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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第七章 幽霊のいない屋敷

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第19話 誰も死んでいないのに、怪異が起きる

三人が亡くなったはずのヴァイス邸には、幽霊が一人もいない。


それにもかかわらず、死んだ者たちの姿が毎晩廊下を歩いている。


レインたちは、魂のない怪異が繰り返す「最後の夜」を調べ始める。

 レムリア領に入った頃から、雨が降り始めた。


 激しい雨ではない。


 細く冷たい雨が、灰色の空から絶え間なく落ちている。


 馬車の窓から見える畑は霧に沈み、遠くの森も輪郭だけになっていた。


「ヴァイス邸は、あとどのくらいですか」


 セシリアが使者へ尋ねる。


「半刻ほどです」


 使者の男は、古戦場で会ったときからほとんど眠っていないらしい。


 目の下に濃い影がある。


 時折、馬車の後方を気にして振り返っている。


「何か追ってきていますか」


 レインが尋ねた。


「いいえ」


「では、なぜ何度も後ろを見る」


「屋敷を離れてから、足音が聞こえるのです」


「どんな足音です」


「女性の靴です」


 使者は濡れた窓へ視線を向けた。


「ゆっくりと廊下を歩くような音が、ずっと馬車の後ろから」


『今は聞こえないよ』


 ミラが馬車の屋根をすり抜け、外を確認する。


「ミラには何も見えないそうです」


「その方が、ミラという幽霊なのですか」


「はい」


 使者はレインの隣を見ないようにしながら、身体を端へ寄せた。


『怖がってる』


「当然でしょう」


 バルドが腕を組んだ。


「見えない幽霊がすぐ横にいると言われて、平気な人間のほうが少ない」


『バルドも最初は逃げた』


「一歩下がっただけだ」


「逃げたことになっています」


「伝えるな」


 エルナは使者の話を記録していた。


「足音が聞こえ始めたのは、屋敷を出た直後ですか」


「はい」


「一定の間隔で?」


「七歩ずつです」


「七歩?」


「こつ、こつ、と七回。その後、しばらく止まる。また七回」


「屋敷の廊下でも同じですか」


「奥様の姿は、いつも七歩進んで止まります」


「奥様とは、亡くなった三人のうちの一人?」


「リディア・ヴァイス様です。御当主アルノー様の奥方です」


 ヴァイス邸で亡くなったとされる三人。


 当主夫人リディア・ヴァイス、二十七歳。


 執事長ヨハン・メルク、五十一歳。


 侍女アンナ・ロウ、十九歳。


 三日前の朝、それぞれ別の部屋で眠ったまま発見された。


 外傷なし。


 毒物反応なし。


 争った痕跡もない。


 領内の医師が死亡を確認したが、三日経っても遺体に腐敗が始まっていない。


「三人とも、前日に同じ発言をしたんですね」


 レインは依頼書を開いた。


「自分の記憶が、先に廊下を歩いている」


「はい」


「その姿を、本人も見た?」


「リディア様は見たとおっしゃいました」


「ほかの二人は?」


「ヨハンは、先に歩く自分の背中を見たと。アンナは、自分が運んでいない茶器を持つ自分を見たと話していました」


「死ぬ前から、自分の姿が現れていた」


 幽霊は通常、死者の死後に現れる。


 死ぬ前の人間から幽霊が分離する例を、レインは知らなかった。


『生きてる人の幽霊?』


「それは幽霊とは呼ばない」


『では、何?』


「それを調べに行く」


 エルナが依頼書へ顔を近づけた。


「三人が姿を目撃した順番は分かりますか」


「最初はリディア様です。五日前の夜。翌朝、ヨハン。最後にアンナ」


「現れる時間は?」


「毎晩、九時から十一時までです」


「日中は?」


「現れません」


「今日で何日目になりますか」


「最初の目撃から五日目。三人が亡くなってから三日目です」


 セシリアは使者の顔を見た。


「ご当主アルノー様には、同じ現象は?」


「ありません」


「ほかの使用人は?」


「何人か、自分の声を聞いた者はいます。しかし姿を見たのは三人だけです」


「声の内容は」


「昔、本人が話した言葉だそうです」


 使者の返答に、レインは聞き書き帳を開いた。


ヴァイス邸の怪異は、死亡前から発生。


本人の姿と声が、本人より先に屋敷内へ出現。


出現後、対象者は眠ったまま死亡したと判断された。


 最後の言葉を書いて、筆を止める。


「死亡したと判断された」


 エルナがレインの頁を見た。


「死亡した、とは書かないのですか」


「幽霊がいない」


「幽霊を残さず旅立つ者もいます」


「三人同時に?」


「珍しくても、不可能とは断定できません」


「だから、まだ判断されたと書いています」


『誰も死んでないかもしれない?』


 ミラの問いに、レインは答えなかった。


 可能性はある。


 しかし期待を持つには、まだ証拠が足りない。


     ◇


 ヴァイス邸は、丘の上に建っていた。


 白い石壁。


 青黒い屋根。


 左右へ広がる二つの棟。


 中央玄関の上には、銀色の蔦を象った家紋が掲げられている。


 雨に濡れた建物は美しかったが、窓の多くが内側から板で塞がれていた。


「怪異を閉じ込めるためですか」


 セシリアが尋ねる。


 使者が首を横に振る。


「使用人たちが、廊下を見たくないと言い出したのです」


「姿は窓から見える?」


「夜になると、西棟の廊下を三人が歩きます」


 馬車を降りたレインは、屋敷全体へ意識を向けた。


 墓地。


 宿屋。


 礼拝堂。


 鉱山。


 古戦場。


 死者がいる場所には、必ず空気の一部が沈んでいる。


 冷たいのではない。


 音が一段遠くなる。


 生者の世界の隣に、別の部屋が重なっているような感覚。


 ヴァイス邸には、それがなかった。


「本当に、幽霊がいない」


『うん』


 ミラも屋敷を見上げる。


『死んだ人の匂いがしない』


「匂いが分かるのか」


『匂いみたいなもの』


「便利な説明だな」


『レインも空気が沈むとか言ってるでしょう』


 否定できなかった。


 バルドは屋敷の玄関へ向かいながら、大剣の位置を確かめる。


「幽霊がいないなら、今回は俺の出番が多いかもしれんな」


『少し嬉しそう』


「幽霊が相手では、剣が役に立たんからな」


「歩いている姿が、剣で斬れるとは限りません」


 セシリアが言うと、バルドの表情が曇った。


「先に言うな」


     ◇


 当主アルノー・ヴァイスは、玄関広間で待っていた。


 三十歳前後。


 淡い金髪を後ろへ撫でつけ、濃紺の上着を身につけている。


 整った顔立ちだったが、頬は痩せ、目には疲労がにじんでいた。


「聖導教会のセシリア・ローデンです」


「お待ちしていました」


 アルノーはセシリアへ礼をした。


「こちらが、死者の声を聞けるという方ですか」


「レイン・アスターです」


「聞き書き人だと伺いました」


「最近、そう名乗ることにしました」


 アルノーの視線がレインの横へ移る。


「奥に、何かいますか」


「今はいません」


 ミラがアルノーの顔をのぞき込んでいることは伝えなかった。


『この人、嘘をつく顔してる』


「急に何だ」


 レインが小声で返す。


『私を見ようとしなかった』


「見えないものは見られない」


『でも、いる場所を当てようともしなかった』


「怖いだけかもしれない」


『たぶん』


 珍しく、ミラがアルノーを警戒している。


 レインはその反応も覚えておく。


「三人の遺体を確認させてください」


 セシリアが申し出た。


 アルノーの顔がわずかにこわばる。


「妻も?」


「全員です」


「リディアは、まだ寝室にいます」


「葬儀の準備は?」


「できませんでした」


「怪異が理由ですか」


「妻が廊下を歩いているのに、身体を棺へ入れることなどできない」


 声に深い苦しみがあった。


 少なくとも表面上は。


「姿へ話しかけましたか」


 レインが尋ねる。


「何度も」


「反応は」


「ありません」


「触れましたか」


「手がすり抜けました」


「幽霊のように?」


「幽霊を見たことがないので分かりません」


 アルノーは西棟へ続く廊下を見た。


「ただ、妻の姿は冷たくありませんでした」


「どういう意味です」


「近づくと、花の香りがしました」


「生前に使っていた香水?」


「はい。結婚した頃、私が贈ったものです」


 ミラがアルノーをじっと見つめる。


『また、嘘っぽい』


「根拠は?」


『悲しい顔だけど、妻って言うときだけ声がきれいすぎる』


 感情の揺れを聞き分けているらしい。


 幽霊は強い感情があれば、生者の声の一部を感じ取ることがある。


 だが、それも絶対ではない。


 印象だけで判断はできない。


     ◇


 三人の身体は、それぞれ別の部屋に安置されていた。


 最初に確認したのは、執事長ヨハン。


 地下に近い使用人用の小部屋。


 ベッドの上で仰向けになり、両手を胸元へ置かれている。


 顔色は白い。


 呼吸は見えない。


 胸へ耳を当てても、鼓動は聞こえなかった。


 しかし、死体特有の匂いがない。


「硬直は?」


 バルドが尋ねる。


 領内の医師が答える。


「ありません」


 医師は六十代の小柄な男だった。


 名前はヘルマン。


 三人の死亡を確認した本人である。


「三日経っているのに?」


「死後硬直が起きずに終わる例もあります」


「体温は」


「室温と同じです」


 セシリアがヨハンの胸元へ銀杖を近づける。


 魔石は反応しない。


「生命力が検出できません」


「やはり亡くなっている?」


「通常であれば」


「通常ではない可能性は」


「あります」


 セシリアはヨハンの右手を持ち上げた。


 指の関節は柔らかい。


 爪の根元に、薄い赤みが残っている。


「血液が完全に沈んでいない」


「どういうことです」


「死亡後三日目の状態としては不自然です」


 エルナは手の甲を観察する。


「インクの跡があります」


 右手の人差し指。


 黒い線が薄く付着している。


「執事長が記録を行う際についたものでは?」


 医師が答える。


「亡くなった日の朝、手を洗いましたか」


「遺体を清めた侍女が」


「その後に付着した?」


「あり得ません」


 レインはヨハンの手元を見る。


 幽霊は見えない。


 だが、ベッドの横の机には執事日誌が置かれている。


 最後の記録は、死亡前日の夜十時。


西廊下の扉、施錠確認。

鏡の間より足音。

私自身が先を歩いていた。

追いつけず。


 その下。


 新しいインクで一行が加えられていた。


今夜も、追いつけなかった。


「この文字は誰が書きました」


 アルノーが首を横に振る。


「誰も」


「インクは乾き切っていない」


 エルナが指を近づける。


「数時間以内に書かれています」


「執事長が書いた?」


 バルドがベッドを見る。


「死んで三日目の人間が?」


「筆跡を確認できますか」


 過去の日誌と比較する。


 文字の形。


 筆圧。


 行末の癖。


 同一人物のものに見える。


「ヨハン本人の筆跡である可能性が高いです」


 エルナが答えた。


 レインは身体の顔を見る。


「聞こえますか」


 返事はない。


「ヨハン・メルク」


 死者であれば、名前へ反応することがある。


 何も起きない。


 ミラも首を横に振った。


『ここにはいない』


 レインは記録した。


執事長ヨハン。

身体に生命反応なし。幽霊反応なし。死後変化も極めて少ない。


死亡確認後に、本人の筆跡とみられる日誌記録が追加されている。


     ◇


 侍女アンナの身体は、北棟の小部屋にあった。


 若い顔は眠っているように穏やかだった。


 枕元には、銀製の茶匙が置かれている。


「これは?」


「アンナが、亡くなる前に握っていたものです」


 別の侍女が答えた。


「無理に外そうとすると、手が開かなかったため、枕元へ置きました」


 レインは茶匙へ触れる。


 冷たい。


 だが、柄の部分だけが少し温かい。


「誰かが使いましたか」


「いいえ」


 ミラが茶匙の周囲を回る。


『声がする』


「幽霊か」


『違う』


「何と聞こえる」


『お茶を運ばなきゃ』


 アンナが生前に何度も考えた言葉なのだろう。


 物へ残った記憶。


 強い残留思念に近い。


 しかし通常の残留思念なら、同じ言葉を繰り返すだけだ。


『次は、奥様の部屋』


 声が変化した。


『でも、奥様は部屋にいない』


 ミラが驚く。


『返事を変えた』


「こちらの話を聞いている?」


『分からない』


 レインは茶匙へ尋ねた。


「アンナはどこにいますか」


 長い沈黙。


 その後、かすかな声。


『先を歩いてる』


「廊下を?」


『私より先に』


 レインは茶匙から手を離した。


 物に残った記憶が、質問へ答えた。


 残留思念では説明できない。


 アンナの意思の一部が茶匙に残っているのか。


 それとも、屋敷全体が彼女の記憶を使って答えているのか。


 エルナが記録を見ながら言う。


「本人の魂が複数の物や場所へ分散している可能性は?」


「それなら、ミラか俺が死者の声として認識できるはずです」


「魂ではなく、記憶だけが分散している?」


「まだ判断できません」


 セシリアはアンナの身体へ術を使う。


 やはり生命反応はない。


 だが彼女の髪の一部が、枕の横へ新しく落ちていた。


「髪が伸びている?」


 医師ヘルマンが首を振る。


「死亡後も、皮膚の収縮によって伸びたように見えることがあります」


「皮膚は収縮していません」


「では……」


 医師は答えられない。


     ◇


 最後は、当主夫人リディアの寝室だった。


 西棟の二階。


 怪異が現れる廊下のすぐそば。


 大きな天蓋付きベッドの中で、リディアは眠っていた。


 淡い茶色の髪。


 細い顔。


 白い寝間着。


 胸元には、小さな青い宝石の首飾り。


 アルノーが贈ったものだという。


『この人』


 ミラがベッドへ近づいた。


「何か感じるか」


『怖がってる』


「身体が?」


『部屋が』


 レインは周囲を見る。


 壁には夫婦の肖像画。


 窓辺には枯れた花。


 鏡台には香水瓶や櫛が整然と並んでいる。


 どれも普通に見える。


 ただ、鏡だけが布で覆われていた。


「なぜ隠しているんです」


 アルノーが答える。


「妻が倒れる前、鏡をすべて隠してほしいと言ったからです」


「理由は」


「自分の姿が、自分より先に動くからと」


 レインは布を外そうとした。


 アルノーが腕をつかむ。


「待ってください」


「確認が必要です」


「妻は、鏡を見ることを恐れていました」


「今も恐れているかは、本人へ聞けません」


「だからこそ、意思を尊重すべきです」


 レインはアルノーの手を見る。


 強く握っている。


「鏡に、あなたが見られたくないものがある?」


 アルノーは手を離した。


「何を疑っているのです」


「まだ何も」


「なら、その聞き方は何です」


「確認です」


 セシリアが二人の間へ入る。


「鏡を調べます。ただし破壊や術の使用は、反応を確認してからにします」


 アルノーはしばらく黙り、最終的にうなずいた。


 布を外す。


 大きな姿見。


 銀の縁。


 表面は曇っていない。


 鏡には、レイン、セシリア、バルド、エルナ、アルノーが映る。


 ミラは映らない。


 幽霊だからだ。


「普通の鏡に見えます」


 エルナが縁の文字を調べる。


「古い製品です。百五十年ほど前の職人印があります」


「魔術具ですか」


「表面上は、その痕跡がありません」


 レインは鏡に映るリディアを見る。


 ベッドで眠っている。


 だが、現実のリディアと姿勢が違った。


「鏡の中で、目が開いている」


 全員がベッドを見る。


 現実のリディアは目を閉じている。


 鏡の中だけ、薄い青色の瞳が開いている。


「リディア」


 アルノーが鏡へ近づく。


 鏡の中の彼女は、ゆっくりと顔を動かした。


 夫ではなく、レインを見る。


 唇が動く。


 声は聞こえない。


「何と言っています」


 セシリアが尋ねる。


 読唇できるほど明瞭ではない。


 だがミラが鏡の内側へ顔を近づけた。


『この人の声がする』


「死者の声?」


『違う。もっと遠い』


 鏡のリディアが、もう一度唇を動かす。


 ミラが聞き取った。


『私を、死んだことにしないで』


 部屋の空気が凍りついた。


 アルノーの顔から血の気が引く。


「リディアは生きている?」


 レインがベッドへ近づく。


 手首。


 首筋。


 胸。


 鼓動はない。


 息もない。


 それでも、鏡の中のリディアは目を開けている。


「生命反応は検出できません」


 セシリアが言う。


「ですが、本人の意識が完全に消えているとも言えません」


「身体から意識だけが離れている?」


 エルナが鏡を見つめる。


「幽霊としてではなく、鏡や屋敷の記憶へ移されている可能性があります」


「移したのは誰だ」


 バルドがアルノーを見る。


「私ではない!」


 当主の声が裏返る。


『嘘』


 ミラが即座に言った。


「何が嘘だ」


『知らないっていう声じゃなかった』


「本人が移したとは限らない」


『でも、何か知ってる』


 レインはアルノーへ向き直った。


「鏡の中のリディアを、以前にも見ましたね」


「……一度だけ」


「いつ」


「妻が倒れる前夜です」


「何をしていた」


「鏡の中から、廊下を指さしていました」


「なぜ話さなかった」


「私も疲れていた。幻だと思った」


「ほかには?」


 アルノーは答えない。


「鏡の中のリディアは、何と言った」


「聞こえなかった」


『嘘』


 ミラが再び断言する。


「ミラには、嘘と感じられるそうです」


「幽霊の印象を証拠にするのですか」


「しません。だから本人へ聞いています」


 アルノーは鏡から目をそらした。


「妻は……私を指さしました」


「何と言った」


「あなたが先に言った、と」


「何を」


 答えが出る前に、屋敷の時計が九時を打った。


 ごん。


 一度。


 ごん。


 二度。


 西廊下から、靴音が聞こえる。


 こつ。


 こつ。


 ゆっくりと七歩。


 その後、止まる。


「始まりました」


 使者が震える。


「毎晩、最初は奥様です」


 レインたちは廊下へ出た。


 灯りの少ない長い通路。


 壁には代々のヴァイス家当主の肖像画が並んでいる。


 廊下の奥。


 青いドレスを着たリディアが歩いていた。


 寝室にいる身体とは違う。


 顔色はよく、髪も整えられている。


 七歩進む。


 止まる。


 右側の壁を見る。


 再び七歩。


「壁を見ている?」


 エルナが古い屋敷図を開く。


「現在は壁ですが、建築当初は扉があった場所です」


「過去の間取りを歩いている」


 リディアの姿は壁へ手を伸ばした。


 扉を開ける仕草。


 そのまま壁の中へ入る。


 数秒後、別の場所から現れた。


「幽霊ではなくても、壁を通過するのか」


 バルドが大剣へ手をかける。


「斬らないでください」


「まだ抜いていない」


 続いて、執事長ヨハンが現れた。


 扉の鍵を確かめ、日誌へ何かを書く。


 最後に侍女アンナ。


 銀の盆に茶器を載せ、廊下の奥へ進む。


 三人とも、生前と変わらない姿をしていた。


 だがレインには何の声も聞こえない。


 幽霊ではない。


 残留思念のように、行動を繰り返している。


 アンナが茶器を落とす。


 陶器が割れる。


 しかし床には何も残らない。


 彼女は空になった盆を見つめ、声を出さずに泣き始めた。


「毎晩、同じですか」


 レインが使者へ尋ねる。


「ここまでは」


「この後は?」


「今夜は、少し違います」


 使者が廊下の反対側を指した。


 そこに、四人目の姿が立っていた。


 アルノー・ヴァイス。


 現在、レインたちの隣にいる生者と同じ顔。


 青い正装。


 右手には、リディアと同じ首飾り。


「俺にも見える」


 バルドがつぶやく。


「全員に見えています」


 セシリアの銀杖は、何の反応も示していない。


 生者でも死者でも、通常の魔術でもない。


 廊下を歩くアルノーの姿は、リディアへ近づく。


 本人のアルノーが青ざめた。


「これは、今まで現れなかった」


「過去にあった出来事ですか」


「知らない」


『嘘』


 ミラが言う。


 歩くアルノーは、リディアの前で止まった。


 彼女の肩へ手を置く。


 リディアは夫を見上げる。


 今度は声が聞こえた。


「愛している」


 廊下を歩くアルノーが言った。


 リディアの表情が歪む。


 喜びではない。


 悲しみ。


 恐怖。


 そして、強い拒絶。


「嘘つき」


 リディアが答えた。


 本人のアルノーが後ずさる。


「違う」


「何が違うんです」


「私は、そんなことを言っていない」


「どちらを?」


「愛しているとも、リディアに嘘つきと返されたこともない!」


 廊下の二人は、本人の言葉を無視して続ける。


 記憶のアルノーが、首飾りをリディアの胸へ当てる。


「これがあれば、幸せだった頃を忘れない」


 リディアは夫の手を振り払った。


「忘れたいの」


「なぜ」


「私が愛していたのは、あなたではないから」


 その瞬間、廊下のすべての姿が止まった。


 リディア。


 ヨハン。


 アンナ。


 記憶のアルノー。


 四人が同時にレインを見る。


 それまで、誰にも反応していなかった姿が。


「こちらを認識した」


 セシリアが銀杖を上げる。


 記憶のリディアが口を開く。


「次は、あなたの記憶を歩かせて」


 廊下の床から銀色の光が伸び、レインの足へ絡みついた。


「下がれ!」


 バルドがレインを引く。


 しかし光は身体ではなく、影へ食い込んでいる。


 レインの視界が揺れる。


 墓地。


 父ダリオ。


 最初にミラと会った夜。


 エドガー。


 エルザ。


 古戦場。


 自分が記録した記憶が、身体から廊下へ引き出されようとしている。


『レイン!』


 ミラが光へ飛びつく。


「俺の名前を!」


『レイン・アスター!』


「もう一度!」


『レイン・アスター! 聞き書き人!』


 セシリアも叫ぶ。


「二十二歳、リベルタ生まれ!」


 バルドがレインの腕を強く引く。


「墓守の息子! 幽霊に話しかける変人!」


「最後は必要ですか!」


「本人を示している!」


 エルナは床の銀色の線を調べる。


「影ではありません! レインさんの足元にある、廊下へ映った姿を引いています!」


「鏡像か!」


「廊下全体が鏡のように記憶を映しています!」


 エルナが鞄から布を取り出し、床へ投げた。


 レインの足元の反射が隠れる。


 銀色の光が切れた。


 廊下を歩いていた四人の姿が一斉に崩れる。


 霧ではない。


 細かな文字。


 会話。


 匂い。


 足音。


 記憶の断片となって床へ沈み込んだ。


 西廊下に静寂が戻る。


 レインは壁へ手をつき、呼吸を整えた。


「今のものは、幽霊ではありません」


 セシリアが言う。


「魔術反応も、死霊反応もなかった」


「それでも、こちらの記憶を奪おうとした」


 エルナは床の木目を指でなぞる。


「この廊下自体に、記憶を読み取り、再現し、追加する性質があります」


「屋敷が人間の記憶を歩かせている?」


「可能性があります」


 本人のアルノーは壁際に座り込んでいた。


「今の会話は、本当にあったんですか」


 レインが尋ねる。


「知らない」


「リディアは、あなた以外を愛していた?」


「知らない!」


「首飾りは?」


 アルノーは妻の寝室の方向を見る。


「結婚三年目に贈った」


「幸せだった頃を忘れないように、と言いましたか」


 沈黙。


『嘘』


 ミラがつぶやく。


「言ったんですね」


「……似たことは言った」


「リディアは、忘れたいと?」


「言っていない」


「本当に?」


「本当だ!」


 今の否定には、先ほどとは違う強さがあった。


 少なくともアルノー自身は、リディアがその言葉を口にした記憶を持っていない。


 廊下を歩いた場面が事実を再現しているとは限らない。


 誰かの願望。


 恐怖。


 作り替えられた記憶。


 それらが混ざっている可能性がある。


 聞き書き帳を開く。


 最後の頁を破って以降、勝手な命令は現れない。


 レインは自分で新しい頁へ書いた。


西廊下に現れた四名の姿。


死霊反応なし。魔術反応も極めて弱い。

過去の間取りを認識し、生前の行動らしき場面を再現。


ただし、本人の記憶と一致しない会話を含む。

外部の観察者へ反応し、記憶を追加取得しようとした。


『レイン』


 ミラが寝室の方角を見る。


「どうした」


『身体のほうから、声がする』


「リディアの?」


『三人とも』


 レインたちは急いで寝室へ戻った。


 リディアの身体は、先ほどと同じ姿勢で眠っている。


 だが唇がわずかに動いていた。


 声は生者の耳には聞こえない。


 レインにも、死者の声としては届かない。


 ミラだけが、遠い場所から伝わるような言葉を拾っている。


『廊下に』


「何と言っている」


『私たちは、廊下にいる』


 リディアの指先が、ほんの少し動いた。


 次に、胸元の青い宝石が淡く光る。


 セシリアが銀杖を近づける。


 今まで何も示さなかった魔石に、小さな緑の点がともった。


「生命反応」


「生きている?」


「非常に弱い。しかし、あります」


 医師ヘルマンがベッドへ駆け寄る。


「三日前は、確かに何も」


「何を基準に死亡を確認しました」


「呼吸、脈、瞳孔、体温」


「生命力を測る術は?」


「私は魔術師ではありません」


 セシリアはリディアの瞼を開く。


 瞳が、光へわずかに反応した。


「死亡していません」


 部屋にいる全員が息をのむ。


「少なくとも、通常の意味では」


「妻は生きているのですか」


 アルノーが震える声で尋ねる。


「身体だけが生命を保っています。意識がどこにあるかは不明です」


『廊下』


 ミラが言った。


「三人の意識は、廊下を歩く姿の中にある?」


『違うみたい』


「では?」


 ミラは鏡を見た。


 鏡の中には、目を開いたリディアがいる。


 現実の身体は目を閉じている。


 鏡のリディアが唇を動かす。


『私の記憶が、私のふりをしている』


 次に、鏡の奥から別の声。


 執事長ヨハン。


『私たちは、追いつけない』


 侍女アンナ。


『先に歩くものが、私たちの人生を使っている』


 鏡の表面に、三つの手形が浮かんだ。


 内側から助けを求めるように。


 レインは鏡へ近づいた。


「あなたたちは、どこにいる」


 三人の口が同時に動く。


『忘れられた部屋』


「屋敷のどこです」


『今の屋敷には、存在しない』


 エルナが古い建築図を広げる。


 西廊下。


 過去には扉があった場所。


 リディアの姿が、壁の中へ入った場所だ。


「改築で封鎖された部屋があります」


「いつ」


「十二年前です」


 アルノーの表情が変わった。


「結婚前ですね」


 レインが言う。


「何の部屋だった」


「記憶保管室」


 アルノーが答えた。


 初めて聞く名称だった。


「ヴァイス家には、過去の出来事を鏡へ残す術が伝わっていました」


「なぜ今まで話さなかった」


「使えない術だと思っていた!」


「部屋を封じた理由は」


「父が死ぬ前に命じたからです。中の鏡を二度と使うなと」


「術の内容は?」


「幸福な記憶を保存し、つらいときに見返すためのものだと聞いていました」


 ミラが首飾りを見る。


『幸せだった頃を忘れないため』


 アルノーがリディアへ贈った言葉。


 青い宝石。


 鏡。


 封じられた記憶保管室。


 すべてがつながり始めている。


「壁を開けます」


 レインが言った。


「今夜は危険です」


 セシリアが止める。


「三人は生きている。時間を置けば、記憶だけでなく生命まで奪われる可能性がある」


「だからこそ、準備が必要です」


 セシリアはレインへ顔を近づけた。


「あなたも先ほど、記憶を奪われかけました。今すぐ入れば、三人と同じ状態になるかもしれない」


「では、どうする」


「部屋の位置と構造を確認する。封印術を用意する。鏡へ映らない方法を作る」


 エルナがうなずく。


「床、壁、鏡、金属面。反射するものをすべて覆う必要があります」


 バルドが壁を叩いた。


「中へ入る穴は、俺が開ける」


「屋敷を壊す前に、正式な入口を探してください」


「なければ壊す」


「それは最後です」


『私は入れるよ』


 ミラが壁へ手を伸ばす。


「一人では行かせない」


『でも、私は鏡に映らない』


「だから安全とは限らない」


『三人の声は、私にしか聞こえない』


 レインは答えられなかった。


 ミラの言うとおりだ。


 生者の意識でも、死者の魂でもない状態。


 その間にいる声は、ミラにしか届いていない。


「壁の向こうを見るだけだ」


『うん』


「何かに名前を呼ばれても答えるな」


『うん』


「レオや本当の名前を出されても戻ってこい」


 ミラは少し不満そうにしたが、うなずいた。


『分かった』


 彼女は西廊下の壁へ入り込んだ。


 銀色の髪が石の中へ消える。


 一秒。


 二秒。


 十秒。


 戻らない。


「ミラ?」


 返事がない。


「おい、戻れ!」


 壁の内側から、何かが叩く音がした。


 どん。


 一度。


 どん。


 二度。


 次に、ミラの声。


『レイン!』


「聞こえる!」


『中に部屋がある!』


「三人は?」


『いない!』


「では、何がある」


 壁の向こうで、何百人もの足音が一斉に鳴った。


 こつ。


 こつ。


 こつ。


 屋敷の廊下を歩いてきた者たちの記憶。


 一つや三つではない。


 ヴァイス家で暮らした、何世代分もの人間の姿が、封じられた部屋の中を歩いている。


『鏡がいっぱいある!』


 ミラが叫ぶ。


『全部の鏡に、違う屋敷が映ってる!』


「今すぐ戻れ!」


『でも、一番奥に誰かいる!』


「誰だ!」


 ミラの返事が途切れる。


 代わりに、壁の中からリディアの声がした。


「愛していると言ったのは、誰?」


 アルノーが身体を震わせた。


 レインは彼を見る。


「何を隠しているんです」


 アルノーは唇を開いた。


 しかし答える前に、西廊下の壁へ一本の亀裂が走った。


 内側から青い光が漏れる。


 壁の中で、ミラが悲鳴を上げた。


『レイン! 鏡の中の人が、私の顔になった!』


 聞き書き帳の白い頁へ、レインが書いていない文字が一行だけ浮かんだ。


記憶は、持ち主がいなくても生き続ける。


 文字の下に、銀色の目が開いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


死亡したと判断されていたリディア、ヨハン、アンナには、非常に弱い生命反応が残っていました。


屋敷を歩く姿は幽霊ではなく、三人の記憶や行動を利用して動く別の存在です。


そして西廊下の壁の向こうには、ヴァイス家が何世代にもわたり記憶を保存してきた《記憶保管室》が封じられていました。


次回、第20話「幽霊ではなく、記憶が歩いていた」。


レインたちは無数の鏡が並ぶ部屋へ入り、人間の記憶が本人から離れ、自律して歩き始めた仕組みを調べます。

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