第10話 濁流の青と赤紐の壺
川門を叩く濁流の音は、腹の底を揺さぶる雷鳴に似ていた。
十月二十七日の夜更け。上流の山崩れが押し出した鉄砲水は、ユッカの警告どおり、子の刻を回ったところで川門の警戒水位をいっぺんに呑み込んだ。
僕は、ずぶ濡れの外套の襟をかき合わせて、防潮堤の上に仁王立ちになっていた。朝、右肩に結んでもらったばかりの青い組紐は、川水と泥を吸って、鉛みたいに胸当てに張りついている。
「杭を打て! 土嚢をあと三十俵、水門の継ぎ目に積め!」
叫んだ声が、逆巻く水音にかき消されそうになる。
門番長をはじめ十数人の番兵と、町から駆り出された人足たちが、膝まで泥水に浸かって麻袋を積み上げていた。
川面は墨を流したように真っ黒で、上流から流されてきた丸太や桟橋の破片が、水門の鉄柵にドカン、ドカンと鈍くぶつかっている。
そのときだった。
足元の泥水が、底のほうからすうっと青く透けはじめた。
泥をかぶった敷石が、水の底から淡い白青色の光を放ちだしたのだ。
至聖所で、ユッカが祈りはじめた。
昼に詰所の扉を叩き開けたあの娘が、今は明かり取りの高い石室で、一人で祈祷台に額を擦りつけている。この川門へ向けて、身を削るようにして光を送ってきている。
光は波打ち際で途切れることなく、水に沈んだ船着き場の道筋を、水中の標柱みたいにくっきりと浮かび上がらせていた。
「おい! あそこを見ろ!」
見張りの若い兵が叫んだ。
沈みかけた第二船着き場の荷揚げ板の上で、逃げ遅れた船宿の主人が、荷車にしがみついたまま立ち往生していた。水かさはもう大人の腰まで来ている。一歩でも足を滑らせて本流の深みに落ちれば、渦を巻く濁流に呑まれて、それきりだ。
「動くな!」
僕は腰の救命索をほどき、防潮堤から水門の縁へ駆け出した。
「親父さん! 足元を見ろ! 石が光ってるところだけを踏め!」
縮こまっていた主人が、水面の下で青く光る敷石の筋に気づいて、はっと顔を上げた。
ユッカの光が、泥水の下に沈んだ欠け石の段差と、安全な石段までの道筋を、影の濃淡で見事に描き出していた。主人は荷車を捨て、光る敷石の縁を靴底で探りながら、一歩、また一歩と堤防のほうへ戻りはじめた。
僕の投げた太綱の輪が、主人の胸元に正確に落ちた。
「掴まれ!」
肩を杭に預け、腕の力で綱を引き絞る。人足たちが加勢して、水の中から引き上げられた主人が、堤防の上に転がった。
「た、助かった。足元が光らなきゃ、深みに踏み外すところだった。聖女様のご加護だ」
主人は泥だらけの手を合わせ、神殿の方角へ震える息を吐いた。
僕は濡れた前髪を乱暴に掻き上げて、神殿の屋根を見上げた。雨煙の向こうで、至聖所の天窓が小さく光を跳ね返している気がした。
ご加護なんて、そんなきれいなものじゃない。
あれは、あの娘が腹を空かせて、膝を擦りむきながら祈り続けている、生身の光だ。
丑の刻が近づいた頃、神殿から救援物資を積んだ幌馬車が、詰所の裏手に滑り込んできた。
「神殿からの差し入れだ! 水防の人足と番兵に配れ!」
御者台から飛び降りてきたのは、神殿の倉庫を預かる年配の神官、ハルムだった。白衣の裾を泥だらけにして、幌の奥から木箱を次々と引きずり出す。
「神殿長のお指図で、倉庫の乾糧を出してきた! 乾いた麦袋が二十、それから、おい、そこの番兵、その壺を絶対に落とすなよ!」
ハルムが血相を変えて指さしたのは、木枠の中に藁で固定された、大ぶりの素焼きの壺だった。
壺の首には、大祭用の封印を示す赤い麻紐が、幾重にも巻きつけてある。神殿の奥の涼所で寝かせてある、上等な干し無花果の蜜漬けだ。
「予備倉庫の棚から、手当たり次第にかき集めてきたんだ! 濡らしたら蜜が駄目になる! 詰所の奥へ運べ!」
「了解しました!」
僕は赤紐の壺を抱え上げた。ずしりと重い。冷えた陶器の肌から、甘い酒のような香りがかすかに漏れている。
荷台の藁の奥には、同じ赤紐の壺があと三つ並んでいた。全部で四つ。仮配属のあいだに叩き込まれた癖で、気づけば積荷を数えていた。
水防の差し入れに、大祭の封印壺。ずいぶん気前のいい話だと思った。
顔を上げると、ハルムと目が合った。ハルムは僕の肩の青い組紐を見るなり、露骨に顔をしかめて、ふいとそっぽを向いた。番兵嫌いの神官は珍しくもない。そのときは、それだけのことだと思った。
僕は詰所の北側の壁際、雨漏りのしない板棚の最上段へ、壺を押し上げた。
そのとき、詰所の入り口の扉が開いて、濡れた合羽の小さな影が飛び込んできた。
フードが脱げて、濡れた黒髪がこぼれる。
ユッカだった。
「第二聖女様!? なぜここに!」
詰所の中が騒然となった。
ユッカは青ざめた顔で肩を上下させ、息を切らしていた。手にしているのは祈祷用の銀鈴ではなく、神殿の救護袋だ。
「次の祈りまで、先輩の聖女に交代してもらいました。傷薬と手巾を持ってきています。門番長殿、怪我人はどこですか」
声は震えていたが、目は澄みきっていた。
その目が、棚に壺を押し上げていた僕の手元を捉える。それから胸の青い組紐と、泥だらけの顔を。
目が合ったのは、ほんの二呼吸のあいだだった。
公の場だ。言葉を交わすことは許されない。
それでもユッカは、僕の無事を確かめると小さく息を吐き、きびきびとした足取りで、怪我人の寝かされた奥の小部屋へ向かっていく。
僕は壺から手を離し、濡れた革手袋をきつく握り直した。
外へ出ると、川の水位は堤防の天端まであと三寸のところで、奇跡のように止まっている。
神殿から救護の神官たちが駆けつけると、ユッカは空になった袋を肩に掛けて神殿へ戻っていった。僕らは杭を二本打ち直す。やがて、祈りの交代を告げる鈴の音が、風に乗って届いた。
僕は水門の櫓に駆け上がり、腰に提げた真鍮のランタンを外す。
神殿の屋根、至聖所の天窓へ向けて、ランタンを大きく二度振る。木戸を叩くかわりにと、あの晩決めた合図だ。
雨の向こう、至聖所の天窓から、手鏡の光が二回、白く瞬いて返ってきた。




