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聖女の夜食をつまんだのは僕です  作者: 九葉(くずは)


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第11話 四日ぶりのノック

 十月二十八日の未明に川門を襲った鉄砲水から、もう四日になる。十一月一日の朝だった。


 濁流は二日で引き、水門の堰板に引っかかった流木や泥の片づけも、昨日の夕暮れにようやくひと区切りついたところだ。

 川沿いの敷石にはまだ乾いた泥の筋が白っぽく残っているものの、川船は再び穏やかな水面に舳先を浮かべ、町は少しずつ普段の息遣いを取り戻しつつある。


 連日の夜通しの祈祷で削られた体を引きずるようにして、私は至聖所の裏の洗い場に立っていた。


 泥をかぶった予備の祈祷着を井戸水ですすいでいると、同じく救護を手伝っていた若い修道女が、洗濯板の向こうで溜め息をついた。


「本当に恐ろしい嵐でしたね。川門の詰所も、一時は床まで水が上がったそうです」

「詰所の荷物は、無事だったの?」


 何気ないふうを装って尋ねると、修道女は絞った布を桶に入れながら頷いた。


「ええ。番兵さんたちが必死に守ってくれたそうです。ただ、夜半過ぎに詰所の裏壁が水で軋んで、北側の板棚が傾きかけたとかで。炊き出しの人たちが慌てて、棚の荷を外の幌馬車へ移したそうですよ。神殿から運んだ赤紐の蜜漬け壺も、そのとき馬車の奥へ押し込まれたって、炊き出し番のおばさんが言ってました」

「そう。よかったわ」


 井戸の冷たい水に手を浸しながら、私は嵐の夜、デンが棚の上へ押し上げていた大きな素焼きの壺を思い出していた。


 あれは大祭のための神殿の財産で、ひと壺で小さな家の半年分の家賃に相当する高級品だ。私とデンが真夜中に分け合っていた、供物の小皿の一粒や二粒とは、まるで桁が違う。あれが無事なら、神殿長もほっとしているだろう。




 洗濯桶を片づけて至聖所に戻ったのは、朝の勤行の鐘が鳴る半刻ほど前だった。


 誰もいない薄暗い石室に、朝霧が冷たく溜まっている。


 ト、ト・トン。

 西の木戸から、小さく、けれどはっきりと、その音が届いた。


 心臓が喉元まで跳ね上がった。

 祈祷着の裾を引っかけそうになりながら木戸へ駆け寄り、震える指で重い閂を外す。


 扉が開いた。

 朝霧の立ちこめる路地に、デンが立っていた。


 嵐の夜の泥だらけの外套は脱いでいたが、鉄の胸当ての縁には乾いた泥がこびりつき、右肩の青い組紐は擦り切れて端がほつれていた。目の下には墨を刷いたような濃い隈が落ち、無精髭の伸びた頬は驚くほどこけている。


 四日ぶりに見る、生身のデンだった。


「生きてる?」


 口からこぼれたのは、そんな間の抜けたひと言だった。


 デンは丸い目をわずかに見開き、乾いた唇をゆるめて、掠れた声で笑った。


「なんとか。あの、報告が遅くなりましたけど。僕、受かりました」

「知ってる。おめでとう、デン」


 やっと言えた。デンが笑った。


「で、あんたこそ倒れてないですか」

「倒れるわけないでしょう。あなたより頑丈よ」

「嘘ばっかり。目の下が真っ黒ですよ」


 言い合っているうちに、張りつめていた糸がぷつりと切れた。


 どちらが先に踏み出したのか、分からない。

 私は泥の匂いの染みた胸当てに額からぶつかるように飛び込み、デンは太い両腕を私の背中に回して、骨が軋むほど強く抱きしめた。


 ごつごつした鉄と革の硬さ。夜露に濡れた冷たさ。その奥から立ちのぼる、確かな体温。


 顔を埋めた胸元から、川泥と、詰所の煙と、冷たい風の匂いがいっぺんに流れ込んできた。生きている。濁流に呑まれもせず、丸太に砕かれもせず、この人は私の前に立っている。


「痛いわよ、デン」

「ごめん、胸当てが当たった?」

「息が、苦しいの」

「僕もです。四日間、ずっと息が詰まってました」


 デンは腕の力を少しだけゆるめたが、離そうとはしなかった。祈祷着の薄い背中に置かれた大きな手が、かすかに震えている。


「川門から、あんたの光が見えたとき」


 頭の上でデンの唇が動き、低い吐息が髪を揺らした。


「本当に石畳が青く光って、濁流の下の石段が透けて見えたんです。船宿の親父さんを一人、綱で引き上げました。あんたの光がなかったら、あの人は確実に死んでました」

「知ってるわ。あのご主人のこと」

「え?」

「詰所の奥で、擦り傷に薬を塗ったもの。『聖女様の光で命拾いした』って、何度も手を合わせていたわ。光だけじゃ助からなかったのに。綱を投げた番兵がいたからでしょう」

「両方ですよ」


 デンがぶっきらぼうに言った。


「天窓の手鏡、届いた?」

「届きましたよ。あんな合図をもらったら、朝まで門にしがみついてるしかないでしょうが」


 デンが喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。

 その胸に顔を押し当てていると、四日分の疲れが、温もりの中に溶けて消えていくようだった。


 川の町の誰も知らない暗がりの中で、門番と聖女は、互いの無事を飽きもせずに確かめ合っていた。


 やがてデンが私の肩から手を離し、少しだけ身を引いた。


 すぐ近くで目が合う。疲れで充血した茶色い瞳の中に、私の姿がまっすぐ映っていた。


「腹、減りましたね」

「ええ。猛烈に」

「大祭が終わったら、神殿前の広場のパン屋で、いちばんでかい丸パンを買いましょう。焼きたての熱いやつを」

「半分こにするのね」

「当たり前です。僕のほうが大きく食べますけど」

「生意気言わないで」


 私が笑いかけた、そのときだった。

 神殿の表回廊のほうから、けたたましい足音と怒鳴り声が響いてきた。


「ない! ないぞ! どこを探しても見当たらん!」


 聞き覚えのある金切り声だった。倉庫番のハルムだ。


「大祭用の特級の蜜漬け、赤紐の封印壺が二つも消えている! 川門へ運んだ帳簿には載っているのに、荷馬車にも倉庫にも戻っていない! 水防の混乱に紛れて、誰かが盗み出したに決まっている!」


 至聖所の冷たい空気が、一瞬で凍りついた。

 私とデンは顔を見合わせ、息を呑んだ。


「二つ?」


 デンが眉をひそめて呟いた。何かを数え直すように、指先がかすかに動く。


「デン。幌馬車よ」


 今朝、洗い場で修道女から聞いたばかりの話を、私は急いで彼に伝えた。


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