第9話 青い組紐と濁った水脈
十月二十七日の朝、川門詰所の掲示板に貼り出された羊皮紙のいちばん上に、墨痕も鮮やかにその名が記されていた。
『外門警備兵本採用 デン』
詰めかけた見習いや人足たちの歓声が、朝霧の川面に響いていた。三人受けて、一人。そのたったひとつの席を、あの男は泥まみれになってもぎ取ったのだ。
白衣の袂の奥で、私は油紙に包んだ小さな焼き菓子を握りしめていた。昨夜のうちに厨房の竈で焼いておいた、蜂蜜と燕麦の薄焼きだ。日持ちがするし、櫓の上でも手袋のまま口へ放り込める。
「合格祝いよ」と笑って渡すつもりだった。
至聖所の天窓から見た川門の朝焼けが、あんまり晴れやかだったから。
神殿から詰所へ通関台帳を届ける使いを、私は自分から買って出た。
けれど、詰所の敷居をまたいだ瞬間、足が石の床に縫いとめられた。
詰所の中は、門番長をはじめとする十数人の屈強な正規兵と、立ち会いの書記神官たちでいっぱいだった。濁り酒の樽が開けられ、男たちの荒っぽい笑い声と煙草の煙が立ちこめている。
その真ん中に、デンが立っていた。
貸与品の白革の胸当ては、もう外されていた。代わりに身につけていたのは、油で黒光りする正規の鉄の胸当てと、右肩から胸元へ斜めに垂らされた鮮やかな青い紐。
川門番兵の証の、青い組紐だった。
黄色い見習い紐のときとはまるで違った。広い肩に青い組紐がくっきりと映え、無精髭を剃り落とした顎が引き締まって見える。本物の番兵の顔だった。
私に気づくと、男たちが一斉に笑い声を収め、慌てて背筋を正した。
「第二聖女様!」
門番長が椅子を蹴るように立ち上がって、敬礼する。
デンも弾かれたように直立した。丸い目が一瞬大きく見開かれて揺れたが、すぐに喉仏をひとつ上下させ、拳を胸に当てて、規律どおりの硬い敬礼を取った。
「神殿より、今期の通関台帳をお届けに上がりました」
私は感情をそぎ落とした、澄んだ声を出した。
「門番長殿。ならびに、新任の正規番兵殿」
私の視線が、デンの胸元の青い組紐の結び目に吸い寄せられる。
デンは唇を真一文字に結び、目を私の額のあたりに据えたまま、微動だにしない。
「ご苦労様でございます、ユッカ聖女様」
門番長が台帳を受け取り、後ろのデンを親指で示した。
「こいつが今期の合格者でしてな。口上は相変わらず怒鳴り散らすようですが、実技と水底の検分は満点でした。おい、デン、聖女様にお礼を言わんか。寺務所の願書に推薦の朱印を押してくださったのは、こちらのユッカ様だぞ」
「はっ」
デンが靴の踵を打ち鳴らし、一歩前に出た。
近い。手を伸ばせば、あの青い紐に届く距離だった。祝い酒の匂いと川風の匂いが、混ざり合って漂ってくる。
「謹んで、御礼申し上げます。第二聖女様」
低く、張りつめた声だった。
至聖所で「腹が減った」と笑っていた声ではない。無花果を半分に分け、冷えた栗の皮を剥いてくれた男が、今は大勢の前で、私を肩書きで呼んでいる。
胸が、締めつけられるように痛んだ。
望んでいたはずのことだった。彼が一人前の番兵になって、誇りを持ってこの門に立つこと。それを誰よりも願って朱印を押したのは、私自身だ。
なのに、公の場に引かれた境界線は、あまりに冷たく、分厚かった。
袂の中で、焼き菓子の油紙が指に押されて、カサリと鳴った。
出せない。
この男たちの前で私的な菓子など差し出せば、デンの合格に泥を塗ることになる。「聖女に取り入って席を買った」と陰口を叩かれるのは、彼のほうなのだ。
私は袂の中で包みから指を離し、両手を静かに胸の前で重ねた。
「お役目、励みなさい。デン正規番兵殿」
「はっ。神殿の静謐と町の川門を、命に代えてもお守りいたします」
デンが深く頭を垂れる。
敬礼の拳に、縄で擦りむいた赤い筋が幾本も走っていた。この六日間の跡だ。私はそれ以上何も言えず、踵を返して詰所を出た。
神殿へ戻るため、川門の堤防沿いの石畳を歩く。
渡せなかった焼き菓子の重みが、袂の中で鉛のように沈んでいた。
(これで、よかったのよ)
彼は門番になり、私は聖女として祈る。夜食をつまみ食いしていた秘密の時間は終わって、これからは天窓から手鏡の光を返すだけの、遠い間柄になる。それが正しいのだと、自分に言い聞かせた。
そのときだった。
靴底を通して、敷石の奥からかすかな震えが伝わってきた。
私は足を止めた。
耳を澄ます。水門の放水音に混じって、地の底を擦るような鈍い響きがする。
川面に目を凝らした。
朝の光を浴びた水面は、ぱっと見には穏やかだった。けれど、水門の杭の根元に絡んだ水草が、川底へ引きずり込まれるように逆立っている。
そして水の色が、いつもの深い緑ではなく、上流の赤土を削り取ったような、どす黒い茶色へと見る見る濁りはじめていた。
鼻を突いたのは、泥と腐った落ち葉の強い臭いだった。
(上流で、山が崩れた?)
祈りのたびに神殿の礎石から地下の水脈へ光を送っている私には、分かった。
水脈の底が、悲鳴を上げている。
北の山並みを見上げると、群青色の空の向こうに、墨を流したような分厚い黒雲が山肌を呑み込むように垂れこめていた。
雨の少ないはずの十月の末に、上流で局地的な大雨が降っている。この濁りは、まだ先触れにすぎない。本当の鉄砲水が川門へ届くのは、おそらく今夜遅く。それも、ここ何年もなかったほどの大水になる。
(今夜、川が溢れる)
詰所の男たちは、昇格の祝い酒に酔っている。川の異変に気づいている者は、まだ一人もいない。
迷ったのは、一瞬だけだった。
私は白衣の裾を両手でたくし上げると、聖女の歩みをかなぐり捨てて、敷石の上を全力で駆け戻った。
風をはらんだ布が脚に絡みつくのも構わず、堤防を走り抜け、さっき出たばかりの詰所の扉を両手で力任せに押し開ける。
バン、と蝶番が悲鳴を上げた。中の男たちが一斉に目を丸くして振り返る。
「せ、聖女様? いかがされまし――」
門番長の言葉をさえぎって、私は真ん中に立っていたデンの目を、まっすぐに射抜いた。
「デン番兵!」
公の敬称なんて、どうでもよかった。
「川の水脈が濁っています。上流の山が崩れて、鉄砲水が下ってきているわ。今夜、この川門は呑まれます!」
詰所の空気が凍りついた。男たちがうろたえて顔を見合わせる中、デンだけが迷わず顎を引き、腰の鍵束を鳴らして駆け出した。
「水門の警戒鐘を鳴らせ! 土嚢と予備の太綱を全部出せ!」
叫んだデンの肩で、青い組紐が風を切って跳ね上がった。




