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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第五章 死者だけが住む村

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第15話 成仏したくない幽霊たち

白い扉が選んだのは、母親を待ち続ける花冠の少女だった。


本人の意思を聞かず、古くから残る者を順番に送り出そうとする扉。


レインは、死者にも「今は旅立たない」と選ぶ権利があることを証明しようとする。

 五度目の鐘が、鳴り終わろうとしていた。


 ゴォン――。


 長く重い余韻が、死者の市場を震わせる。


 白い扉が少しずつ開き、その隙間から銀色の光が漏れていた。


 市場の中央では、白い花冠をかぶった少女が、小瓶を胸へ抱きしめている。


 瓶の中に残されているのは、夕食を作る音。


 包丁。


 煮える鍋。


 皿を並べる音。


 そして、帰ってくると約束した母親の声。


「もう少しで帰るから、待っていてね」


 少女は、その言葉を何百回もの市場を越えて守り続けてきた。


 白い扉から、感情のない声が響く。


『最古残留者を確認』


『滞留理由――家族への執着』


『旅立ち条件を満たした』


「何をもって、条件を満たしたと判断した」


 レインは少女と扉の間へ立った。


『長期滞留』


『記憶摩耗』


『自己同一性の低下』


『強制送魂を実行する』


「本人へ、旅立ちたいか聞いたのか」


『不要』


「なぜ」


『死者は正しい判断能力を失う』


「誰が決めた」


『記録』


「その記録を作ったのは誰だ」


『管理者』


「管理者は誰だ」


 白い扉は答えなかった。


 銀色の目が細くなり、花冠の少女だけを見つめる。


『前へ』


 少女の身体が、扉へ向かって引かれた。


『嫌!』


 細い足が石畳から離れる。


 花冠から白い花びらが散った。


 レインは腕を伸ばしたが、幽霊の身体には触れられない。


 ミラが少女へ飛びつく。


『離して!』


 二人の半透明の手が重なった。


 ミラは少女の両腕をつかみ、扉へ吸い込まれる力に耐える。


『この子は行きたくないって言ってる!』


『第十三鐘守に決定権はない』


『私が決めるんじゃない!』


 ミラは叫んだ。


『この子が決めるの!』


 白い扉の表面に、黒い文字が浮かぶ。


死者の拒否は、未練による誤判断として処理する。


「拒否したら、すべて未練にされるのか」


 レインは聞き書き帳を開いた。


「それでは、本人に聞く意味が最初からない」


『送魂は救済』


「本人が望まなくても?」


『死者は自らの状態を正しく理解できない』


「それは生者も同じだ」


 レインは筆を握る。


「間違えることがあるからといって、選ぶ権利まで奪っていい理由にはならない」


 帳面の頁に、勝手に文字が現れた。


少女は長く留まりすぎた。

記憶を失う前に送れ。


 レインはその下へ書く。


長く留まったことと、旅立ちを望むことは同じではない。


 帳面が激しく震えた。


待つ理由は未練である。


未練かどうかは、本人へ聞く。


本人は判断できない。


判断できないと判断した根拠を示せ。


 黒い文字が止まった。


 帳面との応酬を見ていた市場の死者たちが、ざわめく。


『また喧嘩している』


『帳面に勝てるのか』


『筆で殴ればいい』


「紙が硬くなるので無理です」


 レインは少女へ向き直った。


「旅立ちたいですか」


『嫌』


 即答だった。


「なぜ」


『母さんを待ってる』


「母親が本当に来るか、分かりません」


『分かってる』


「もう亡くなって、別の場所へ行った可能性もある」


『分かってる』


「あなたのことを忘れているかもしれない」


 少女は唇をかみ、目を伏せた。


『それも、考えた』


「それでも残る?」


『残る』


「いつまで?」


『母さんが来ないって、私が納得するまで』


「誰かに決められるのではなく?」


『自分で決めたい』


 レインは一字ずつ、はっきりと記録した。


白い花冠の少女。


現時点では旅立ちを望まない。


母親を待つ行為が叶わない可能性を理解している。

それでも、他者に終了時期を決められるのではなく、自ら納得した時点で選択したいと証言。


 文字が完成すると、少女の足が石畳へ戻った。


 扉へ吸い込む力が弱まる。


『記録形式が不適切』


 白い扉が告げる。


「どこが」


『正式名称なし』


「名前を口にすれば、白い川に帰路を奪われる」


『名称のない死者は、意思確認の対象外』


「では、この村の規則と扉の規則が矛盾している」


 レインは市場の柱を指した。


 そこには、記憶取引の決まりが刻まれている。


名前を代価にするな。


「この村は、名前を鐘から守るために作られた。ところが扉は、名前がなければ意思を認めないと言う」


『記録には名称が必要』


「名前以外で個人を特定すればいい」


『不可能』


「すでにできています」


 菓子香売りの老人。


 雨売り。


 花冠の少女。


 赤い耳飾りの獣人。


 飛ぶのが苦手な妖精族。


 彼らの本名は書いていない。


 それでも、記録を読めば誰のことか区別できる。


「その者だけが持つ記憶、選んだ呼び名、役割、行動。名前は個人を示す方法の一つにすぎない」


『不完全』


「完全な記録など存在しない」


 エルナがレインの横へ来た。


 透けた腕で古い旅立ち札を持ち上げる。


「この札の裏に文字があります」


「読めるんですか」


「こちら側へ近づいたことで、表から見えなかった文字まで見えます」


「それを喜ぶ状況ではありません」


 セシリアが注意したが、エルナは札から目を離さなかった。


「古代北部語です。かなり初期の形ですが……」


 白い扉から銀色の糸が伸びる。


 エルナの持つ札を奪おうとする。


 バルドが間へ入り、大剣で糸を弾いた。


 金属音が市場へ響く。


「読むなら早くしろ!」


「文字は急いで読めば意味を間違えます!」


「扉が待ってくれると思うか!」


「あと少しです!」


「この一行は長いのか!」


 セシリアが光の障壁を張り、白い糸を押し返す。


「二人とも、口論は後にしてください!」


 エルナは眼鏡を押さえ、札の裏に刻まれた文章を読み上げた。


死者の意思を聞かずして、門を開いてはならない。


聞き書き人の確認なき送魂は、すべて無効とする。


 市場が静まり返った。


「聞き書き人の確認」


 セシリアがレインを見る。


「あなたの役目です」


「正式な職業ではありません」


「まだ言うのですか」


『今は認めたほうが早いよ』


 ミラが少女を支えながら言った。


「帳面を持っていて、死者へ聞き取りを行い、古い聞き書き人の役目まで引き継いでいる」


 エルナが指を折って数える。


「これで自分は記録係にすぎないと言うほうが、事実に反します」


「呼び方を決めるのは、俺です」


「では、自分で選んでください」


 ミラが笑う。


『名前と同じだね』


 レインは一瞬黙った。


 他者から押しつけられた名前ではなく、自分で受け入れる名前。


 役割も同じなのかもしれない。


「……聞き書き人として、確認します」


 その言葉を口にした瞬間、聞き書き帳の表紙に刻まれた模様が淡く光った。


 白い扉が震える。


『十四番目の承認を確認』


「承認していません」


『聞き書き人は、送魂対象を選定せよ』


「選定するために名乗ったのではない」


 レインは聞き書き帳を掲げた。


「本人の意思を確認するためです」


『第五鐘までに一名を選べ』


「誰も旅立ちを望まなければ?」


『最古残留者を送る』


「古い決まりには、本人の意思を聞けと書かれている」


『後期改訂により削除』


「誰が改訂した」


『聖導教会鐘務局』


 セシリアの表情が変わった。


「鐘務局?」


「知っていますか」


「現在の教会組織には存在しません。しかし、禁忌記録の中で一度だけ見たことがあります」


「何をする部署だったんです」


「死者の数を管理し、送魂の優先順位を決める部署です」


「優先順位?」


「戦争や疫病などで死者が増えた際、すべての死者へ個別の弔いを行う余裕がない場合に……」


 セシリアは言葉を止めた。


「まとめて鐘へ送った」


「おそらく」


「そのために本人確認を削除した?」


「効率化という名目だったのでしょう」


 死者一人ひとりへ聞くには時間がかかる。


 名前。


 記憶。


 望み。


 旅立つか、残るか。


 大量の死者を前に、それらを省いた。


 そして、聞き書き人の承認を単なる選定命令へ変えた。


「古い仕組みと、後から書き換えられた命令が重なっている」


 エルナが言う。


「白い扉は、元の規則と鐘務局の改訂規則を同時に実行しようとしています」


「だから矛盾する?」


「はい。本人の意思を確認しろ。一方で、意思を聞かずに古い者から送れ」


 白い扉の銀色の目が、何度も開閉する。


『一名を選定せよ』


『意思を確認せよ』


『拒否は無効』


『本人の同意なき送魂は無効』


 複数の命令が、互いにぶつかっている。


「扉そのものも、何をすべきか決められない」


 レインは市場を見渡した。


「なら、村人全員の意思を確認します」


『第五鐘までに不可能』


「全員の詳しい話は無理です」


 ミラが広場の中央へ進む。


『でも、今どうしたいかだけなら聞ける』


 彼女は両手を上げた。


『みんな、聞いて!』


 第十三鐘守の声が、村全体へ届く。


 家の中。


 市場。


 白い川の岸。


 村の外れ。


 何百人もの死者が、ミラへ顔を向けた。


『今、白い扉へ入りたい人は、灯を上げて!』


 死者たちが持つ青白い灯が揺れる。


 しかし、手を上げる者はいない。


『今は村へ残りたい人!』


 数えきれない灯が、一斉に持ち上げられた。


 市場が昼のように明るくなる。


 レインは頁を開き、目に映る光景を記す。


第五鐘時点。


ルーヴェル村の住人に対し、現在の旅立ち意思を確認。


白い扉への即時移動を希望する者――確認できず。


現時点で村へ残ることを希望する者――市場および周辺区域の大多数。


『人数が不明確』


 白い扉が指摘する。


「正確な人数を数えれば、村人を記録へ縛る可能性がある」


『記録として不完全』


「不完全でも、意思は明確です」


『全員の個別確認が必要』


「ならば時間を与えろ」


『第五鐘まで』


「そちらが勝手に決めた期限です」


『規則』


「矛盾した規則に従う必要はない」


 帳面の黒い文字が浮かぶ。


一人を選べ。

村を守るには犠牲が必要だ。


 レインはその下へ書いた。


犠牲を前提としない方法を調べる。


時間がない。


期限の根拠がない。


鐘が十三度鳴る。


誰が鳴らすのか確認する。


 帳面が閉じようとする。


 レインは手で押さえた。


「まだ話は終わっていない」


     ◇


 市場の奥。


 旅立ち札を置く店から、一人の老人が歩いてきた。


 菓子香売りだった。


 甘すぎるリンゴ菓子の記憶を大切にしていた男。


 彼は棚から、一枚の白い札を取った。


『聞き書き人』


「何です」


『私は、旅立つ』


 市場に驚きの声が広がった。


「今ですか」


『ああ』


「扉に選ばれたから?」


『違う』


 老人は首を横に振る。


『妻の菓子の匂いを、皆が覚えてくれた』


 雨売りが、青い瓶を持ち上げる。


『甘すぎる匂いだ』


 獣人の女性も笑う。


『あの店の前を通ると、いつも腹が減る』


 妖精族の老人が翼を動かした。


『本人は文句ばかり言っておったがな』


『だから、もう私一人が持っていなくても消えない』


 菓子香売りは、自分の露店を見た。


『ここへ残った理由は、妻のことを忘れたくなかったからだ』


「今は?」


『忘れても、誰かが話してくれる』


「それで旅立つ?」


『それだけではない』


 老人は白い扉を見る。


『昨夜から、向こうで菓子の匂いがする』


「妻がいると?」


『分からん』


「鐘が見せている偽物かもしれない」


『それも考えた』


「危険かもしれません」


『分かっている』


「それでも?」


『行く』


 花冠の少女と同じだった。


 危険や不確実さを理解したうえで、自分で選んでいる。


「怖くないんですか」


『怖い』


「では、なぜ」


『怖くなくなるまで待っていたら、永遠に行けん』


 老人は白い札を胸へ当てる。


『成仏したいというより、次が何か見てみたい』


「戻れない可能性があります」


『市場へ来たときも、元の墓へ戻れなかった』


「後悔するかもしれない」


『死んでからも後悔できると、この村で知った』


 老人は笑った。


『なら、向こうでもできるかもしれん』


 レインは聞き書き帳へ記した。


菓子香売り。


白い扉の危険性と、移動後に戻れない可能性を理解。


妻との記憶を市場の住人へ預け、自らの意思で旅立ちを希望。


理由――恐怖が消えたためではなく、恐怖を持ったまま次を確かめたい。


「聞き書き人として、意思を確認しました」


『認めるか』


「認めます」


『送るのか』


「俺が送るのではありません」


 レインは白い扉を見る。


「本人が選んだ道を、妨げないだけです」


 老人は旅立ち札を扉へ向けた。


 白い札に、小さなリンゴの絵が浮かぶ。


 それまで市場を吸い込もうとしていた銀色の光が、柔らかく変わった。


 白い扉が静かに開く。


 鐘は鳴らない。


 黒い糸も伸びない。


 向こう側には、真っ白な光だけがあった。


 そこから、甘い菓子の匂いが漂ってくる。


『本当に甘すぎるな』


 老人は笑った。


 露店に残された瓶を一度だけ振り返る。


『店は好きに使え』


 雨売りが答える。


『菓子の値段を下げておく』


『勝手なことをするな』


『嫌なら戻ってこい』


『戻れたらな』


 老人は白い光の中へ歩いていった。


 一歩。


 二歩。


 身体が光に溶けていく。


 最後まで、誰かに引かれてはいなかった。


 自分の足で進んでいた。


 白い扉が閉じる。


 菓子香売りの姿は消えた。


 成仏したのか。


 妻のもとへ行ったのか。


 別の場所へ運ばれたのか。


 レインには確かめられない。


 だが、記憶鐘へ吸い込まれた死者たちとは明らかに違った。


 本人が選び、個人の姿を保ったまま進んだ。


『送魂一名を確認』


 白い扉が告げる。


「強制送魂ではありません」


『第五鐘条件を達成』


「条件を満たすために選んだのではない」


『結果は同一』


「過程が違う」


『死者一名が門を通過』


「本人の意思が確認された」


 レインは記録を続ける。


「その違いを消すな」


 白い扉の銀色の目が揺れた。


『記録を修正』


 表面に新しい文字が浮かぶ。


第五鐘。

自発的旅立ち、一名。

強制送魂、未実行。


 市場の死者たちが、息をのむように静まった。


 白い扉が、自らの記録を訂正した。


「やはり、ただの怪物ではない」


 エルナがつぶやく。


「規則を実行する記録装置に近い」


「書き換えられた規則も、事実を示せば修正できる?」


 セシリアが尋ねる。


「可能性があります」


 白い扉から、銀色の目が消える。


『第五鐘審査を終了』


『最古残留者の強制送魂を保留』


 花冠の少女を引いていた力が完全に消えた。


 少女はその場へ座り込み、小瓶を抱いた。


 ミラも隣へ座る。


『大丈夫?』


『怖かった』


『私も』


『鐘守り様でも?』


『ミラでいい』


『ミラも怖いの?』


『怖いよ』


 ミラは白い扉を見た。


『でも、怖いからって誰かを代わりに渡すのは嫌』


 少女は小さくうなずいた。


     ◇


 五度目の鐘を越えると、村の灯が戻った。


 石橋の向こうにいた顔なし神官たちは姿を消している。


 エルナの身体も、少しずつ色を取り戻し始めた。


「指先の感覚は?」


 セシリアが尋ねる。


「戻っています」


「声は聞こえますか」


 エルナは近くにいる雨売りを見る。


『聞こえるか、半分死にかけの学者』


「非常に失礼な呼び方をされました」


「まだ聞こえるんですね」


「完全には戻っていないようです」


「今夜は必ず休んでください」


「その前に市場規則の写しを」


「休んでください」


「一頁だけ」


「駄目です」


「半頁」


「交渉しないでください」


 バルドが大剣を鞘へ戻す。


「見えなくなってきた」


『怖くなくなった?』


 ミラが顔を近づける。


 バルドは声のする方向から一歩離れた。


「見えなくなったからこそ怖い」


『正直になった』


「誰にも言うな」


「全員に聞こえています」


 市場の死者たちから笑いが起きた。


 村長は、レインを塔の裏側へ連れていった。


 そこには石造りの小さな墓がある。


 名前は刻まれていない。


 墓石の上には、黒いインクで染まった一本の筆が置かれていた。


「これが、約束を埋めた墓ですか」


『そうだ』


「誰の約束を?」


『黒い帳面を持つ聞き書き人』


「レオ・アスター」


 村長は周囲を確認してから、ゆっくりとうなずいた。


『彼は、この村を作った者の一人だ』


「ミラと一緒に?」


『第十三鐘守が鐘を割った後、逃げ出した死者たちをここへ導いた』


「村の名前をすべて帳面へ記録したのですか」


『最初は、そのつもりだった』


「なぜやめた」


 村長は市場を見る。


『帳面へ記された死者が、帳面の命令に逆らえなくなったからだ』


 聞き書き帳には、記録した存在を固定する力がある。


 それは名前を失った者を守る一方で、記録へ縛る力にもなり得る。


「記録すること自体が、支配になる?」


『書き方による』


「レオは、どうしたんです」


『村人の名を頁から消した』


「だから、この村では名前を口にしない?」


『白い川から守るためでもある。だが、帳面から自由になるためでもあった』


 村長は墓石に手を置く。


『彼が最後に残した約束は、ここへ埋めた』


「読めますか」


『聞き書き人にしか見えない』


 レインが墓石へ触れると、聞き書き帳が勝手に開いた。


 何もなかった頁へ、古い文字が浮かぶ。


死者の名前を集めるな。


死者の選択を集めよ。


名は扉を開く鍵となる。

選択は、その扉を通るか否かを決める。


 これまで帳面に現れていた言葉。


鐘が十三度鳴る前に、死者の名前を集めよ。


 レオが残した約束とは、正反対だった。


「帳面を書き換えた者がいる」


『あるいは、帳面の中に別の記録が混ざった』


「白い帳簿にいる、ミラが捨てた名前?」


『それだけではない』


「何がいるんです」


 村長は答えず、墓の下を指した。


 石の隙間から、小さな黒い紙片が見える。


 レインが引き抜くと、聞き書き帳と同じ紙質だった。


 そこには一行だけ記されている。


第十四の聞き書き人へ。

帳面が命令を始めたなら、最後の頁を破れ。


「最後の頁」


 聞き書き帳の最後には、鐘に関する警告や命令が現れ続けている。


「破れば、どうなる」


『レオは、それを実行できなかった』


「なぜ」


『最後の頁には、第十三鐘守の捨てた名前が記されている』


 ミラの過去へつながる名前。


 頁を破れば、二度と取り戻せなくなる可能性がある。


 だが残せば、帳面の中の何者かがレインを誘導し続ける。


「すぐには決められません」


『それでよい』


「決断を急がせないんですね」


『死者の村の長だからな』


 老人は静かに笑った。


『急いで旅立たせた結果が、鐘だ』


     ◇


 市場が終わる前、レインは花冠の少女の話を改めて聞いた。


 名前は尋ねない。


 母親の名前も聞かない。


「母親について、ほかに覚えていることは?」


『白い花が好きだった』


「花冠を作ってくれた」


『うん』


「どこで暮らしていた?」


『川の近く』


「どんな川?」


『春になると、銀色の魚が上ってきた』


 エルナが現在の地理記録を思い出す。


「北部で春に銀鱗魚が遡上する川は、三本あります」


「調べられますか」


「村へ戻れば、集落記録と死亡台帳を照合できます」


 少女が期待に満ちた目を向ける。


『母さんを探してくれるの?』


「見つかるとは約束できません」


『うん』


「生きていない可能性もあります」


『うん』


「別の扉へ入った可能性も」


『分かってる』


「それでも調べます」


 少女は小瓶をレインへ差し出した。


『これを持っていって』


「母親の声を?」


『目印になるかもしれない』


 レインが触れようとすると、指先が瓶をすり抜ける。


 死者の市場の商品は、生者のままでは持てない。


 エルナが手を伸ばした。


 まだ半分死者側へ近い彼女の指は、小瓶へ触れることができた。


「私が預かります」


「危険では?」


「村を出るまでです。音と声の特徴を記録します」


『落とさないでね』


「記録院の文献を扱うのと同じ注意を払います」


『それなら安心』


 少女は市場で使う呼び名を自分で選んだ。


『これから、花冠って呼んで』


「本名ではない?」


『市場の名前』


「なぜ、その名前を」


『母さんが見つけやすいから』


 レインは記録する。


白い花冠の少女は、市場での呼称として《花冠》を自ら選択。


本名ではない。

他者から与えられた管理番号でもない。

母親が自分を見つけるための目印として選んだ呼び名。


 花冠の少女の輪郭が明るくなる。


 本当の名前ではなくても、自分で選んだ呼び名は彼女を守る。


 ミラと同じだった。


『また来る?』


 花冠が尋ねる。


「母親の手がかりを持って戻ります」


『その前に、扉がまた来たら?』


 ミラが少女の隣へ並ぶ。


『自分で決めた名前を言って』


『花冠』


『もう一回』


『私は花冠』


『誰が決めた?』


『私』


 ミラは満足そうにうなずいた。


『それなら、少し強くなれる』


 レインは二人の会話も書き留めた。


     ◇


 村を出る時間になると、石橋の向こうに三度の霧が現れた。


 帰り道では、本名を呼ばれても答えてはならない。


 行きと同じ規則だ。


 村長から渡された小さな灯を先頭に、四人とミラは霧の中へ入った。


「記録係」


「います」


「神官」


「ここです」


「護衛」


「いる」


「学者」


「小瓶を記録中です」


「歩きながら書かないでください」


『銀髪』


「名前より長い」


『私もいる』


 霧の奥から、さまざまな声が呼びかける。


「レイン」


「セシリア」


「バルド」


「エルナ」


「ミレイア」


 誰も答えない。


 最後に、少年の声がした。


『レイン・アスター』


 壁画で見たレオと同じ声。


『最後の頁を破るな』


 レインは振り返らなかった。


『そこに、彼女の名前がある』


 声は続く。


『頁を破れば、ミレイアは永遠に戻らない』


 次に、別の声が重なる。


 聞き書き帳から聞こえる黒い声。


『頁を残せ』


『十三の名を集めよ』


『鐘を完成させよ』


 レインは鞄の上から帳面を押さえた。


「今は決めない」


『何か言った?』


 目の前を進むミラが尋ねる。


「独り言だ」


『最近、独り言で大事なことを決めてない?』


「決めていない。保留しただけだ」


『保留も選択?』


「ああ」


 今すぐ進まない。


 今すぐ捨てない。


 それもまた、一つの選択だった。


 三度目の霧を抜けると、足元は森の土へ戻っていた。


 白い川は消え、地図に記された一本のレム川だけが流れている。


 エルナの身体も完全に色を取り戻した。


 手にしていた小瓶は消えている。


 だが紙には、母親の声の高さ、話し方、背景音、包丁の間隔まで細かく記録されていた。


「記憶は持ち出せなくても、記録は持ち出せました」


「十分です」


 セシリアが銀杖で全員の状態を確認する。


「死霊反応は残っていません」


「私は?」


 バルドが尋ねる。


「強い恐怖反応があります」


「魔術で分かるのか」


「顔を見れば分かります」


『やっぱり怖かったんだ』


「怖くない」


「村を出てから否定しても遅いです」


 バルドは不満そうに大剣を背負い直した。


     ◇


 巨人岩を離れようとしたとき、森の奥から鎧の音が聞こえた。


 がしゃり。


 がしゃり。


 重い足取り。


 霧の中から、一人の騎士の幽霊が現れる。


 古びた甲冑。


 胸には、二つに割れた王冠の紋章。


 左腕には鎖。


 右手には、木製の裁判槌を持っている。


 騎士はレインの前で片膝をついた。


『聞き書き人を、お迎えに参りました』


「どこから」


『ヴァルグ古戦場』


 エルナが反応する。


「百年前、アルヴェイン王国と北方諸侯連合が戦った場所です」


「何が起きている」


 騎士の幽霊は裁判槌を地面へ置いた。


『裁判が終わりません』


「誰の裁判です」


『英雄エドラム将軍』


「何の罪で?」


『裏切りです』


 騎士は顔を上げた。


 兜の中には、片方の目しか残っていない。


『生者の記録では、将軍は国を救った英雄』


『死者の証言では、味方を殺した裏切り者』


「判決が出ない理由は」


『証言者が、全員違う真実を話すからです』


 レインは聞き書き帳を開いた。


 新しい頁へ、すでに文字が浮かんでいる。


ヴァルグ古戦場。


百年間続く死者の裁判。


第六鐘が鳴る前に、英雄を有罪とせよ。


「また、結論を先に決めている」


 レインはその下へ書き加えた。


有罪か無罪かは、証言と記録を確認してから判断する。


 帳面が不満そうに震えた。


 騎士の幽霊が、わずかに笑う。


『昔の聞き書き人も、同じことを書きました』


「レオ・アスターですか」


 騎士は答えなかった。


 代わりに立ち上がり、古戦場の方角を指す。


『急いでください』


「第六鐘が鳴るから?」


『それだけではありません』


「何がある」


 騎士の鎧の隙間から、黒い煙が漏れた。


 煙の中に、口だけの影がいくつも浮かぶ。


『裁判の外で、死者を食べるものが目覚めました』


 ミラが身を固くする。


『黒い影?』


『はい』


「鐘と関係している?」


『影は、判決を待てなくなった死者から生まれます』


 百年間。


 真実が定まらず、裁かれも許されもせず、同じ証言を繰り返してきた死者たち。


 その感情を食べ、何かが成長している。


『次の満月までに判決が出なければ、古戦場の死者はすべて影に食われます』


「満月はいつです」


 セシリアが空を見上げる。


「三日後です」


 レインはルーヴェル村へ続く森を一度振り返った。


 成仏を望まない死者たち。


 自ら旅立った菓子香売り。


 母を待つ花冠。


 彼らの選択は、一つではなかった。


 次に会う死者たちも、同じだろう。


 英雄を信じる者。


 裏切り者と憎む者。


 命令に従った者。


 見捨てられた者。


 誰か一人の証言だけでは、百年の裁判は終わらない。


「ヴァルグ古戦場へ向かいます」


「先にリベルタへ戻り、準備を整えます」


 セシリアが即座に付け加える。


「今から直行するとは言っていません」


「あなたの場合、先に確認しておく必要があります」


『一日休む?』


「二日です」


「三日後が満月です」


「では、一日」


「半日で」


「交渉しないでください」


 バルドが笑い、エルナは古戦場に関する文献を書き出し始めた。


 ミラはレインの隣で、聞き書き帳をのぞき込む。


『聞き書き人って、書いたね』


「一度だけだ」


『自分で選んだ?』


「今のところは」


『では、今は本当の名前だね』


「職名だ」


『似たようなもの』


 レインは否定しなかった。


 名前も。


 役割も。


 旅立つ時期も。


 誰かに与えられたものを、そのまま受け入れる必要はない。


 自分で選び直すことができる。


 聞き書き帳の新しい頁へ、次の調査項目を記した。


調査地――ヴァルグ古戦場。


対象――百年間、判決を待つ死者たち。


確認事項――

英雄エドラム将軍の罪状。

生者の戦史と死者の証言の食い違い。

裁判を続ける者の目的。

死者を食べる黒い影の正体。


 森の向こうから、裁判槌を打つ音が響いた。


 こん。


 一度。


 少し間を置いて、もう一度。


 こん。


 百年間出なかった判決を求める音だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


ルーヴェル村の死者たちは、成仏できないのではなく、それぞれの理由で「今は旅立たない」と選んでいました。


一方で、菓子香売りは自らの意思で白い扉を通り、死者の選択が一つではないことを示しました。


レインは正式に《聞き書き人》を名乗り、名前ではなく死者の選択を記録するというレオ・アスターの約束を知ります。


次回、第16話「百年間、判決が出ない」。


レインたちはヴァルグ古戦場へ向かい、英雄を裁く死者たちの法廷へ足を踏み入れます。

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