第20話 幽霊ではなく、記憶が歩いていた
壁の向こうに封じられていた、ヴァイス家の記憶保管室。
そこには何世代もの記憶を映す鏡と、ミラの顔をまねる何者かがいた。
レインたちは、死亡したと判断された三人の意識を取り戻すため、持ち主から離れて歩き始めた記憶を追う。
『レイン! 鏡の中の人が、私の顔になった!』
壁の向こうから、ミラの悲鳴が聞こえた。
「そこから離れろ!」
『動けない!』
「何につかまれている!」
『分からない! 私の手が、鏡から出てきてる!』
自分と同じ姿をした何かにつかまれている。
レインは西廊下の壁へ手を当てた。
石の内側から、冷たさではない感触が伝わってくる。
思い出しかけたものを、直前で忘れたような空白。
壁の向こうには、死者はいない。
それなのに、ミラの声だけが少しずつ遠くなっていた。
「バルド!」
「分かっている!」
大剣を抜いたバルドが、亀裂の入った壁の前へ立つ。
セシリアが即座に銀杖を向けた。
「待ってください!」
「待てば、幽霊が鏡に連れていかれるぞ!」
「内部の構造が分からないまま壊せば、部屋ごと崩れる可能性があります!」
「では、入口を探せ!」
「十二年前に封じられたのです! すぐ見つかるとは――」
「七歩です」
エルナが西廊下の床を見ていた。
「何ですか」
「リディア夫人の記憶は、七歩進むたびに止まりました」
エルナは、廊下の端から歩き始める。
一歩。
二歩。
三歩。
七歩目。
彼女は壁へ手を当てた。
「ここが、過去の扉の中心です」
「先ほどリディアの姿が入った場所ですね」
「もう七歩進みます」
十四歩目。
ヨハンが日誌へ記録していた場所。
さらに七歩。
二十一歩目。
アンナが茶器を落とした場所だった。
「三人は同じ扉へ向かっていたのではありません」
エルナが壁を調べる。
「七歩ごとに、異なる仕掛けへ触れていた」
「三人で開ける扉?」
「可能性があります」
壁面には装飾がほとんどない。
だが指で埃を払うと、三つの小さな窪みが見つかった。
一つ目は、青い宝石と同じ楕円形。
二つ目は、鍵穴。
三つ目は、銀の茶匙が入るほどの細い溝。
「リディアの首飾り」
「ヨハンの鍵」
「アンナの茶匙」
三人が持っていたものだ。
「偶然ではありません」
レインはアルノーを見た。
「扉の開け方を知っていましたね」
「知らない」
『嘘』
壁の向こうにいるはずのミラの声が、すぐ隣から聞こえた。
レインが振り向く。
西廊下の奥に、ミラが立っていた。
「戻ってきたのか」
『うん』
銀髪の少女は笑っている。
だが、壁の内側からも声がした。
『レイン! そっちにいるのは私じゃない!』
廊下に立つミラの笑みが深くなる。
『どうして分かったの?』
「本物は、戻ってきたと言う前に文句を言う」
『ひどい』
「それに、お前はそんなふうに笑わない」
偽物のミラは首を傾けた。
『私は、ミラの記憶から作ったのに』
「ミラには、自分自身の過去の記憶がほとんどない」
『今の記憶はある』
「俺が知っている場面だけを使ったんだな」
偽物は、これまでレインが見たミラの笑顔をまねている。
だが、笑う理由がない。
表情だけを再現し、感情を理解していない。
「お前は誰だ」
『ミラ』
「本人がそう名乗ることを選んだ名前だ。お前には渡さない」
『名前がなくても、姿は使える』
偽物の輪郭が揺れた。
ミラからリディアへ。
リディアからアンナへ。
アンナから執事長ヨハンへ。
最後にレイン自身の姿へ変わる。
『記憶があれば、誰にでもなれる』
レインと同じ声が廊下へ響いた。
『本人はいらない』
偽物の足元から銀色の線が伸びる。
床の木目が鏡面のように光り、レインたちの姿を映し始めた。
「全員、反射面から離れてください!」
エルナが鞄の中の布を床へ広げる。
セシリアも外套を外し、銀杖の金属部分へ巻きつけた。
「バルド、剣を収めて!」
「今から斬る相手が出たところだ!」
「刃にあなたの姿が映っています!」
大剣の表面には、バルド自身の顔が映っていた。
ただし、鏡像の口だけが勝手に動いている。
「怖い」
剣の中のバルドが言った。
「部下を助けられなかった」
「黙れ」
「また、誰も守れない」
「黙れと言っている!」
本物のバルドが大剣を床へ伏せる。
エルナが上から布をかぶせた。
鏡像の声が止まる。
「記憶を使って、本人が最も反応する言葉を作っています」
「過去に実際に考えたことか?」
「一部はそうかもしれません。しかし、それを今も考えているとは限りません」
偽物のレインが口を開く。
『記録する者は、誰かを傷つける』
「それは古戦場で聞いた」
『お前は、死者を自分の物語へ閉じ込める』
「その可能性も考えている」
『怖くないのか』
「怖い」
偽物の動きが止まった。
否定されると思っていたらしい。
「だから、書いた記録も疑う」
『それでは、何も残せない』
「疑いながら残す」
レインは聞き書き帳を開かなかった。
帳面も、鏡に映れば利用される可能性がある。
「本物らしく振る舞うには、相手が何を恐れているかだけでは足りない」
『何が必要?』
「恐れていても何を選ぶかだ」
偽物のレインの顔が、白紙のように崩れた。
人間の姿を維持できなくなる。
無数の文字、匂い、声、足音へ分かれ、壁の亀裂へ吸い込まれていった。
西廊下の床から銀色の光が消える。
『早くして!』
本物のミラが壁の中で叫ぶ。
『次は私の声を忘れそう!』
「アルノー」
レインは当主へ近づいた。
「三つの鍵を使えば、扉が開くんですね」
「本当に知らない」
「リディアへ首飾りを贈ったのはあなたです」
「ただの贈り物だ」
「執事長が管理していた鍵を知っているはずです」
「屋敷には何百本もある」
「アンナが持っていた茶匙も、記憶保管室の仕掛けに合う形です」
「偶然だ!」
「三人とも同じ夜に、仕掛けの鍵を持っていた」
アルノーは答えない。
「三人は記憶保管室へ入ろうとしていた。あなたに隠れて」
「違う」
『また嘘』
壁の中のミラが言う。
「何をしようとしていたんです」
アルノーの拳が震えた。
「鏡を壊すつもりだった」
「誰が?」
「リディアたちだ」
「なぜ」
「私たちの記憶が、偽物だと言い出したからだ!」
廊下が静まり返る。
アルノーは口にしてしまった言葉を取り戻そうとするように唇を閉じた。
「偽物の記憶について、知っていたんですね」
「違う。妻がそう言っていたという意味だ」
「あなたは、どう思っていた」
「リディアは疲れていた」
「質問へ答えてください」
「私は、妻を助けたかった!」
「何から」
アルノーは寝室の方向を見る。
「私を嫌いになる記憶からだ」
◇
三つの鍵が集められた。
リディアの首飾り。
ヨハンが腰へ下げていた執事長用の鍵。
アンナの枕元に置かれていた銀の茶匙。
アルノーは最後まで、扉を開けることに反対した。
「記憶保管室は危険だ」
「先ほどまで、使えない術だと思っていたと言っていましたね」
「父から危険だと聞いていた」
「言っていることが変わっています」
「妻を助けたい気持ちは同じだ!」
「なら、三人が閉じ込められている部屋を開けます」
最初の窪みへ、青い宝石をはめる。
淡い光が灯る。
二つ目へ、ヨハンの鍵を差し込む。
壁の内側で歯車が動く。
三つ目の溝へ茶匙を入れる。
銀の柄が震え、アンナの声が聞こえた。
『お茶を運ばなきゃ』
「アンナ」
レインが呼びかける。
『でも、もう同じお茶を運びたくない』
「どうして」
『飲むと、奥様が昨日を忘れるから』
壁の中央へ、細い線が走った。
石壁が左右へ分かれていく。
冷たい空気ではない。
古い香水。
焼きたてのパン。
雨に濡れた土。
薬草茶。
何十、何百という匂いが混ざった空気が流れ出した。
忘れられた部屋への入口が開いた。
◇
記憶保管室には、窓がなかった。
壁も床も天井も、大小さまざまな鏡で埋め尽くされている。
丸い鏡。
四角い鏡。
手鏡。
姿見。
鏡台。
割れた破片すら、壁の隙間へはめ込まれていた。
だが、どの鏡にも現在のレインたちは映っていない。
ある鏡には、百年以上前の晩餐会。
別の鏡には、庭で遊ぶ子ども。
寝台で手を握る夫婦。
葬儀で泣く老人。
誰もいない部屋。
同じ場面を何度も繰り返す鏡もある。
「反射鏡ではありません」
エルナが入口から観察する。
「保存された記憶を表示するための板です」
「触れずに調べられますか」
「文字は縁にあります」
鏡の縁には、年月と短い題名が刻まれていた。
長男誕生の日。
初めて家族全員で食卓を囲んだ夜。
妻が笑った春。
父に認められた日。
幸福な記憶が多い。
しかし奥へ進むにつれ、題名が不自然になっていく。
悲しまなかった葬儀。
争わなかった夫婦。
一度も裏切らなかった弟。
恐れなかった子ども。
「実際の記憶ではない」
レインが言った。
「望んだ形へ修正されている?」
セシリアは銀杖へ布を巻いたまま、魔力を探る。
「部屋全体に弱い精神干渉があります。ただし一つの術式ではありません」
「何世代も使われ、記憶が積み重なった」
エルナは鏡の縁の年代を追う。
「最古のものは百四十八年前。最新は三日前です」
「三日前?」
死亡と判断された日。
最新の鏡には題名がない。
表面は黒く、何も映っていない。
ただ内側から、三人の手形が浮かんでいた。
リディア。
ヨハン。
アンナ。
『ここ!』
ミラの声が、黒い鏡の向こうから聞こえる。
「ミラも中に?」
『私は外! でも、どっちが外か分からない!』
部屋を見渡しても、ミラの姿がない。
鏡の一枚に、銀髪の少女が映っている。
別の鏡にも。
さらに別の鏡にも。
数十人のミラが、異なる表情で立っている。
怒るミラ。
笑うミラ。
不安そうなミラ。
レインへ背を向けるミラ。
『全部、私のまねをする!』
「本物は、今何を見ている」
『黒い鏡。三人が中にいる』
「ほかには?」
『私と同じ顔が、周りにいる』
「本物にしか分からないことを言え」
『今朝、レインはパンを残した』
「よく見ているな」
『半分じゃなくて、四分の一』
「本物です」
「それで確認できるのですか」
セシリアが驚く。
「偽物は、俺が重要だと思った記憶を使う。朝食の残量までは覚えていない」
『私には重要』
「なぜ」
『残したら、あとで食べられるかと思った』
「幽霊は食べられないだろう」
『匂いは分かるかもしれない』
いつもの、少しずれた会話。
鏡の中の偽物には再現できない。
「黒い鏡の近くから動くな」
『動いてない』
「何か触れているか」
『手をつかまれてる』
「誰に」
『私』
黒い鏡の表面が波打つ。
そこからミラの腕が二本伸びていた。
一本は、本物のミラを室内へ引こうとしている。
「セシリア、ミラと鏡の境界を切れますか」
「位置が見えません」
「俺が示します」
レインには、本物の声が届く方向が分かる。
黒い鏡の右上。
他のミラの姿よりも、わずかに輪郭が薄い場所。
「そこです!」
セシリアが銀杖を向ける。
「月光分離!」
白い線が黒い鏡を横切る。
鏡から伸びていた腕が切れ、文字の粒へ崩れた。
本物のミラが室内へ飛び出す。
『ひどい!』
最初に出たのは文句だった。
「やはり本物だ」
『助けるのが遅い!』
「入口を探していた」
『壁を壊せば早かった!』
バルドが大きくうなずく。
「俺もそう言った」
「二人で同意しないでください」
ミラはレインの隣へ戻った。
鏡にいる偽物たちも、同じ動きをする。
だが本物だけがレインの反対側へ回り、鏡を警戒した。
「三人の意識は、黒い鏡にいるんだな」
『うん。でも、三人だけじゃない』
「ほかにも?」
黒い表面の奥。
数えきれない顔が浮かび上がる。
ヴァイス家の歴代当主。
その妻。
子ども。
使用人。
客人。
記憶を保存された者たち。
全員、幽霊ではない。
人間の人生から切り離された、記憶の中の人物だった。
◇
「この部屋は、幸福な記憶を保存するために作られた」
アルノーが入口に立ち、低い声で語り始めた。
「ヴァイス家の初代領主は、戦争で家族のほとんどを失った。二度と顔を忘れないため、記憶を鏡へ映す術を作らせた」
「最初は、見るだけだった?」
「そう聞いている」
「いつから、記憶を書き換えるようになった」
「分からない」
「あなたは使いましたね」
アルノーは答えない。
黒い鏡の中で、リディアが目を開いた。
『使った』
ミラが声を伝える。
「リディアは、使ったと言っています」
「妻は混乱している」
『私の記憶を取った』
「何を取られた」
『悲しかった日』
リディアの姿が鏡の中で揺れる。
『怒った日』
『この人から離れようと思った日』
『全部、鏡に入れられた』
「アルノー」
セシリアの声が冷たくなる。
「本人の同意を得ましたか」
「最初は得た!」
「最初は?」
「リディアは、眠れないほど苦しんでいた。母親を亡くし、領地の仕事にも疲れていた。悲しい記憶を薄くできると話したら、本人も望んだ」
「それが、いつ変わった」
「妻が使用を拒むようになった」
「それでも続けた?」
「一度だけだ!」
黒い鏡の中で、無数のリディアが笑い始める。
同じ笑顔。
同じ角度。
同じ言葉。
「愛しているわ」
「私は幸せ」
「何も悲しくない」
完璧に整えられた幸福な妻の姿。
その背後で、本物の意識を持つリディアが両耳を塞いでいた。
「悲しい記憶を消したのではない」
エルナが鏡の年代と記録を照合する。
「鏡へ移しただけです」
「移された記憶は消えず、部屋へ蓄積された」
レインは周囲の鏡を見る。
「何世代分もの、持ち主が手放したかった記憶」
悲しみ。
怒り。
疑い。
恐怖。
愛情。
幸福だけを残そうとして、都合の悪い記憶を外へ押し出した。
「人間は、幸福な記憶だけでは本人でいられない」
エルナが言った。
「悲しかった理由、怒った相手、許せなかった出来事。それらも判断や選択を作っています」
「削られた者は、同じ人間ではなくなる」
リディアは自分の愛情を疑った。
アルノーから離れたいと思った理由を鏡へ取られた。
理由がなくなっても、身体には拒絶だけが残った。
その空白を埋めるため、さらに幸福な記憶を保存した。
繰り返すほど、本物の記憶と、望んだ記憶の境界が消えていった。
「屋敷を歩いていたものは、保存された記憶です」
レインは結論を記録し始める。
ヴァイス邸の廊下を歩く人影は、死者の幽霊ではない。
記憶保管室に保存された人物の姿、行動、言葉が、自律して再現されたもの。
長期間の蓄積と改変により、複数の記憶を組み合わせ、存在しなかった場面まで生成している。
筆が紙を進む。
本人から切り離された悲しみ、怒り、疑いも消滅せず、保管室内に残存。
幸福な記憶だけを本人へ戻そうとする仕組みが、人格と身体の分離を引き起こした可能性。
文字が完成すると、部屋の鏡が一斉に震えた。
『違う』
何百人もの声が重なる。
『私たちは、偽物ではない』
黒い鏡から、巨大な人影が現れる。
顔はリディア。
髪はアンナ。
服装は歴代当主。
声はヨハン。
そのすべてが一瞬ごとに変化している。
『人間は忘れる』
『私たちは忘れない』
『人間は嘘をつく』
『私たちは記録されたとおりに話す』
「存在しなかった会話を作りましたね」
『記録を組み合わせた』
「リディアが『私が愛していたのは、あなたではない』と言った場面は、実際にはなかった?」
『言葉は、彼女の中にあった』
「考えたことと、口にしたことは違う」
『同じだ』
「違います」
考えた。
迷った。
怒りの中で、一瞬だけ願った。
それを実際に選んだ行動と同じに扱うことはできない。
『記憶は、人間より正しい』
「では、なぜ三人の身体を止めた」
『止めていない』
「生命反応がほとんど消えています」
『身体が不要になった』
「本人たちが望んだ?」
『記憶を壊そうとした』
「質問へ答えていない」
人影はヨハンの顔へ変わる。
『管理者は記憶を守る』
「お前が管理者?」
『私たちは保管室』
「部屋そのものか」
『保存されたすべて』
何世代もの記憶が混ざり、保管するという目的だけを持つ存在へ変化した。
幽霊ではない。
生者でもない。
一人の人格ですらない。
記憶保管室そのものが、自らを守るために人の姿を使っている。
「三人の意識を返してください」
『返せば、鏡を壊す』
「本人の選択です」
『記憶は失われる』
「失うかどうかも、本人が決める」
『人間は間違える』
「間違える権利まで奪うな」
保管室の人影が、レインの顔へ変わった。
『お前も記録を守っている』
「同じではない」
『死者が忘れた名前を、帳面へ固定した』
「本人へ返すためだ」
『本人が望まない記憶も書いた』
「証言として残した」
『違いはない』
「ある」
『何が』
「俺の記録は、本人の代わりになるものではない」
レインは黒い鏡にいる三人を見る。
「記録より、本人の現在の選択を優先する」
『記憶を捨てるのか』
「捨てると決めていない」
『なら、すべて戻す』
部屋中の鏡が光った。
保管されていた何世代分もの記憶が、一斉に黒い鏡へ流れ込む。
「何をしている!」
『三人へ返す』
「本人たちのものだけにしろ!」
『記憶は混ざっている』
百年以上、保存と書き換えを繰り返した結果、誰の記憶か区別できなくなっている。
リディアへ、歴代夫人の悲しみが流れ込む。
ヨハンへ、過去の執事たちの秘密が。
アンナへ、何十人もの侍女の恐怖が。
三人の姿が鏡の中で崩れ始めた。
『私が誰か分からない!』
『止めて!』
『身体へ戻れない!』
「セシリア、流れを止められますか!」
「すべての鏡が接続されています!」
「一枚ずつ遮断するのは?」
「間に合いません!」
エルナが壁に刻まれた古い術式を追う。
「中央制御鏡があります!」
「どれです」
「最初の記憶を保存した鏡です! そこから、ほかの鏡へ仕組みが広がっている!」
「場所は!」
「年代が最も古い鏡!」
百四十八年前。
レインたちは縁の文字を探す。
鏡が激しく明滅し、さまざまな記憶を投影する。
足元も壁も、過去の屋敷へ変わる。
晩餐会。
葬儀。
結婚式。
火事。
同じ部屋に、異なる時代が重なっている。
「見つけた!」
エルナが部屋の最奥を指した。
小さな楕円形の鏡。
題名。
愛する者を、永遠に忘れないために。
鏡の中には、初代当主と思われる男が立っている。
その腕には、亡くなった妻の身体。
男は泣きながら鏡へ向かって言う。
「愛している」
亡くなった妻の目が、鏡の中だけで開く。
「私も愛しているわ」
実際の死体は何も答えていない。
鏡が、男の望んだ言葉を返している。
「最初から、記憶を保存するだけの術ではなかった」
レインが言う。
「失った相手に、望んだ返事をさせるための鏡だった」
鏡の中の初代当主が、現在のレインたちを見る。
百四十八年前の記憶であるはずなのに。
『愛していると言えば、愛していると返してくれる』
男の顔が、アルノーへ変わる。
『何が悪い』
部屋中の鏡から、アルノーの声が響く。
「あなたも、同じことをしたんですね」
アルノーが後ずさる。
「違う」
『愛している』
鏡の中のアルノーが、リディアへ首飾りをつける。
『君も私を愛している』
リディアは笑顔で答える。
『愛しているわ』
本物のリディアの意識が黒い鏡の中で叫ぶ。
『私は、そんな返事をしていない!』
アルノーの顔が崩れる。
「一度だけだった」
「何をした」
「妻が私を愛している記憶を、鏡に作らせた」
「本人の記憶へ入れた?」
「リディアは、私から離れると言った」
「だから?」
「私は妻を愛していた!」
黒い鏡にいるリディアが、アルノーを見た。
『それが、あなたの嘘』
「違う!」
『愛していると言えば、何をしても許されると思った』
「違う!」
『私が愛していると答える記憶を作った』
リディアの声は、ミラを通さず生者にも聞こえ始めていた。
『そして、本当の私が何を言ったかを消した』
部屋の中央で、青い首飾りが強く光る。
リディアの寝室にある身体と、黒い鏡がつながっている。
それだけではない。
ヨハンの鍵。
アンナの茶匙。
三つの品すべてから、銀色の糸が中央鏡へ伸びていた。
ヨハンとアンナは、リディアに作られた偽の記憶を消そうとした。
そのため保管室に取り込まれた。
「三人を戻すには、最初の鏡を壊す必要があります」
エルナが言う。
「ただし壊せば、保存された記憶がすべて失われる可能性があります」
『壊すな』
保管室が叫ぶ。
『家族の記憶が消える』
『愛された日が消える』
『亡くなった者の顔が消える』
鏡の中から、何百人もの声が助けを求める。
偽物だけではない。
本当にあった記憶も保存されている。
子どもの誕生。
夫婦の再会。
最後に交わした言葉。
鏡を壊せば、それらも失われるかもしれない。
「壊さず、三人だけを戻せますか」
セシリアが尋ねる。
エルナは術式を追う。
「三人を識別するための基準が必要です」
「名前は?」
「鏡の中には、同じ名前を持つ記憶が複数あります。本人の現在を示すものが必要です」
レインは黒い鏡を見る。
「本人が、今選ぶこと」
保存された記憶ではなく。
過去の記録でもなく。
現在の意識だけが答えられる問い。
「リディア」
レインは呼びかける。
「アルノーを愛していますか」
アルノーが息をのむ。
『答えさせるな!』
保管室が叫ぶ。
『愛している記憶は保存されている!』
「記憶には聞いていない」
黒い鏡の奥。
無数の笑うリディアの間で、本物の意識が顔を上げる。
『分からない』
アルノーの表情が凍る。
鏡の偽物たちが一斉に言う。
『愛している』
『愛している』
『愛している』
しかし本物のリディアは、もう一度答えた。
『今は、分からない』
「十分です」
『何が十分だ!』
「保存されたリディアは、愛しているとしか答えられない」
レインは本物の姿を見失わないように、声の位置を追う。
「迷えるのは、今のリディアだけだ」
黒い鏡の中で、一人のリディアにだけ異なる色の光がともった。
次にヨハン。
「今、執事として守るべきものは何です」
保存されたヨハンたちは同時に答える。
『ヴァイス家』
本物だけが言った。
『この屋敷で暮らす人々』
家名ではなく、人。
その選択に光がともる。
最後にアンナ。
「今、お茶を運びたいですか」
保存されたアンナたちが答える。
『運ばなければならない』
本物は首を横に振った。
『今日は休みたい』
ミラが少し笑う。
『本物だね』
三つの光が黒い鏡の中で分離した。
「セシリア!」
「分離対象を確認しました!」
銀杖の先から、三本の月光が伸びる。
リディア。
ヨハン。
アンナ。
それぞれの現在の選択を囲み、過去の記憶から切り離していく。
保管室が激しく抵抗する。
『現在は変わる!』
「変わっていい!」
レインが叫ぶ。
『記憶だけが永遠に残る!』
「変わらないことが、生きている証拠ではない!」
部屋中の鏡に亀裂が走る。
黒い鏡から、三つの光が外へ引き出される。
同時に寝室、使用人部屋、北棟の小部屋から、かすかな呼吸音が聞こえた。
生命が身体へ戻ろうとしている。
だが中央鏡が三人をつなぎ止めている。
初代当主の顔。
アルノーの顔。
リディアの顔。
最後に、銀色の目へ変わる。
『愛している記憶を捨てるのか』
白い帳簿と同じ声。
レインの聞き書き帳へ現れた銀色の目と同じ存在。
「お前も保管室にいるのか」
『私は、捨てられた名前』
ミラが身体を固くする。
『私の名前?』
『名前も記憶だ』
銀色の目が笑う。
『この部屋なら、失ったものをすべて作り直せる』
中央鏡に、別のミラが映った。
現在のミラではない。
長い銀髪。
鐘守りの白い衣。
胸元には、本当の名前が刻まれている。
だがレインには文字が読めない。
『過去を取り戻したくないか』
ミラが鏡へ一歩近づく。
「見るな」
『でも』
「本物の記憶とは限らない」
『レオもいる』
鏡の中で、黒い帳面を持つ少年がミラへ手を差し出している。
『今度は置いていかない』
ミラの輪郭が揺れる。
同時に、三人を囲んでいた月光が弱まった。
「ミラ! 鏡から離れろ!」
『少しだけ』
「望んだ返事をする鏡だ!」
愛していると言ってほしい者には、愛していると答える。
帰ってきてほしい者には、帰ると答える。
許してほしい者には、許すと答える。
ミラがレオを求めれば、レオの姿を作る。
「そのレオは、お前が聞きたいことしか言わない!」
鏡の少年が笑う。
『それの何が悪い』
初代当主と同じ言葉。
『優しい記憶だけを残せば、苦しまなくていい』
ミラの喉元に、十三本の黒い輪が浮かぶ。
『名前を捨てれば、痛くなくなる』
過去に聞いた言葉。
鐘と同じ考え。
痛みを消すために名前を奪う。
悲しみを消すために記憶を奪う。
本人が何を選ぶかは関係ない。
「ミラ!」
少女は鏡の中のレオを見つめている。
レオが手を伸ばす。
『おいで』
ミラも手を上げかける。
だが途中で止めた。
『一つ、聞いていい?』
『何でも』
『私が今、一番好きなものは?』
鏡のレオは迷わず答えた。
『鐘の音だ』
ミラの表情が変わる。
『違う』
『では、聞き書き人か』
『それも違う』
レインは少し傷ついたが、今は言わなかった。
『私は』
ミラが胸元へ手を置く。
『みんなが、自分で選んだ名前を言うときの声が好き』
ルーヴェルの花冠。
名前を取り戻したラドム。
自分の名を受け入れたミラ。
鏡が知らない、彼女自身の現在。
『あなたは、私の過去の形しか知らない』
鏡のレオの笑顔が崩れる。
『偽物』
『記憶だ』
『今の私を知らない記憶は、私の全部じゃない』
ミラは鏡へ背を向けた。
『レイン! 三人を戻して!』
「セシリア!」
「分離を再開します!」
月光が強まる。
バルドが布をかけていた大剣を抜いた。
「中央鏡だけを壊せばいいんだな!」
「完全に砕かないでください!」
「加減は苦手だ!」
「縁の銀色部分です!」
エルナが術式の中心を指す。
「鏡面ではなく、記憶を接続する枠を切ってください!」
「最初からそう言え!」
バルドは大剣を振り上げた。
中央鏡の銀枠へ、一撃を打ち込む。
甲高い音。
枠に亀裂が走る。
黒い鏡と三人をつないでいた糸が切れた。
リディア。
ヨハン。
アンナ。
三つの光が記憶保管室を飛び出し、それぞれの身体がある方向へ消えていく。
同時に部屋中の鏡から、歩く人影が消えた。
西廊下の足音も止まる。
鏡は割れていない。
保存された記憶も残っている。
ただ、外へ歩き出す力だけが失われた。
中央鏡の銀色の目が、最後にレインを見た。
『愛しているという言葉は、何度でも人を縛る』
「言葉が縛るのではない」
『では、何が』
「その言葉を理由に、相手の選択を奪う者だ」
銀色の目が閉じる。
中央鏡は黒いまま、何も映さなくなった。
◇
リディアの寝室へ戻ると、彼女は呼吸をしていた。
弱い。
だが確かに胸が上下している。
医師ヘルマンが手首を取り、涙を浮かべた。
「脈があります」
執事長ヨハンも、侍女アンナも同じだった。
三人とも意識は戻っていない。
しかし身体の温度が上がり始めている。
「完全に目覚めるには時間が必要です」
セシリアが生命反応を確認した。
「三日間、意識と身体が分かれていました。すぐに質問することはできません」
レインはアルノーを見た。
当主は妻のベッド脇に立ったまま、触れることができずにいる。
「リディアが目覚めた後、あなたを愛していると言うとは限りません」
「分かっている」
「許すとも限らない」
「分かっている」
「離れることを選ぶかもしれない」
アルノーは両手を握った。
「それでも、生きているなら」
今の言葉に嘘の揺れはなかった。
ミラも何も言わない。
「記憶を戻せば、リディアは苦しみます」
「私がしたことも、全部思い出す?」
「本人の記憶である限りは」
「消しておくことは」
セシリアの視線が厳しくなる。
アルノーは首を横に振った。
「違う。今のは、消してほしいという意味ではない」
「では?」
「思い出した後、私にできることがあるのかと」
「俺には分かりません」
レインは答えた。
「謝ることはできる。話すこともできる。離れたいと言われたら、受け入れることも」
「愛していると伝えるのは?」
「その言葉を、相手へ何かを強制する理由にしないことです」
アルノーは長い間、眠る妻を見ていた。
◇
記憶保管室は、セシリアの術で一時封鎖された。
鏡を破壊はしない。
中には、本当に大切な記憶も残っている。
ただし今後、本人の同意なく記憶を保存、修正、返還できないよう、中央鏡への接続を切った。
エルナは鏡の一覧と題名を記録する。
「すべての記憶の所有者を確認するには、数か月かかります」
「王立記録院へ持ち出しますか」
「いいえ。記憶を物品のように移動させれば、同じ問題が起きます」
「珍しい資料なのに?」
「だからこそです」
エルナは一枚の鏡へ布をかけた。
「研究したい者は、所有者の意思を忘れやすい」
「自分のことですか」
「自戒です」
レインは少し驚いた。
「成長しましたね」
「古戦場から数えて、あなたにだけは言われたくありません」
バルドは中央鏡の枠へ入れた傷を確認している。
「鏡を斬る仕事は初めてだった」
『怖くなかった?』
ミラが尋ねる。
「今回は相手が見えた」
『鏡に自分が映ってたときは怖そうだった』
「それは」
バルドは言葉を探し、諦めた。
「少しだけな」
『正直』
「成長したでしょう」
セシリアが言う。
「神官まで何を言っている」
◇
夜明け前。
リディアが目を覚ました。
青い瞳がゆっくりと開く。
最初に見たのは、天蓋。
次にセシリア。
レイン。
そして、少し離れた場所に立つアルノー。
「ここは」
「あなたの寝室です」
セシリアが答えた。
「三日間、意識が記憶保管室へ取り込まれていました」
リディアは胸元へ手を伸ばす。
青い首飾りは外され、机の上へ封印されている。
「ヨハンとアンナは?」
「生きています。まだ眠っていますが」
彼女は安堵し、目を閉じた。
アルノーが一歩近づく。
「リディア」
妻は再び目を開いた。
夫を見る。
そこに喜びはない。
怒りだけでもない。
複雑な感情。
鏡なら、一つの表情へ整えただろう。
だが本物の人間は、一度にいくつもの感情を持つ。
「私を」
アルノーの声が震える。
「愛しているかと、聞いてもいいか」
リディアは長い間答えなかった。
「今は、分からない」
「そうか」
「でも」
アルノーが顔を上げる。
「愛していると答えるように、私の記憶を作ったことは覚えている」
部屋の空気が重くなる。
「ごめん」
「その言葉も、すぐには信じられない」
「分かっている」
「分かっていると言われることも、今は嫌」
アルノーは口を閉じた。
リディアはレインを見る。
「廊下を歩いていた私は、何を話しましたか」
「『私が愛していたのは、あなたではない』と」
「私は、本当にそう言った?」
「廊下の記憶が作った会話です。事実とは確認できません」
リディアは少し考えた。
「でも、考えたことはある」
アルノーの肩が揺れる。
「誰か別の人を?」
「違う」
リディアは、夫をまっすぐに見た。
「私が愛していたのは、私の言葉を聞いてくれた頃のあなた」
アルノーは何も言えなかった。
「今のあなたを愛しているかは、まだ分からない」
それが、鏡には作れない答えだった。
愛している。
愛していない。
二つのどちらかではない。
失われた記憶を取り戻し、これから改めて選び直すための言葉。
レインは帳面を開きかけ、やめた。
「書かないのですか」
リディアが尋ねる。
「夫婦の会話です」
「でも、あなたは聞き書き人でしょう」
「記録を希望しますか」
リディアはしばらく考えた。
「一つだけ」
「何を」
「私は死んでいなかった」
レインは新しい頁へ記した。
リディア・ヴァイス。
死亡したと判断されたが、生命と意識は失われていなかった。
本人の記憶を、本人の同意なく別の形へ作り替えてはならない。
リディアは文字を確認し、うなずいた。
「それで十分です」
◇
朝日が西廊下へ差し込む。
毎晩歩いていた四人の姿は、もう現れない。
足音もない。
壁の中の鏡は静かになっている。
事件は終わったように見えた。
だが聞き書き帳の途中の頁に、銀色の文字が一行だけ残っている。
名前も、記憶の一つである。
最後の頁は破った。
それでも銀色の目を持つ存在は消えていない。
白い帳簿だけでなく、記憶を保存する場所ならどこにでも入り込める可能性がある。
『私の過去も、どこかの鏡にあるのかな』
ミラが尋ねた。
「あるかもしれない」
『見つけたら、見る?』
「本物かどうか確認する」
『本物だったら?』
「見るかどうかは、お前が決める」
『レインは見たくない?』
「知りたい」
レインは正直に答えた。
「だが、俺が知りたいからという理由で、お前に見せることはしない」
ミラは少し笑った。
『今のは、記録してもいいよ』
「なぜ」
『忘れたときに読ませるから』
レインはその言葉を帳面へ書いた。
記憶は、持ち主を守ることがある。
同時に、本人を縛ることもある。
忘れることが救いになる場合もあれば、忘れさせられることが傷になる場合もある。
大切なのは、記憶を残すか消すかだけではない。
誰が選ぶのか。
その一点だった。
廊下の鏡へ映ったレインの姿が、一瞬だけ口を動かした。
「愛している」
レインは足を止める。
振り返ったとき、鏡には何も映っていなかった。
記憶保管室は閉じられている。
それでも、どこかからアルノーと同じ声が聞こえた。
「愛していると言えば、許される」
ミラが廊下の奥を見る。
『まだ一つ、歩いてる』
「誰の記憶だ」
『アルノーじゃない』
銀色の目が、壁の中で開く。
『愛しているという嘘を、最初に教えた人』
ヴァイス家の記憶保管室には、まだ明らかになっていない記憶が一つ残っていた。
アルノーが妻へ術を使うより、はるか昔。
愛という言葉を、相手の意思を奪う鍵へ変えた最初の記憶が。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ヴァイス邸を歩いていたものは幽霊ではなく、記憶保管室に蓄積された人々の姿や言葉が自律した存在でした。
リディア、ヨハン、アンナは死んでおらず、本人たちの現在の選択を確認することで、保存された記憶から意識を分離できました。
しかし記憶保管室には、アルノーより前に「愛している」という言葉を支配の鍵へ変えた人物の記憶が残っています。
次回、第21話「愛しているという嘘」。
レインたちはヴァイス家の最初の記憶を調べ、愛を理由に他者の選択を奪う術が作られた真相を明らかにします。




