第18話 死者を食べる影
有罪なら英雄を、無罪なら告発者たちを食らう黒い影。
その核は、百年前にレオ・アスターが残した最初の判決文にあった。
レインは判決を一つに決めるのではなく、捨てられたすべての証言を記録へ戻そうとする。
『次の公判はない』
黒い影が、法廷全体を覆った。
『今夜、全員を食う』
何千もの口が同時に開く。
兵士の声。
母親の声。
老人の声。
子どもの声。
百年間に食われた死者たちの記憶が、ばらばらの言葉となって吐き出される。
『将軍は英雄だ』
『裏切り者だ』
『橋を壊した』
『橋を守ろうとした』
『命令はあった』
『命令はなかった』
『私は見た』
『私は見ていない』
矛盾する声が増えるほど、影の身体は膨らんでいく。
裁判席より高く。
慰霊塔よりも大きく。
黒い腕が法廷の石壁へ触れると、表面に刻まれた戦死者の名前が一文字ずつ消え始めた。
『名前が!』
『俺の名前を返せ!』
『忘れたくない!』
死者たちが逃げ惑う。
「全員、中央へ集まってください!」
セシリアが銀杖を地面へ突き立てた。
「月光境界!」
白い光が円形に広がり、死者一人ひとりの輪郭を包む。
影の口が光へ噛みつく。
ぱきり。
銀杖の魔石に新たな亀裂が走った。
「長くは保ちません!」
「十分です!」
「あなたの十分は信用できません!」
「今回は本当に急ぎます!」
バルドが大剣を振り上げる。
影の腕が石壁を崩し、巨大な岩塊を落とす。
「生者は頭を下げろ!」
大剣が岩を打ち砕く。
砕けた石が黒い影を通り抜け、法廷の外へ散った。
「影そのものは斬れん!」
「胸の紋章を狙ってください!」
「高すぎる!」
「足を崩せば下がります!」
「簡単に言うな!」
バルドは怒鳴りながらも、影が足場にしている裁判席へ向かった。
大剣を石柱へ叩きつける。
一撃。
二撃。
柱に亀裂が走り、影の巨体が傾いた。
『記録を』
ミラが数千人の死者の前へ浮かび上がる。
『みんな、自分が覚えていることを一度だけ話して!』
死者たちが一斉に口を開こうとする。
『一人ずつ!』
ミラの声が古戦場を震わせた。
『同じことを何度も言わなくていい! 違うと思う人は、違うって言って!』
「それでは、さらに矛盾が増えます」
エルナが言う。
「増えていいんです」
レインは裁判官席へ走りながら答えた。
「影は、採用されなかった記憶を食べる。なら、採用されない証言をなくす」
「すべてを真実として記録するのですか」
「証言として記録します。事実と決めるわけではない」
見たこと。
聞いたこと。
思い込んでいたこと。
後から知ったこと。
本人の中で変化したこと。
すべてを同じ一つの真実へ押し込む必要はない。
「証言が間違っていた場合は?」
「間違っていたことも含めて残す」
カインは、民兵に射られたと思っていた。
現場の痕跡では、王国軍補給所側から矢が飛んでいた。
最初の記憶は事実ではなかった可能性が高い。
だが、なぜ百年間そう信じたのか。
死の直前に見た民兵。
青い矢。
命令を届けられなかった罪悪感。
それらが結びつき、彼の中で一つの記憶になった。
誤った記憶も、本人が百年間抱えてきた事実ではある。
「事実認定と、証言記録を分ける」
エルナの目が見開かれる。
「それなら、矛盾した証言を棄却せずに残せます」
「手伝ってください」
「もちろんです」
エルナは紙束を裁判官席の下へ広げた。
レインは黒い巻物へ手を伸ばす。
老女裁判官が木槌で行く手を塞いだ。
『開いてはならない』
「影の核が入っています」
『だからだ』
「このままでも全員が食われます」
『巻物を開けば、最初の判決が執行される』
「どんな判決です」
『分からない』
「百年間持っていたのに?」
『読むことを禁じられていた』
「誰に」
裁判官の喉元へ、黒い歯形が浮かぶ。
『鐘務局』
影が老女の口を塞ごうとする。
レインは巻物をつかんだ。
紙とは思えないほど冷たい。
触れた指から体温が奪われていく。
何百人もの声が頭へ流れ込んだ。
『採用されなかった』
『誰にも聞かれなかった』
『証言台へ立てなかった』
『名前が名簿になかった』
『敵兵だから除外された』
『農民だから除外された』
『子どもだから理解できないと言われた』
『将軍に都合が悪いから消された』
『告発に都合が悪いから消された』
レインの視界が暗くなる。
裁判官席ではなく、百年前の法廷が見えた。
まだ石壁が新しい。
死者たちは今よりも輪郭が鮮明で、怒りと悲しみを抱えながら証言を待っている。
中央には、黒い帳面を持つ若い男が立っていた。
レオ・アスター。
壁画で見た姿。
レインとよく似た目をしている。
『証言は棄却しない』
レオが言った。
『事実と一致しない証言も、その者がそう記憶している理由を記録する』
裁判官が問いかける。
『それでは真実が定まらない』
『真実を一文へ縮める必要はない』
『判決が出せない』
『誰か一人にすべての責任を負わせる判決なら、出さなくていい』
現在のレインが口にしたことと、ほとんど同じだった。
レオは黒い巻物へ判決を書き始める。
エドラム・ヴァレインは、王国を救った。
次の一文。
エドラム・ヴァレインは、王国を守るため、民間人の死を隠した。
リュド・カルバンは、偽りの命令に惑わされた。
リュド・カルバンは、民間人を視認しながら橋を爆破した。
カイン・レスターは、退却命令を届けようとした。
カイン・レスターは、命令を届けられなかった罪を自分一人で背負った。
王国軍は侵攻を防いだ。
王国軍は被害者の名前を記録から消した。
北方軍は敵であった。
北方軍の中にも、民間人を逃がそうとした者がいた。
相反する文章が、同じ巻物へ並ぶ。
どちらか一方を消さない。
英雄と罪人。
加害者と被害者。
命令した者と、命令に従った者。
人間は一つの役割だけではない。
レオが最後の一文を書こうとしたとき、白い法衣の神官が現れた。
胸には黒い鐘の紋章。
『判決になっていない』
『これは判決ではない』
レオは答えた。
『記録だ』
『戦争を終わらせるには、英雄か裏切り者かを決めなければならない』
『生者が望む物語のために、死者を削るな』
神官は小さな記憶箱を開いた。
箱から黒い煙が流れ、巻物の文字へ染み込む。
レオが書いた文章が一行ずつ消えていく。
代わりに別の判決が現れた。
被告を有罪とした場合、被告の全記憶を棄却する。
被告を無罪とした場合、告発者の全証言を棄却する。
棄却記録は記憶鐘へ返還する。
『やめろ!』
レオが巻物を奪おうとする。
白い神官は彼の右腕を黒い糸で縛った。
『矛盾は死者を地上へ残す』
『違う』
『一つの結論へまとめれば、死者は静かになる』
『声を奪っているだけだ!』
『静かになることが救済だ』
神官は裁判官へ巻物を渡した。
『判決が出るまで公判を続けよ』
レオは聞き書き帳の頁を破り、何かを巻物の下へ挟んだ。
その直後、黒い鐘が鳴る。
記憶は途切れた。
◇
「レイン!」
ミラの声で、現在へ引き戻される。
身体の感覚がほとんどない。
両腕が透け、指先が黒い巻物へ沈み込んでいる。
セシリアが後ろからレインの肩をつかんでいた。
「名前を言ってください!」
「レイン……アスター」
「もう一度!」
「レイン・アスター。二十二歳。リベルタ生まれ」
「現在地は!」
「ヴァルグ古戦場。死者の法廷」
「何をしています!」
「最初の判決を……調べている」
「目的は!」
「捨てられた証言を、記録へ戻す」
生者側の音が戻る。
バルドの怒声。
石の砕ける音。
死者たちの叫び。
エルナが紙へ筆を走らせる音。
レインは巻物から手を抜いた。
「見ました」
「何を」
「レオが書いた最初の記録です」
黒い巻物の表面。
鐘務局が書き換えた判決の下に、別の紙片が挟まっている。
レオが最後に破った頁。
レインが指を差し込むと、紙片を抜き取ることができた。
古い文字が残っている。
判決を出すな。
証言を一つも捨てるな。
矛盾は、消すべき汚れではない。
人が一つの出来事を異なる場所から見た痕跡である。
その下には、途中で途切れた一文。
裁くべきは、人ではなく――
最後の言葉がない。
書く前に止められたのだろう。
「人ではなく、何を裁くつもりだったんでしょう」
エルナが紙片を見る。
「戦争?」
セシリアが言う。
「命令?」
バルドが岩を切り払いながら答える。
レインは法廷を見渡した。
百年間、死者たちはエドラムの罪を争ってきた。
だが、その裁判を利用していたものがいる。
人々を英雄と裏切り者へ分ける記録。
採用されなかった声を捨てる仕組み。
一人を犠牲にすれば全員が救われると思わせる規則。
「裁くべきは、記録の仕組みです」
レインは言った。
「死者の声を、都合のよい一つだけに決める仕組みそのものだ」
聞き書き帳を開く。
黒い文字が即座に現れた。
エドラムを差し出せ。
レインは下へ書く。
拒否する。
影が全員を食う。
捨てる証言をなくす。
矛盾は残る。
残す。
判決にならない。
判決ではなく、調査結果を記録する。
帳面が激しく震える。
最後の頁から、黒い染みが広がり始めた。
影の身体と同じ色。
「帳面と影がつながっています!」
セシリアが叫ぶ。
「最後の頁を閉じてください!」
「閉じられない!」
黒い糸が帳面から伸び、法廷の影へつながる。
ルーヴェル村で見つけたレオの警告が蘇る。
帳面が命令を始めたなら、最後の頁を破れ。
最後の頁には、ミラが捨てた名前が記されている。
破れば、取り戻せない可能性がある。
『破って』
ミラが言った。
レインは彼女を見る。
「お前の名前がある」
『今の名前はミラ』
「過去を失うかもしれない」
『過去を知りたい』
ミラの声は震えていた。
『レオとの約束も、本当の名前も知りたい』
「なら」
『でも、そのために今いる人たちを影に食べさせるのは嫌』
黒い影が巨大な口を開く。
法廷の上半分が暗闇へ飲み込まれた。
セシリアの境界が砕け始める。
死者たちの身体から、記憶の光が引き抜かれる。
花の匂い。
家族の顔。
最後に聞いた声。
自分の名前。
すべてが影へ向かう。
『過去の私が、本当に鐘守りだったとしても』
ミラはレインの前へ立った。
『今の私は、みんなを渡さないと決めた』
「後悔するぞ」
『するかもしれない』
「二度と戻らない」
『それでも、私が決める』
ルーヴェルの菓子香売り。
花冠。
旅立つ者も、残る者も、自分で選んだ。
ミラも同じだった。
「分かった」
レインは最後の頁をつかんだ。
紙が刃のように硬くなり、指先を切る。
血が一滴落ちる。
頁に銀色の文字が浮かび上がった。
ミレイア・セレスト。
霧の中で呼ばれた名。
白い帳簿がミラの本当の名として示したもの。
その下には、さらに古い名前が隠れていた。
だが読む時間はない。
「最後に確認する」
レインはミラを見る。
「破っていいんだな」
『うん』
「誰が決めた」
『私が決めた』
レインは頁を引き裂いた。
びりっ。
小さな音だった。
だが古戦場全体の鐘が、割れるような悲鳴を上げた。
『ああああああああ!』
黒い影が身体をのけぞらせる。
聞き書き帳から伸びていた糸が切れる。
影の胸にある黒い鐘の紋章へ、大きな亀裂が走った。
破った頁はレインの手の中で黒い灰へ変わる。
銀色の文字も消えた。
ミラの身体が大きく揺らぐ。
『レイン』
「見える」
『私の名前は?』
「ミラ」
『本当に?』
「自分で選んだ名前だ」
ミラの輪郭が戻る。
『うん。私はミラ』
過去の名前は失われたかもしれない。
だが現在の彼女は消えなかった。
影の胸元から、何百、何千もの光が噴き出す。
食われていた記憶だ。
『今です!』
エルナが叫ぶ。
「レオの元の文章を記録へ戻します!」
レインは新しい頁を開いた。
最後の頁ではない。
自分で選んだ、何も書かれていない頁。
そこへ題を書く。
ヴァルグ古戦場調査結果。
「ミラ! 証言者を順番に!」
『分かった!』
ミラは法廷中央へ浮かぶ。
『最初はカイン!』
伝令が前へ出る。
『私は退却命令を持っていた。届けられなかった。最初は民兵に殺されたと思っていた。でも、現場では王国軍側から矢が飛んでいた』
レインが記録する。
エルナが生者側の紙へ写す。
カインから抜けた二つの記憶が、どちらも消えず頁へ収まる。
影の腕が一本崩れた。
『次、南橋の人!』
子どもを抱く女性が進む。
『私は、将軍が橋を壊したと思っていた。兵士が将軍命令だと叫び、印章も見た。だが実際に火をつけたのは、左手の指がない副官だった』
記録する。
『それでも、将軍が私たちの死を隠したことは許さない』
その言葉も消さない。
影の肩が崩れる。
『次、将軍!』
エドラムが被告人席から立つ。
鎖はまだ残っている。
『私は退却を命じた。橋の破壊は命じていない。北方との秘密交渉は、民間人の避難路を作るためだった』
弁護側の死者たちが歓声を上げかける。
エドラムは続けた。
『だが戦後、橋で死んだ民間人を記録から消すことを選んだ。停戦と王国の名誉を守るためだ』
歓声が止まる。
『私は国を救った』
将軍は死者たちを見る。
『そして、お前たちを裏切った』
両方を記録する。
最後の鎖が切れた。
だがエドラムは逃げなかった。
被告人席の中へ立ったまま、頭を下げる。
『次、副官!』
影の胸に縛られたリュドが顔を上げる。
『私は、偽の声を信じた』
「それだけですか」
『違う』
リュドの半分残った顔から涙が落ちる。
『橋の向こうに人がいると見えていた。それでも火をつけた』
「なぜ」
『将軍にすべての責任を負わされると恐れた。自分だけが切り捨てられると思った』
「その声が偽物だと気づいた後は?」
『間違いを認めるより、将軍を悪人にするほうを選んだ』
記録する。
影の胸が割れる。
リュドを縛っていた鎖が外れた。
彼は地面へ倒れ、何度も咳をする。
幽霊に呼吸は必要ない。
それでも百年間、影の中で声を奪われていた身体は、生き返ったように空気を求めた。
『鐘務局の神官について知っていることは』
ミラが尋ねる。
リュドは震える指で、黒い影の中心を指した。
『名前は知らない』
「特徴は」
『銀色の目。黒い鐘の紋章。記憶箱を持っていた』
ミラと同じ銀色の瞳。
白い帳簿の目。
偶然とは考えにくい。
『神官は何を望んでいた』
『戦場の死者を、一つの鐘へ入れること』
「裁判は、その選別装置だった?」
『有罪側か、無罪側か。片方の記憶を捨て、残りを一つの物語へまとめるために』
英雄の物語。
裏切り者の物語。
生者が扱いやすい一つの歴史。
そこから外れる声を、影が食べていた。
レインは記録する。
ヴァルグの死者裁判は、真実を確定するための制度ではなかった。
相反する記憶の一方を棄却し、死者を一つの物語へ統合するため、鐘務局によって改変された可能性が高い。
影の胴体が崩れる。
中から、食われていた死者が次々と分離していく。
敵兵。
民兵。
記録されなかった子ども。
戦場で治療をした女性。
逃げようとした囚人兵。
どちらの軍にも属さなかった旅商人。
それぞれが自分の記憶を語る。
エルナが生者側の記録へ書き写す。
セシリアが分離した死者へ月光の境界を作る。
バルドが崩れる法廷の石を払い、幽霊たちが集まる場所を守る。
数千人すべての詳しい証言を、一晩で書くことはできない。
だから最初に、存在を記録する。
王国軍戦死者。
北方諸侯軍戦死者。
地方民兵。
避難できなかった三集落の住人。
軍の名簿へ載らなかった荷運び人、治療者、捕虜、子ども。
公式記録外の死者が存在する。
一人ずつ詳細を聞くための場所を作る。
法廷ではなく、証言所。
有罪か無罪かを迫らない。
覚えていることを話し、ほかの記録と照合する場所。
「裁判官」
レインは老女を見る。
「この法廷を終わらせてください」
『判決は』
「一つの判決は出しません」
『それでは、百年間の審理が』
「無駄にはなりません」
レインは調査結果を読み上げた。
「第一罪状。第三軍団への退却命令は出されていた可能性が高い。エドラム将軍の故意による見殺しとは認定しない」
告発側の一部が不満の声を上げる。
「ただし命令が届かなかった原因と、副官を監督できなかった責任は別に記録する」
次。
「第二罪状。橋の破壊を直接命じた証拠はない。実行者は副官リュド・カルバン。しかしエドラム将軍は戦後、民間人の被害を認識しながら隠蔽を選択した」
将軍が目を閉じる。
「第三罪状。北方との秘密交渉は存在した。ただし目的は領地分割ではなく、民間人の避難路確保。反逆罪とは認定しない。軍法上の手続違反については、生者の法で別途検討する」
最後に。
「エドラム・ヴァレインは、英雄か裏切り者かのどちらか一方ではない」
法廷にいるすべての死者へ向けて告げる。
「国を救った行動も、民間人を記録から消した選択も、どちらも本人のものです」
裁判官の木槌が震える。
『それを、判決と呼べるのか』
「調査結果です」
『裁きではない』
「俺は裁判官ではありません」
レインは聞き書き帳を閉じた。
「許すかどうかは、被害を受けた死者が決める。罪をどう扱うかは、生者の法が決める。本人が何を背負うかは、本人が決める」
「では、この法廷は何を決めるのです」
「誰か一人へ、すべてを押しつけないことです」
老女裁判官は長い間、木槌を見つめた。
彼女も百年間、判決を出せなかった。
臆病だったからではない。
どちらを選んでも誰かが食われると知っていたからだ。
『私は』
老女の焼けた顔から、涙が流れた。
『最初の公判で、鐘務局の命令に従った』
「何をしたんです」
『民間人の証言を、軍法廷の対象外として除外した』
濡れた死者たちが老女を見る。
『子どもは証言能力なし。農民は戦況を理解できない。敵兵の証言は信用できない』
老女は木槌を握りしめる。
『私が、最初に声を捨てた』
レインは問いかける。
「今は、どうしますか」
裁判官は立ち上がった。
百年間、一度も離れなかった席から下りる。
民間人。
敵兵。
名簿に載らなかった死者。
彼らと同じ高さへ立つ。
『すべての証言を、審理対象へ戻す』
木槌を一度打つ。
こん。
『被告一名へ全責任を負わせる旧公判を終了する』
二度目。
こん。
『有罪・無罪の二択による記憶棄却を無効とする』
三度目。
こん。
『ヴァルグ死者法廷を解散する』
黒い巻物が燃え上がった。
炎は黒ではない。
白い光。
鐘務局が上書きした判決だけが燃え、レオの紙片と、レインたちの調査記録は残る。
巨大な影が最後の叫びを上げた。
『矛盾が残る!』
「残していい」
レインが答える。
『争いが終わらない!』
「同じ結論にまとめても、なかったことにはならない」
『人は一つの物語を望む!』
「死者は物語の材料ではない」
黒い鐘の紋章が砕ける。
影の身体が、数えきれない小さな光へ分かれた。
選ばれなかった記憶。
捨てられた声。
それぞれが元の持ち主へ戻っていく。
カインは妹の顔を思い出した。
子どもを抱く女性は、自分が歌っていた子守歌を思い出した。
敵兵は、故郷の雪山を思い出した。
エドラムは、戦後に民間人名簿を燃やした自分の手を思い出した。
リュドは、橋を爆破する直前、子どもと目が合ったことを思い出した。
消えていた記憶は、全員にとって優しいものではなかった。
戻れば苦しくなる記憶もある。
だが、それを食べて都合のよい一つの物語にする影は、もういない。
◇
夜が明ける頃、ヴァルグ古戦場から法廷は消えていた。
円形の石壁は崩れ、ただの古い防御陣地へ戻っている。
死者たちは、自由に戦場を歩き始めた。
百年間座っていた席から離れ、敵味方を越えて話す者。
南橋へ家族を探しに行く者。
自分の名を慰霊塔へ刻んでほしいと頼む者。
今すぐ白い扉を探す者。
まだ残る者。
選択は一つではなかった。
エドラム将軍は、崩れた被告人席の前に立っていた。
鎖はない。
「旅立たないんですか」
レインが尋ねる。
『まだだ』
「未練?」
『責任だ』
「同じでは?」
『そうかもしれん』
将軍は南の空を見る。
『消された三集落の名を、生者の記録へ戻したい』
「王国が認めるとは限りません」
『分かっている』
「銅像も残るかもしれない」
『壊せとは言わん』
「英雄としての記録を否定しない?」
『国を守ったことまで嘘にする必要はない』
エドラムは静かに答えた。
『ただ、その足元に誰の死があるかを書いてほしい』
「記録院へ報告します」
エルナが言った。
「公式戦史の訂正には時間がかかります。抵抗もあるでしょう」
『それでも頼む』
「現場記録、死者証言、停戦協定の写しを提出します」
「教会側からも、集団葬送名簿と実際の死者数の再調査を求めます」
セシリアも続けた。
バルドは将軍の銅像がある王都の方角を見る。
「英雄が罪を認めた話は、国にとって都合が悪いぞ」
『都合が悪いからこそ、消される』
エドラムはレインへ目を向ける。
『聞き書き人』
「はい」
『私を英雄とも、裏切り者とも書け』
「両方?」
『どちらも私だ』
レインは記録した。
エドラム・ヴァレイン。
北方諸侯軍の侵攻をヴァルグで阻止し、多数の王国民を救った。
同時に、停戦維持と王国の名誉を理由として、南橋で死亡した民間人の存在を公式記録から隠した。
本人は、功績と責任の双方を自らのものとして記録することを希望。
文字が完成すると、エドラムの軍功章が二つに割れた。
片方は金色のまま。
片方は黒く焦げている。
将軍は両方を拾い、胸へ戻した。
『これでよい』
◇
リュドは法廷跡の端で、一人座っていた。
影から解放された身体は、以前よりも薄い。
長く核として食われ続けたため、残された力が少ないのだろう。
「エドラム将軍へ謝罪しないんですか」
レインが尋ねる。
『謝って許されると思っていない』
「だから何も言わない?」
『それも逃げだな』
リュドは立ち上がり、将軍のもとへ向かった。
二人が何を話すか、レインは聞かなかった。
記録すべきだとも思わなかった。
すべての会話を残すことが、聞き書き人の役目ではない。
本人同士だけで交わす言葉もある。
『聞かないの?』
ミラが不思議そうに尋ねた。
「聞いてほしいと言われていない」
『記録しなくていい?』
「何でも書けばいいわけではないと、レオも残していた」
記録は守る。
同時に、縛る。
書かないという選択も必要だった。
◇
老女裁判官は、最後にレインへ木槌を差し出した。
『これを持っていけ』
「なぜ」
『再び誰かが、一つの判決へ死者を押し込もうとしたときに使え』
「俺は裁判官ではありません」
『知っている』
「では、持つべきではない」
老女は少し笑った。
『昔の聞き書き人も、同じことを言った』
「レオも?」
『木槌を受け取らず、代わりに筆を置いていった』
彼女は木槌を崩れた裁判席へ戻した。
『ならば、あなたも筆を持て』
「最初からそのつもりです」
『ただし忘れるな』
老女の姿が薄くなる。
『筆も、木槌と同じように人を裁ける』
レインは聞き書き帳を見た。
書かれた者を固定する力。
名前を守る力。
命令へ縛る力。
自分の記録が正しいと思い込めば、死者の声を別の形で奪うことになる。
「忘れません」
『忘れる』
老女は即答した。
『生者は忘れる。死者も忘れる』
「では?」
『忘れたとき、誰かに指摘してもらえ』
彼女はミラを見る。
『第十三の方なら、遠慮なく言うだろう』
『言うよ』
「そこは否定してくれ」
『レインが間違えたら、何度でも言う』
老女は満足そうにうなずいた。
そして朝の光へ溶けていった。
成仏したのか。
長い裁判から解放されただけなのか。
分からない。
だが木槌は、もう鳴らなかった。
◇
古戦場を離れる前、レインは聞き書き帳の最後を確認した。
破った頁は戻っていない。
ミレイア・セレストという文字も消えた。
帳面から勝手な命令が現れる気配もない。
「静かになりましたね」
セシリアが言う。
「完全に止まったかは分かりません」
「最後の頁を破った影響は?」
「これから確認します」
エルナが帳面を見つめる。
「ほかの頁へ命令が移る可能性もあります」
『怖いこと言わないで』
「可能性の話です」
バルドが荷物を背負い直す。
「次はどこへ行く」
「まだ次がある前提なんですか」
「ないと思っているのか」
反論できない。
聞き書き帳は静かなままだ。
しかし古戦場の北側から、一人の使者が近づいてきた。
人間だった。
灰色の馬。
黒い外套。
胸元には、地方領主の使者を示す銀章。
男はレインたちを見つけると、馬を止めた。
「聖導教会のセシリア・ローデン調査官でしょうか」
「そうです」
「レイン・アスターという方も?」
「俺です」
使者は安堵したように息を吐き、封書を差し出した。
「レムリア領、ヴァイス家からの調査依頼です」
「怪異ですか」
「屋敷で不可解なことが起きています」
「幽霊?」
使者は首を横に振った。
「それが、いないのです」
「いない?」
「屋敷では三人が亡くなりました」
ミラが使者の背後を見る。
『誰もいない』
死者が出た場所なら、少なくとも何かしらの残留思念があることが多い。
だが使者の衣服にも、馬車にも、死者の気配は付着していない。
「遺体は?」
「あります」
「葬儀は?」
「まだです。亡くなったのは三日前ですから」
「それなのに、幽霊が一人もいない?」
「幽霊が見える人間を探していたわけではありません」
使者は困惑した。
「屋敷では、死んだはずの者たちが歩いています」
「生き返った?」
「いいえ」
男の顔から血の気が引く。
「姿だけが歩くのです」
死者の魂はいない。
声もない。
だが姿と行動だけが、廊下を繰り返し歩いている。
記憶が人の形を取り、本人のように振る舞っている可能性がある。
エルナが興味深そうに封書を見る。
「記憶残像の自律現象でしょうか」
「目を輝かせないでください」
セシリアが注意する。
「危険性を検討しているだけです」
『楽しそう』
「ミラもそう見えるそうです」
「調査対象として非常に珍しいだけです」
バルドが使者へ尋ねる。
「死んだ三人は、どうやって亡くなった」
「全員、眠ったままです」
「外傷なし?」
「はい」
「共通点は」
「三人とも、亡くなる前日に同じことを話していました」
「何と」
使者は封書を持つ手を震わせた。
「自分の記憶が、先に廊下を歩いている、と」
聞き書き帳が一度だけ、小さく震えた。
命令の文字は現れない。
代わりに、レインが自分で新しい頁を開いた。
次回調査地――レムリア領、ヴァイス邸。
現象――死者のいない屋敷を歩く、人間の記憶。
確認事項――
死亡者三名の魂の所在。
自律する記憶残像の発生条件。
「自分の記憶が先に歩く」という証言の意味。
『次も行く?』
ミラが尋ねる。
「お前はどうする」
『行く』
「なぜ」
『幽霊がいないなら、私が役に立つか確かめたい』
「危険かもしれない」
『分かってる』
「それでも?」
『自分で決める』
レインは、その言葉を記録しようとして手を止めた。
『書かないの?』
「本人が覚えていれば、毎回書く必要はない」
『忘れたら?』
「そのときは、俺か誰かが思い出させる」
ミラは少し考え、笑った。
『では、覚えておく』
百年間続いた裁判は終わった。
英雄の功績は消えず、罪も消えなかった。
被害者の怒りも、加害者の恐怖も、間違った記憶も、訂正された証言も、すべて残された。
真実は一つの美しい物語にはならなかった。
だが、死者を食べる影へ渡す声も、もうなかった。
レインたちは新しい依頼書を持ち、古戦場を後にした。
誰も死者の声を聞かない屋敷。
それでも廊下を歩き続ける、持ち主を失った記憶。
次の聞き取り相手は、幽霊ですらないものだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
死者を食べる影は、記憶鐘が一つの物語へまとめられず、捨てた「選ばれなかった記憶」の集合体でした。
レインはミラの過去の名前が記された最後の頁を破り、有罪・無罪の二択ではなく、全員の選択と責任を個別に記録することで百年間の裁判を終わらせます。
エドラム将軍は、国を救った英雄であると同時に、民間人の死を隠した責任を持つ者として記録されました。
次回、第19話「誰も死んでいないのに、怪異が起きる」。
レインたちは、幽霊が一人もいないヴァイス邸で、亡くなった人間の姿を使って歩く「記憶」と出会います。




