資料を持ち帰れ」
「所有者の同意がなくても調査したいと思うことがあります」
「研究のためなら正しい」
「正しくありません」
「知識が失われる」
「失われる可能性があっても、他者の記憶を私の所有物にはできない」
研究者たちが消える。
最後にアルノー。
目の前にはリディアが立っていた。
記憶の中の、いつも笑っている妻。
「愛しているわ」
アルノーの目から涙が落ちた。
「私も愛している」
「なら、私を元に戻して」
「幸せだった頃の私へ」
「あなたを拒まない私へ」
アルノーはしばらく答えられなかった。
寝室では、本物のリディアが眠っている。
目覚めた彼女は、夫を愛しているか分からないと言った。
別れる可能性もある。
許さない可能性もある。
「私は」
アルノーは胸を押さえた。
「あなたに愛されたい」
記憶のリディアが笑う。
「では、戻して」
「でも、それはあなたではない」
笑顔に亀裂が入る。
「私はリディアを愛していると言った」
「愛しているわ」
「それなのに、リディアが私を拒む理由を消した」
「愛しているわ」
「私が愛していたのは、私を愛してくれるリディアだった」
「愛しているわ」
「あなたではない」
アルノーは、記憶の妻をまっすぐに見た。
「私が作らせた、都合のいい返事だ」
リディアの姿が崩れた。
その中から、セルマが現れる。
拘束された女性。
鏡へ自分の拒絶を記録した人物。
「あなたが愛しているのは、あなたを愛する私」
アルノーは頭を下げた。
「そうだった」
セルマの身体から赤い文字があふれ出した。
私が何も拒まなくなったなら、それは私ではない。
文字が西廊下を埋める。
記憶の集合体が苦しむように形を変えた。
オルフェン。
アルノー。
リディア。
ミラ。
レイン。
誰の姿にもなれず、最後には銀色の目だけが空中へ残った。
『愛しているという言葉を否定するのか』
「否定しない」
レインは答えた。
『なら、従え』
「愛情は、相手の選択を消す許可ではない」
『相手が間違えていても?』
「間違えている理由を話す」
『聞かなければ?』
「距離を置くこともできる」
『救えなくても?』
「救うという言葉で縛らない」
銀色の目が細くなる。
『それでは、人は離れていく』
「離れることを選ぶ者もいる」
『愛されなくなる』
「それでも、偽物の返事を作るよりはいい」
銀色の目は、ミラを見た。
『第十三も、いずれお前から離れる』
「そうかもしれない」
『怖くないのか』
「怖い」
レインは正直に答えた。
「だからといって、ミラの記憶や名前を変えて、そばに残るようにはしない」
ミラが少し驚いたようにレインを見る。
『私、離れるの?』
「可能性の話だ」
『今は離れない』
「分かっている」
『でも、いつか決めるかも』
「ああ」
『そのときは?』
「話を聞く」
『止める?』
「止めたい理由は伝える」
『それでも行くって言ったら?』
レインは少し考えた。
「見送る」
ミラは不満そうな顔をした。
『簡単に見送られるのも嫌』
「では、どうしてほしい」
『引き止めてほしい。でも最後は決めさせて』
「難しい要求だな」
『生きてる人も幽霊も、難しいんでしょう』
「そうだな」
銀色の目の周囲に亀裂が走る。
記憶の集合体には理解できない会話だった。
引き止める。
しかし強制しない。
大切に思う。
だが所有しない。
矛盾しているようで、人間の関係はその間にある。
『不完全』
「それでいい」
『不安定』
「変わるからな」
『記録できない』
「一文へまとめる必要はない」
銀色の目が割れた。
内部から、小さな鏡が落ちる。
レインが受け止めようとしたが、指をすり抜けた。
ミラが両手でつかむ。
幽霊側にある鏡だった。
表面には、セルマの顔が映っている。
『聞き書き人』
セルマの記憶が呼びかけた。
「あなたは本人ですか」
『本人ではない』
即答だった。
『セルマ・エーデルが、自分の意思を失う前に残した証言』
「何を伝えたい」
『証言鏡は、鐘務局へ奪われた』
「ヴァイス邸以外にもある?」
『王都の地下』
「場所は」
セルマは鏡の縁を指でなぞった。
黒い鐘の紋章が現れる。
その下に十三冊の本。
さらに、扉を示す印。
『第十三禁書庫』
セシリアが顔を上げた。
「教会の禁書庫?」
『鐘務局が改変する前の記録を集めた場所』
「十三人の鐘守りについても?」
『ある』
ミラが鏡へ近づく。
『私の記録も?』
セルマは少女を見る。
『第十三鐘守の記録は、二つある』
「二つ?」
『教会が作った記録』
『そして、レオ・アスターが隠した記録』
「どちらが正しい」
『どちらも不完全』
セルマの記憶は、レインと同じ答えを口にした。
『だから、自分で読み比べなさい』
「どうすれば禁書庫へ入れる」
『招待を待て』
「教会が招待するとは思えません」
『もう、届いている』
鏡の中のセルマが消える。
小さな鏡もミラの手の中で赤い光へ変わった。
最後に一行だけ、空中へ文字が残る。
愛しているという言葉を、同意の代わりに使ってはならない。
文字が消えると、西廊下は完全に静かになった。
もう誰の記憶も歩いていない。
◇
リディアは昼過ぎに再び目を覚ました。
ヨハンとアンナも、短い時間ではあるが会話ができるようになった。
三人の生命状態は安定している。
ただし、失っていた記憶が戻るたび、頭痛や混乱が起きていた。
「すべてを一度に聞かないでください」
セシリアがアルノーへ強く命じた。
「本人たちが話せると思った範囲だけに」
「分かっています」
アルノーの返答に、ミラは何も言わなかった。
嘘ではないらしい。
リディアは、当面アルノーと別の部屋で暮らすと決めた。
屋敷の管理は、回復したヨハンと領内の役人が共同で行う。
記憶保管室は、リディア、ヨハン、アンナ、エルナ、セシリアの同意なしには開けない封印を施した。
「私の同意も必要なのですか」
エルナが尋ねた。
「あなたが術式の構造を最も理解しています」
「責任が重いですね」
「研究資料として持ち出さないための監視役でもあります」
「信用されているのか、疑われているのか分かりません」
「両方です」
エルナは少し考え、うなずいた。
「適切だと思います」
バルドはアルノーへ念を押した。
「壁を勝手に直すな」
「修復は必要です」
「入口が分からなくなる形にはするな」
「はい」
「鏡を別の場所へ運ぶな」
「はい」
「妻に、愛しているから許せとは言うな」
アルノーは顔を伏せた。
「言いません」
「愛していると言うな、とは言っていない」
バルドは珍しく、言葉を選んでいた。
「それで何かを求めるなと言っている」
「分かっています」
「本当に分かっているかは、これからだな」
アルノーは否定しなかった。
◇
ヴァイス邸を出発しようとしたとき、玄関前に一台の黒い馬車が止まった。
教会の紋章はない。
王家の印もない。
御者は黒い外套を着ているが、顔を深い頭巾で隠している。
「どなたです」
セシリアが警戒し、銀杖へ手をかける。
御者は何も答えず、一通の封書を差し出した。
封蝋は銀色。
中央には、十三冊の本と、黒い鐘。
セルマの記憶が示したものと同じ紋章。
「第十三禁書庫」
セシリアの声が緊張する。
「この紋章を、どこで」
御者は答えない。
封書の宛名には、四つの呼び名が記されていた。
教会を疑う神官へ。
死者の選択を記す聞き書き人へ。
失われた歴史を探す学者へ。
幽霊を恐れる剣士へ。
「最後だけ悪意がないか」
バルドが眉をひそめる。
『合ってる』
「黙れ」
ミラが封書をのぞき込む。
『私の名前がない』
「表を見ているからです」
エルナが封書を裏返した。
裏面には銀色の文字が一行。
第十三鐘守は、招待するまでもなく鍵である。
ミラの表情が消える。
「開けます」
セシリアが封蝋へ術をかける。
「待ってください」
レインが止めた。
「罠の可能性があります」
「だから術で確認します」
「教会の禁書庫なのに、あなたへ正式な役職名で届いていない」
「送り主が教会内部とは限りません」
「開けない選択もあります」
セシリアは封書を見つめた。
「開けます」
「理由は」
「教会が隠しているものを、教会の外側にいる誰かだけへ任せたくありません」
「危険かもしれない」
「分かっています」
「処分される可能性も」
「すでに十分、処分の対象です」
セシリアは封蝋を解いた。
中には一枚の黒い紙。
白い文字。
王都聖導大神殿、第十三禁書庫。
七日後、月が最も高く上る刻に開門する。
持参物――
焦げた記憶鐘片。
白い帳簿。
レオ・アスターの聞き書き帳。
入庫条件――
教会の記録を、最初から真実と決めないこと。
死者の証言を、最初から真実と決めないこと。
十三人の鐘守りについて知りたいなら、王都へ来られたし。
最後に、署名があった。
第十三禁書庫管理人
ノクス。
「聞いたことのある名前ですか」
レインが尋ねる。
セシリアは首を横に振った。
「教会の人事記録に、その名の管理人はいません」
「偽名?」
「あるいは、記録から消された人物です」
エルナは黒い紙を光へ透かした。
「紙の年代が判別できません。新しいようにも、数百年前のようにも見える」
「招待状そのものが怪異か」
バルドは黒い馬車を見る。
「御者へ聞けばいい」
全員が顔を上げた。
馬車は消えていた。
雨に濡れた地面にも、車輪の跡がない。
御者が立っていた場所には、一冊の小さな本だけが落ちている。
表紙は真っ白。
題名はない。
レインが近づく前に、ミラが言った。
『この本、死んでる』
「本が?」
『中に、幽霊がいる』
レインにも声が聞こえ始めた。
頁の間から、かすかな男の声。
『開けないでくれ』
「あなたは誰です」
『司書だ』
「ノクス?」
『違う』
「では、名前は?」
本の中の声は答えようとした。
しかし頁から黒い糸が伸び、声を締めつける。
『名前を言えば、禁書庫に戻される』
「禁書庫から逃げてきた?」
『助けてくれ』
白い本の表紙に、黒い文字が浮かんだ。
禁書庫へ来るな。
管理人ノクスは、十三人目の鐘守りを待っている。
次の瞬間、文字が銀色へ変わる。
禁書庫へ来い。
すべての答えがある。
黒と銀。
二つの命令が、同じ表紙で争っている。
レインは本を開かず、封印布で包んだ。
「どうします」
エルナが尋ねる。
「王都へ行きます」
「警告を無視する?」
「警告した声の正体を確認する」
「招待も罠かもしれません」
「だから、記録を持っていく」
セシリアが黒い招待状を畳む。
「七日後です。王都まで四日。準備時間は多くありません」
バルドは大剣を背負った。
「禁書庫に剣は持ち込めるのか」
「通常の禁書庫なら、武器は禁止です」
「通常ではないだろう」
『幽霊も入れる?』
「あなたが鍵だと書かれています」
『開けたら、閉じ込められる?』
「可能性はある」
ミラは少し考えた。
『それでも行く』
「理由は」
『過去の名前を取り戻すためじゃない』
「では?」
『第十三鐘守が何をしたか知りたい』
「同じように聞こえるが」
『名前だけを知っても、私が何を選んだかは分からないでしょう』
ミラは黒い招待状を見る。
『私は、自分が選んだことを知りたい』
レインは聞き書き帳を開いた。
最後の頁を破って以降、勝手な命令は現れない。
白い頁へ、自分の筆で記録する。
次回調査地――王都聖導大神殿、第十三禁書庫。
招待者――管理人ノクス。教会人事記録には存在しない。
持参を要求された物――
焦げた記憶鐘片。
白い帳簿。
レオ・アスターの聞き書き帳。
確認事項――
十三人の鐘守りの記録。
第十三鐘守が選んだ行動。
禁書庫へ封じられた司書の正体。
管理人ノクスの目的。
最後に一行を加える。
招待状も警告も、正しいとは決めない。
白い本が、封印布の中で小さく震えた。
『それでいい』
中の司書が、かすかに言った。
王都。
聖導大神殿。
教会が消してきた死者の記録を集める禁書庫。
そこには、ミラの過去だけではない。
レオ・アスターが隠した記録。
記憶鐘を作り変えた鐘務局。
そして、銀色の目を持つ者の正体が待っている。
ヴァイス邸の西廊下から、最後に一度だけ声が聞こえた。
「愛している」
今度は誰も、その言葉へ返事をしなかった。
拒絶したからではない。
返事を求めていない言葉なのか、確かめられなかったからだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ヴァイス家の記憶保管室は、セルマ・エーデルが弱い立場の者の証言を残すために作った《証言鏡》を、初代当主オルフェンと鐘務局が記憶改変術へ作り替えたものでした。
「愛している」という言葉そのものが嘘なのではなく、その言葉を相手の同意や拒絶を奪うために使うことが、ヴァイス家に受け継がれた最初の嘘でした。
次回、第22話「禁書庫への招待」。
レインたちは王都聖導大神殿へ向かい、教会の記録から存在を消された第十三禁書庫へ足を踏み入れます。




