第12話 聖女の夜食をつまんだのは僕です
神殿の東回廊に面した寺務所には、重苦しい空気が張りつめていた。
大捕物の取り調べというほど大げさなものではない。それでも、木の長机を囲んで、神殿長と門番長、それに真っ赤な顔の倉庫番ハルムが、一冊の出納帳を睨んでいた。
私は、洗い場で聞いた幌馬車の話を伝えるつもりで、同席を願い出た。若い修道女が、炊き出し番のおばさんを捜しに走ってくれている。
デンは、呼び出しの使いが川門へ走るより先に、自分から寺務所の扉を叩いていた。
「落ち着きなさい、ハルム」
神殿長が白髪まじりの眉をひそめ、乾いた声でたしなめた。普段は温厚な老人だが、神殿の財と規律を預かる長としての眼光は、少しも曇っていない。
「水防の混乱の中で、荷が紛れただけかもしれん。盗みと決めつけるのは早い」
「ですが神殿長! 川門へ運んだ赤紐の壺は五つ、倉庫へ戻ったのは三つです!」
ハルムが帳簿を指先で激しく叩いた。
「詰所の北の棚に壺を上げたのが誰か、ご存じですか! それに、近ごろは神殿の風紀が緩みきっております! 至聖所の供物も、この秋だけで干し無花果が十二皿、焼き葡萄が八房、帳簿から消えているのですぞ!」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
至聖所の供物。私が夜中に空腹に負けて、手を伸ばしていたあの皿だ。
十二皿。そんなに食べた覚えはない。けれど、手をつけたこと自体は本当だった。
「神聖な至聖所に忍び込み、聖女様のお供えにまで手をつけていた不届きな番兵がいる、という噂もございます!」
ハルムは長机の端に直立していたデンを、指でまっすぐに突いた。
「お前だ、新任の正規兵! 嵐の夜、お前は詰所の北の棚にじかに手を触れていたな! 日ごろから供物を盗み食いして、その勢いで大祭の壺まで売り飛ばすつもりで隠したのだろう! 川岸の荒くれが青い紐を下げたところで、手癖は直らんわ!」
言いがかりだった。
赤紐の壺と、供物のつまみ食いには何の関わりもない。けれど、ひとつでも本当のことが混じれば、疑いは泥のように絡みついて離れなくなる。
見習いから上がったばかりのデンが、この場で盗みの疑いをかけられたら、青い組紐を取り上げられるどころか、町から追われることさえあり得た。
私が口を開きかけた、そのときだった。
「違います」
低く、よく通る声が、寺務所の石壁に響いた。
デンが一歩、前に出た。
さっき木戸の前で見せていた疲れは、もう顔のどこにもなかった。背筋をまっすぐに伸ばし、青い組紐を胸に張って、神殿長を正面から見据えている。
「赤紐の壺は盗んでいません。詰所の棚が傾いたとき、僕は櫓にいました。荷を馬車へ移したのは炊き出しの人たちです。僕が知っているのは、北の棚に壺を上げたところまでです」
「しらを切るな! では至聖所の供物が減っていた件はどう説明する!」
ハルムが唾を飛ばして詰め寄った。
デンは眉ひとつ動かさず、静かに息を吸った。
「至聖所の供物に手をつけた者がいるのは、本当です」
寺務所の中が、水を打ったように静まり返った。
門番長がぎょっとしてデンを睨み、神殿長が眼鏡の奥の目を細める。
「デン、お前」
門番長の制止をさえぎるように、デンはきっぱりと言い切った。
「聖女の夜食、つまんだのは僕です」
堂々とした、そしてどうしようもなく馬鹿正直な告白だった。
デンは神殿長に向かって深く頭を下げ、直立の姿勢を崩さないまま続けた。
「この秋、内門の見回りの途中で腹が減って、至聖所の祭壇のお供えをつまみ食いしました。焼き葡萄の房から二粒だけちぎって、軸を林檎の葉の下に隠したのも僕です。燭台の隙間から蜜柑の皮を黙って片づけたのも僕です。それから、干し無花果を、半分」
私は目を見張った。
蜜柑の皮を燭台に押し込んだのは、私だ。
焼き葡萄はたしかにデンの仕業だけれど、無花果を引っ張り合って千切ったのも、竈の灰で林檎を焼いたのも、生姜湯を一緒にすすっていたのも、ほかでもない私だった。
誰が皮を押し込んだか、デンはひと言も言わなかった。私が口を閉じていれば、ここにいる誰も、一生それを知らずに済む。
「半分だと? ふざけるな、帳簿では十二皿だ!」
「十二皿なんて食ってません。そんなに食べてたら、腹の音でとっくに小頭に見つかってます」
門番長が、喉の奥で妙な音を立てた。
「僕の食べた分は、僕の責任です。至聖所の静けさを乱した罰は、どんなものでも受けます。礼拝堂の雑巾がけでも、広場の落ち葉掃きでも申しつけてください。ですが」
デンが顔を上げ、ハルムを鋭く見据えた。
「赤紐の壺を盗んだという疑いだけは、絶対に認めません。僕は川門の正規番兵です。町の命を預かる門番が、大祭の壺をくすねるような真似は、決してしません」
寺務所に沈黙が落ちた。
ハルムはデンの気迫に押されて言葉を詰まらせ、門番長は頭を抱えて呻いている。神殿長は顎の髭を撫でながら、じっとデンの顔を見つめていた。
このまま黙っていれば、デンひとりが「卑しい盗み食いの番兵」として罰を受けて、それで丸く収まるのだろう。私の聖女としての名は傷つかず、デンの青い組紐も、掃除当番くらいで済めば守られるかもしれない。
けれど。
そんな嘘に守られて、何が聖女だ。
あの胸の鼓動に触れて、剥いてもらった栗の甘さに救われておきながら、自分だけ安全な祈祷台の上に座っていられるわけがない。
足が、勝手に動いていた。
「お待ちください!」
白衣の裾を翻し、私は神官たちの間を割って飛び出した。
デンが驚いて振り返る。止めようとするその目より早く、私は彼の腕を両手で掴んだ。指の間から、右肩の青い組紐がのぞいた。
「ユ、ユッカ聖女様!?」
デンがうろたえて腕を引こうとする。私は爪が食い込むほど強く握って、離さなかった。
「神殿長! その無花果には、もう半分あります!」
私の叫びが、寺務所の高い天井に響き渡った。




