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異世界幽霊聞き書き帳――死者の声が聞こえる俺は、成仏できない亡霊たちを取材する  作者: たむ
第六章 古戦場で続く裁判

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16/21

第16話 百年間、判決が出ない

生者の歴史では、国を救った英雄。


死者の証言では、味方を見捨てた裏切り者。


ヴァルグ古戦場では、エドラム将軍を裁く法廷が百年間続いていた。

 ヴァルグ古戦場には、墓がなかった。


 正確には、墓として建てられたものが残っていなかった。


 街道から外れた荒野には、折れた槍、錆びた盾、崩れた石塁が地面から突き出している。


 風が吹くたび、乾いた草の間で金属同士が触れ合った。


 かん。


 かん。


 誰も持っていない武器が、百年前の戦いを思い出すように鳴る。


「戦死者は、およそ八千人」


 エルナが王立記録院から借りた戦史を開いた。


「王国軍三千二百。北方諸侯連合四千六百。民間人の被害は記録なし」


「記録なし、ということは、死者なしとは限りません」


 レインが答える。


「そのとおりです」


 エルナは別の紙を示した。


「戦場周辺には三つの集落がありました。しかし戦後の地図では、すべて無人地として扱われています」


「住人は避難したのか」


 バルドが尋ねる。


「王国の公式戦史では、開戦前に避難完了」


「ほかの記録では?」


「北方側の兵士の日誌に、集落で炊事の煙を見たという記述があります」


「戦争が始まった後も人が残っていた」


「可能性があります」


 セシリアは丘の上に建つ巨大な慰霊塔を見上げた。


「教会記録には、戦死者七千八百四十二名へ集団葬送を行ったとあります」


「八千人ではない?」


「公式の戦死者数と二百人近く違います」


「また、名簿から消された者がいるのかもしれない」


 レインが聞き書き帳を開く。


 新しい頁には、前夜から同じ文字が残っていた。


第六鐘が鳴る前に、英雄を有罪とせよ。


 レインはその下に書き加えている。


判決は証言と記録の確認後に行う。


 帳面は、その返答が気に入らないらしい。


 頁を開くたび、紙が小刻みに震えた。


『怒ってるね』


 ミラが帳面をのぞき込む。


「急いで有罪にしたい理由があるんだろう」


『英雄が本当に悪い人だから?』


「その可能性もある」


『帳面が悪いものを止めたい可能性は?』


「ある」


『では、信じる?』


「信じない」


『どうして?』


「正しいことを言う相手でも、確認は必要だ」


 ミラは少し考え、うなずいた。


『正しい人も間違えるから?』


「正しいと思っている者ほど、間違いを認めないこともある」


「聞こえていますよ」


 セシリアが前を歩きながら言った。


「あなたに言ったわけではありません」


「誰に言ったかは聞いていません」


 バルドが笑う。


「思い当たることがあるらしい」


「あなたも黙ってください」


     ◇


 古戦場の中央には、円形の石壁があった。


 戦時中の防御陣地に見える。


 しかし内部へ入ると、石壁の配置が法廷のように整っていた。


 正面に高い裁判席。


 左右に告発側と弁護側の席。


 中央には、鎖で囲われた被告人席。


 その周囲を、数千人の幽霊が取り囲んでいる。


 兵士。


 騎士。


 農民。


 治療師。


 荷運び人。


 敵味方の区別なく、死者たちが石段へ並んでいた。


 レインは一歩入っただけで、膝が震えるのを感じた。


 声が多い。


 礼拝堂の地下に集まった幽霊より、さらに多い。


『裏切り者だ』


『英雄を侮辱するな』


『将軍がいなければ国は滅びていた』


『あいつの命令で息子が死んだ』


『命令に従っただけだ』


『村を焼いた』


『村を救った』


『橋を落とした』


『橋を落とさなければ敵が来た』


 同じ出来事について、正反対の声が飛び交う。


 レインの耳ではなく、頭の内側へ直接流れ込んでくる。


「レイン」


 セシリアが腕をつかんだ。


「自分の名前を」


「まだ大丈夫です」


「声が震えています」


『レイン、私を見て』


 ミラが正面へ立つ。


 レインは銀色の瞳へ意識を集中した。


「レイン・アスター」


『もう一回』


「レイン・アスター。二十二歳。リベルタ生まれ」


「現在地は?」


 今度はセシリア。


「ヴァルグ古戦場。百年前の戦争を調査中」


「目的は?」


「死者の裁判が終わらない理由を確認する」


 生者側の風音が戻る。


 レインは深く息を吸った。


「入る前からこれでは、法廷の中で耐えられません」


 エルナが心配そうに言う。


「全員の声を同時に聞かなければ大丈夫です」


『私が順番を決める』


 ミラが石壁の上へ浮かび上がった。


『静かにして!』


 小さな少女の声が、数千人の幽霊を押さえ込んだ。


 ざわめきが一斉に止まる。


 戦場の死者たちは驚き、次にミラの姿を見て膝をつき始めた。


『第十三鐘守』


『鐘を割った方』


『死者の選択を守る者』


 ミラは困ったようにレインを見る。


『毎回こうなるの?』


「おそらく、鐘に関わった古い死者の前では」


『偉そうにしたほうがいい?』


「普段どおりでいい」


『普段の私は偉くない?』


「そこを今、話す必要があるか」


 裁判席で木槌が打ち鳴らされた。


 こん。


『静粛に』


 裁判官席に座るのは、黒い法衣をまとった老女の幽霊だった。


 顔の左半分が焼け、右手には木製の槌を持っている。


 胸元には王国の古い司法紋章。


 彼女の左右には、十二人の陪審員が並ぶ。


 全員、身体のどこかを戦傷で失っていた。


『百年目、第八千七百六十五回公判を開始する』


「一日に何回開いているんだ」


 バルドがつぶやく。


「百年で割ると、一年に八十七回前後ですね」


 エルナが即座に計算する。


「今は必要ない」


「回数の規則性は重要です」


「後にしてください」


 裁判官がレインたちを見る。


『生者四名、死者一名の入廷を確認』


 エルナが小声で尋ねる。


「私は、もう生者として数えられていますか」


「今は身体が透けていません」


 セシリアが確認する。


「安心しました」


「少し残念そうですね」


「そのようなことはありません」


『死者側の記録者は、前へ』


 裁判官がレインを指した。


「俺ですか」


『帳面を持つ者は、証言台へ』


 レインが中央へ進む。


 ミラも隣を漂う。


 バルドは周囲の死者を警戒し、セシリアは銀杖を持ったままレインの後方へ立った。


 エルナはすでに記録を始めている。


『名を』


 裁判官が言った。


「ここでは、本名を言っても問題ありませんか」


『法廷で名を隠す者の証言は認めない』


 ルーヴェル村とは逆の規則だった。


「レイン・アスター。リベルタの墓守ダリオ・アスターの息子。死者の証言を記録する聞き書き人です」


 名乗った瞬間、被告人席の鎖が震えた。


 中には一人の男が座っている。


 五十代ほど。


 灰色の軍装。


 左肩から腰まで大きな裂傷。


 短く整えた白髪。


 胸には、王国最高位の軍功章がつけられていた。


 英雄エドラム・ヴァレイン将軍。


 生者の町なら、名を知らない者はいない。


 北方諸侯連合の侵攻をヴァルグで食い止め、王都を救った英雄。


 死後は国葬を受け、王都中央広場に銅像まで建てられている。


 だが本人の幽霊は、百年間、鎖につながれた被告人として座っていた。


『アスター』


 エドラムがレインを見た。


『レオの子孫か』


「レオ・アスターを知っているんですか」


『この裁判の最初の記録者だ』


「百年前、ここに来た?」


『来た』


「何を記録した」


『私を無罪にする証言を』


 告発側の席から怒声が上がる。


『嘘だ!』


 赤い軍服を着た若い将校の幽霊が立ち上がった。


 右胸に矢が刺さったままになっている。


『レオ・アスターは、将軍の罪を記録した!』


『違う』


 弁護側の席にいた修道士の幽霊が反論する。


『聞き書き人は、エドラム将軍が国を救ったと認めた』


「証言が食い違っています」


 レインが言う。


『だから判決が出ない』


 裁判官は木槌を一度打った。


『今回も、最初から始める』


「八千回以上、同じ証言を聞いているんですか」


『同じではない』


「証言が変わる?」


『鐘が鳴るたび、誰かの記憶が増え、誰かの記憶が減る』


 裁判官は法廷を見渡した。


『昨日まで英雄を信じていた者が、次の公判では裏切り者と叫ぶ』


「なぜ」


『分からない』


「黒い影が記憶を食べている?」


 裁判官の焼けた顔がわずかに動いた。


『法廷の外で起きていることは、審理対象ではない』


「そのせいで証言が変わっているなら、関係があります」


『判決が先だ』


「黒い影を調べるのが先です」


『判決が出なければ、影は止まらない』


 話が循環している。


 裁判を終えるには、安定した証言が必要。


 しかし判決が出ないため黒い影が成長し、証言者の記憶を食べる。


 その結果、さらに証言が変わる。


「これまで、何を罪として審理してきたんです」


 レインが尋ねる。


 告発側の若い将校が巻物を広げた。


『被告エドラム・ヴァレインの罪状は、三つ』


 一つ目。


『敵軍を誘い込むため、味方の第三軍団を囮にし、退却命令を出さなかった罪』


 二つ目。


『戦場南部の橋を破壊し、避難中の民間人を敵地へ取り残した罪』


 三つ目。


『北方諸侯側と密約を結び、戦後の領地分割を約束していた反逆罪』


 生者の公式戦史には、どれも記されていない。


 戦史では、第三軍団は勇敢な防衛戦の末に全滅。


 南橋は敵軍が破壊。


 北方との密約は存在しない。


「エドラム将軍。罪状を認めますか」


 男は鎖の上へ両手を置いた。


『第三軍団を囮にしたことは認める』


 法廷がざわめく。


『だが退却命令は出した』


「届かなかった?」


『伝令を送った』


「伝令の名前は」


『カイン・レスター』


 告発側の若い将校が胸の矢を指した。


『私だ』


「あなたが伝令?」


『命令は受けていない』


『渡した』


『受けていない!』


 最初の対立。


「将軍は渡したと証言し、カインは受けていないと証言している」


 レインは両者を見た。


「命令書は?」


『書面で渡した』


「現物は」


『ない』


「カイン。将軍から何を渡されました」


『何も』


「将軍の天幕へ行きましたか」


『行った』


「誰かほかにいた?」


『副官がいた』


「名前は?」


『リュド・カルバン』


 法廷の死者たちが周囲を見る。


 だが、その名に反応する者はいない。


「副官本人は?」


 裁判官が答えた。


『この法廷にはいない』


「成仏した?」


『分からない』


「戦死記録は」


 エルナが王国戦史を調べる。


「エドラム将軍の副官は、リュド・カルバン。戦闘二日目に行方不明。その後、戦死認定されています」


「遺体は?」


「未回収」


「重要な証言者がいない」


 レインは帳面へ記録した。


第一罪状。


エドラム将軍は第三軍団への退却命令書を伝令カインへ渡したと証言。

カインは受領を否定。

その場にいた副官リュド・カルバンは法廷に不在。

命令書の現物なし。


 書き終えた瞬間、カインの胸へ刺さっていた矢がわずかに動いた。


『それは違う』


「何が」


『私は、何かを持っていた』


 カインが胸を押さえる。


『天幕を出たとき、右手に筒があった』


「命令書?」


『分からない』


「先ほどは何も受け取っていないと」


『そう覚えていた』


「今は違う記憶が戻った?」


『帳面に書かれたら、手の重さを思い出した』


 聞き書き帳の記録が、失われた記憶を固定した。


 しかし、それが本物の記憶だとは限らない。


 書かれた内容へ影響され、偽の記憶が形になった可能性もある。


「筒の中身を見ましたか」


『見ていない』


「誰かへ渡した?」


『覚えていない』


「死亡した場所は」


『第三軍団へ向かう森』


「矢は前から?」


 カインは胸へ刺さった矢を見る。


『そうだ』


 バルドが近づき、矢の角度を調べた。


「正面からではない」


『何?』


「矢尻は右胸から入り、左背中へ抜ける角度だ。身体をひねっていたか、横から射られた」


「敵の待ち伏せ?」


「あり得る」


 エルナが戦場図を広げる。


「将軍天幕から第三軍団へ向かう場合、森の東側を通ります。敵軍は西に展開していた」


「敵から射られたなら、矢は左側から来る可能性が高い」


「この矢は右から」


 バルドが答える。


「王国軍側から射られた可能性がある?」


 法廷が騒然となる。


『味方に殺された?』


『誰が』


『将軍が口封じした!』


『違う!』


 裁判官が何度も木槌を打つ。


『静粛に!』


 レインは矢を観察した。


 矢羽根に、薄い青色が残っている。


「王国軍の矢ですか」


 バルドが首を振る。


「王国軍は赤。北方側は黒だ」


「青は?」


 エルナが別の記録を開く。


「ヴァルグ周辺の民兵が使っていた色です」


「民間人?」


「村の自衛団です」


 公式戦史では、住民は全員避難したことになっている。


 だが民兵が戦場に残っていたなら、記録と矛盾する。


「カインを射たのは、村人だった可能性があります」


 カインの顔が歪む。


『森で、誰かに止められた』


「誰に」


『女だ』


「兵士?」


『違う。汚れた服。子どもを抱いていた』


「何を言われた」


『橋を壊さないで、と』


 第二罪状につながった。


「あなたは何と答えた」


『知らないと言った』


「その後」


『女の後ろに男たちがいた』


「民兵?」


『弓を持っていた』


 カインが胸の矢へ触れる。


『俺は命令筒を持っていた』


 今度は、はっきりと断言した。


『だが、橋を壊す命令だと思われた』


「実際の中身は?」


『知らない』


「誰かに奪われた?」


『撃たれた後、倒れた。筒を持っていかれた』


 第一罪状と第二罪状は、別の事件ではない可能性が出てきた。


 第三軍団への退却命令が、南橋破壊の命令と誤解され、村人に奪われた。


 その結果、命令が届かず第三軍団は全滅した。


 だが、これだけでは将軍が無罪とは言えない。


 村人がなぜ橋の破壊を恐れていたのか。


 実際に誰が橋を落としたのか。


 将軍は橋の破壊を命じたのか。


 まだ確認する必要がある。


「南橋の破壊について聞きます」


 レインが言った。


 告発側から、年老いた農民の幽霊が進み出た。


 服の半分が濡れ、足に水草が絡みついている。


『橋を落としたのは将軍だ』


「見たんですか」


『命令書を見た』


「誰が持っていた」


『王国軍の兵士』


「カイン?」


 老人はカインを見る。


『違う』


「名前は?」


『覚えていない』


「外見は」


『顔を布で隠していた』


「軍装は?」


『王国軍』


「本当に?」


『赤い外套だった』


「外套だけなら、敵でも着られます」


『王国兵だった!』


「なぜ断言できる」


『将軍の印章を持っていた』


 エドラムが立ち上がる。


 鎖が音を立てた。


『私の印章は、副官に預けていた』


「リュド・カルバンに?」


『ああ』


 再び不在の副官が関係する。


「橋を落とした命令書に、将軍の印章が使われた可能性があります」


 エルナが記録を確認する。


「公式には、橋の破壊は敵軍の工作とされています。ですが、戦後の補修記録には《王国式火薬痕》とあります」


「王国側が壊した証拠?」


「少なくとも、王国軍が使う火薬と同系統です」


 セシリアが問いかける。


「橋の向こうに、民間人はどれくらいいたのですか」


 農民の幽霊が答える。


『三つの村。千人近く』


「公式戦史では避難済みです」


『嘘だ!』


 死者たちから怒号が上がる。


『避難命令は来なかった!』


『橋が落ちた!』


『敵兵が来た!』


『川へ飛び込んだ!』


 法廷の後方から、濡れた幽霊たちが何百人も立ち上がる。


 兵士ではない。


 老人。


 女性。


 子ども。


 公式の戦死者数に含まれていない民間人だった。


 エルナの筆が止まる。


「民間人被害なしという記録は、明確に誤りです」


「人数を数えられますか」


「今、目に見える範囲だけで二百人以上」


『もっといる』


 ミラが法廷の外を見る。


『川の中に、たくさん』


 生者の歴史から消された死者。


 名前だけではない。


 存在そのものが戦争記録から省かれている。


「橋を落とした理由を、将軍は知っていますか」


 レインが問う。


 エドラムは長い沈黙の後、答えた。


『敵軍の進路を断つため、破壊案は検討した』


 法廷がざわめく。


『しかし却下した。民間人の避難が完了していなかったからだ』


「避難未完了を知っていた?」


『偵察報告で知った』


「公式戦史では避難済みです」


『戦後、書き換えられた』


「誰が」


『王国軍参謀本部』


「なぜ」


『民間人を見捨てた事実を隠すためだ』


「あなたは見捨てていないと?」


『橋の破壊を命じていない』


「では、誰が」


『副官だ』


 法廷が再び騒然となる。


「リュド・カルバン?」


『あいつは、敵軍の突破を防ぐためなら村を犠牲にすべきだと主張した』


「命令を拒否したあなたに逆らった?」


『可能性はある』


「証拠は?」


『ない』


「副官に罪を押しつけている可能性は?」


『否定できない』


 エドラムの回答に、レインは少し驚いた。


「自分の証言が疑われることを認めるんですね」


『私は百年、同じ質問を受けてきた』


 将軍は鎖を見下ろす。


『最初は、自分が正しいと叫び続けた。だが証言を繰り返すうち、自分の記憶も確かではないと分かった』


「どの部分が」


『橋を壊すなと命じた記憶が、本当に私のものか分からない』


「どういうことです」


『夢の中で何度も、私自身が破壊命令書へ印章を押す場面を見る』


 ミラが眉を寄せる。


『黒い影に見せられてる?』


「可能性があります」


 エドラムは続けた。


『目覚めれば、私は命じていないと思う。だが次の公判では、命じた記憶が鮮明になる』


「証言が変わるのは、あなただけではない?」


『全員だ』


 裁判官が木槌を握ったまま、静かにうなずく。


『この法廷にいる者は、少しずつ異なる過去を見る』


「黒い影が記憶を食べ、別の記憶を入れている?」


『分からない』


「なぜ今まで影を調べなかった」


『法廷を出れば、裁判が中断する』


「中断すると何が起きる」


 裁判官の焼けた顔に恐怖が浮かんだ。


『被告の鎖が外れる』


「エドラム将軍が逃げる?」


『違う』


 裁判官は被告人席の下を指した。


『鎖がつないでいるのは、将軍ではない』


 石床に刻まれた鎖は、エドラムの手足から地面へ伸びている。


 その先。


 床の下。


 巨大な黒い影が動いていた。


 人の形ではない。


 口。


 無数の口だけが重なり、法廷の下で死者たちの声を食べている。


『裁判を続ける限り、影は法廷の下へ縛られる』


「判決が出れば?」


『有罪なら、影は将軍を食べて消える』


「無罪なら?」


『告発した死者全員を食べる』


 法廷が静まり返る。


 レインは裁判官を見た。


「そんな仕組みだから、判決を出せない?」


『どちらを選んでも、死者が失われる』


「では、裁判の目的は真実を決めることではない」


『最初は違った』


「誰が、この仕組みに変えた」


 裁判官は答えようとした。


 その瞬間、喉元に黒い歯形が浮かび上がる。


『言えない』


「鐘が関係している?」


『言えない』


「レオ・アスター?」


 老女の顔が激しく歪んだ。


『彼は、止めようとした』


「何を」


『判決を』


「なぜ」


『どちらも偽りだったから』


 床下の影が激しく蠢いた。


 無数の口が開く。


『黙れ』


 法廷全体が揺れた。


 陪審員の一人が胸を押さえる。


 身体から小さな光が抜け、床下へ吸い込まれた。


『私の……娘は』


 陪審員の顔から表情が消える。


『娘の名前が、分からない』


「影が記憶を食べた!」


 セシリアが銀杖を床へ突き立てる。


「月光封鎖!」


 白い光が石床へ広がり、黒い口の一部を塞ぐ。


 影は光を嫌うように奥へ引いた。


 だが完全には消えない。


『第六鐘まで、残り一日』


 床下から声が響く。


『判決を出せ』


「誰の声だ」


『有罪を選べ』


 聞き書き帳が勝手に開く。


 同じ言葉が黒い文字で浮かんでいる。


エドラム・ヴァレインを有罪とせよ。


将軍一人を食わせれば、ほかの死者は残る。


「帳面と影が、同じ結論を求めている」


 ミラが青ざめる。


『帳面の中にも、影がいるの?』


「可能性がある」


 レインは文字の下へ書いた。


犠牲を前提とする判決を拒否する。


 帳面が激しく震える。


影を止めるには判決が必要。


判決以外の方法を調査する。


時間がない。


だから、今から調べる。


 レインは頁を閉じた。


「裁判を一時中断してください」


 裁判官が木槌を強く握る。


『中断すれば鎖が弱まる』


「今のまま続けても、証言を食べられるだけです」


『影が外へ出る』


「完全には中断しない」


 レインは被告人席へ近づいた。


「公判を続けながら、法廷外の調査を行います」


『誰が』


「俺たちが」


「また勝手に決めましたね」


 セシリアが言う。


「反対ですか」


「いいえ。ですが役割分担が必要です」


 エルナが戦場図を開く。


「調査対象は三か所です。カインが射られた森。南橋跡。副官リュドの行方が途切れた場所」


 バルドが大剣を肩へ担ぐ。


「さらに、影の本体が動いている場所も探す」


『私も行く』


 ミラが言う。


「法廷の死者を静められる者が必要です」


「ミラには、ここへ残ってもらう?」


『嫌』


「危険です」


『レインのほうが危険』


「否定できませんね」


 セシリアがため息をつく。


 裁判官はしばらく考え、木槌を一度打った。


『審理を継続する』


 次に二度。


『聞き書き人と同行者による現場検証を許可する』


 三度目。


『ただし、日没までに戻れ』


「理由は」


『夜になると、戦場が百年前へ戻る』


「鉱山と同じ時間の反復?」


『違う』


 裁判官は法廷の外に広がる荒野を見る。


『昼間は死者が過去を語る』


『夜は、過去が死者を演じる』


 エルナが筆を止めた。


「記憶が幽霊の姿を使う?」


『誰が本人で、誰が偽りの記憶か、見分けられなくなる』


 ミラが法廷の外を見た。


 荒野の端に、黒い人影が立っている。


 顔はない。


 代わりに、縦に裂けた口だけがあった。


 一つ。


 二つ。


 数十。


 死者を食べる影が、法廷を取り囲み始めている。


『急いで』


 ミラがつぶやく。


『もう、夜を待ってない』


 石床の下で、巨大な口が笑った。


『証言を増やせ』


『矛盾を増やせ』


『誰も真実を選べなくなるまで』


 レインは聞き書き帳の新しい頁を開く。


ヴァルグ古戦場・現場検証。


第一地点――伝令カイン死亡地。

第二地点――南橋跡。

第三地点――副官リュド失踪地点。


目的――

証言が変化する前の物的痕跡を確認する。

黒い影が記憶を書き換える方法を特定する。

有罪・無罪の二択以外に、裁判を終える方法を探す。


 書き終えたとき、被告人席のエドラムがレインを呼んだ。


『聞き書き人』


「何です」


『私が本当に命令したと分かったなら、有罪と記録してくれ』


「事実なら」


『だが、私一人の罪にするな』


「どういう意味です」


 エドラムは法廷に並ぶ兵士、神官、貴族、農民の死者を見渡した。


『この戦争は、一人の英雄だけで起こせるものではない』


 その言葉を聞いた告発側も、弁護側も黙った。


『私を英雄にした者も』


『裏切り者にした者も』


『自分たちの選択を、私一人の名前へ押しつけた』


 レインはその証言を書き留めた。


 個人の罪。


 命令した者の責任。


 従った者の選択。


 記録を書き換えた者。


 戦争を必要とした者。


 誰か一人を有罪にすれば、残りの者が無罪になるわけではない。


 百年間判決が出なかった理由は、証言が違うからだけではなかった。


 裁判そのものが、すべての責任を一人へ押し込むために作られている。


 レインたちは法廷を出た。


 荒野の先には、カインが倒れた森が黒く見えている。


 その手前で、顔のない影たちが列を作っていた。


 影の一体が、誰かの声で呼びかける。


「レイン」


 父ダリオの声。


「もう調べなくていい」


 別の影が、ミラの声を使う。


「将軍を有罪にすれば、みんな助かるよ」


 さらに別の影。


 セシリアの声。


「一人を犠牲にするのが合理的です」


 本物の三人は、レインのすぐそばにいる。


「声を信用しないでください」


 セシリアが銀杖を構える。


「姿もです」


 エルナが付け加える。


「夜になる前から、過去の偽物が現れ始めています」


 バルドが大剣を抜く。


「今度の相手は斬れるのか」


 黒い影が一斉に口を開いた。


『試してみろ』


 荒野を覆うほどの笑い声が響く。


 百年間続いた裁判は、真実を求めていたのではない。


 死者たちが互いを疑い、怒り、同じ証言を繰り返すほど、影は記憶を食べて成長していた。


 判決を急げば、一人が食われる。


 判決を延ばせば、全員が少しずつ食われる。


 どちらを選んでも、影だけが満たされる。


「最初に決めます」


 レインは三人とミラへ言った。


「将軍を有罪にするか無罪にするかは、まだ考えない」


「何を優先します?」


 エルナが尋ねる。


「裁判が、なぜ二つの結論しか許さないのかを調べます」


『どちらも選ばない?』


 ミラが聞く。


「選ばないのではない」


 レインは森へ続く道を見た。


「正しい問いに変える」


 黒い影たちは笑い続けている。


 だが、そのうち一体だけが笑うのをやめた。


 レインの言葉を恐れたように。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


百年間続く裁判では、第三軍団への退却命令、南橋の破壊、北方との密約という三つの罪が審理されていました。


しかし、裁判の判決は真実を示すものではなく、有罪なら将軍、無罪なら告発者たちを黒い影へ差し出す仕組みでした。


次回、第17話「英雄の記録と、死者の証言」。


レインたちは伝令カインの死亡地と南橋跡を調べ、生者が残した英雄の戦史と、消された民間人の証言を照合します。

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