第8話 二つに折った胡桃の包み
銀鈴の音が石壁に吸い込まれたあと、私は無意識に、祈祷着の右の袂へ指を差し入れていた。
指先に、油紙の硬い感触が触れる。
昼の配給の残りだった。厨房の修道女が「少し焦げたから」と下げてくれた、胡桃入りの堅焼きパンだ。端から親指で二つに割って、同じくらいの重さに分け、油紙で丁寧に包んである。
祈りの前に袂へ滑り込ませたとき、それが一人分ではないことに、私は少しも疑問を抱かなかった。習慣というのは恐ろしい。
頭の中で、十、二十、と拍子を刻む。
三十呼吸の残光が、西の木戸の隙間から細い青い筋になって床に差し込んでいた。
耳を澄ます。
ト、ト・トン。
その三つの音を待っている自分がいた。
けれど、夜風が木戸を揺らす低い軋みのほかには、何も聞こえない。
足音がしたのは、三十を数え終えて、床の青い筋がすっかり消えたあとだった。カツン、ズル、と革底を石に擦りつけるような、くたびれた歩き方。
表の樫の扉が、外からコン、コン、と二度だけ叩かれた。
「ユッカ様。今夜の祈祷、滞りなくお済みですかな」
扉越しに届いたのは、夜番の小頭の嗄れた声だった。
「ええ。ただいま鈴を納めました」
「ご苦労様でございます。川門の水位、平穏でございます。施錠はこちらで確かめておきますので」
それだけ言うと、年寄りの足音はまたカツン、ズル、と回廊の西へ去っていった。
垂れ幕を乱暴にめくる音も、閂を押し上げる音も、靴にこびりついた川泥の匂いもない。
十月二十四日。試験は三日目で、今夜からデンは川門の櫓で夜を明かす。二十七日の夜明けに合否が出るまで、私用で神殿に戻ってくることはできない。
私は梯子をのぼって、天窓の点検口から外を覗いた。川門の篝火が、ずっと遠くで小さく揺れている。ランタンは振られなかった。当たり前だ。試験中の見習いが、持ち場で私用の合図など送れるはずがない。
梯子を下りて、袂から包みを取り出し、祈祷台の縁に置いた。
一人で食べる気にはなれなかった。無花果を引っ張り合っていた頃のあのすさまじい空腹は、どこかへ抜け落ちてしまったらしい。胃のあたりが、固く縮こまっている。
油紙を開きもせずに、私は火消しの鐘が鳴るまで、蝋燭の芯が小さく弾けるのを眺めていた。帰り際、胡桃パンは包んだまま袂に戻した。
翌朝、勤行を終えた東回廊は、川風に運ばれてきた朝霧で白く煙っていた。
神殿長への日誌を出し終えて、私は祈祷書を抱え、中庭に面した列柱の間を歩いていた。霧の奥から、掃除当番の修道女たちが竹箒を走らせる乾いた音が聞こえてくる。
渡り廊下の角を曲がると、内門番長のごつい体が目に入った。詰所の帳簿を小脇に抱えて、神殿の門衛たちに朝の点呼を取らせている。
「番長殿」
私が足を止めると、番長は驚いたように髭面を撫で、腰の帯に手を当てて礼を取った。
「これはユッカ聖女様。朝の勤行、ご苦労様でございます」
「川門の様子は、いかがですか」
平らな声で尋ねたつもりだったが、番長はすぐに察したらしい。ぎょろりとした目を細めて笑った。
「ああ、試験の連中ですかい。二十二日と二十三日の実技、早外しと流木の綱投げは、三人ともなんとか基準を越えましたよ。とくにデンの奴は、手入れした鍵の歯の噛み合わせがよかったらしくてな。掛金を外す早さだけなら、正規兵より上でした」
「そう」
「ですがねえ、昨夜から櫓に立たせてる仮配属のほうが、どうにも硬くていけませんな。他国の船乗り相手に通関口上を唱えるとき、緊張して身体を棒みたいに突っ張らせて、怒鳴るような声で喋るもんだから、商人に『喧嘩を売られたのかと思った』と苦情を言われましてね。飯も喉を通らんらしく、朝の麦粥にも手をつけとらんそうです」
怒鳴るような声。
床の上で、額に青筋を立てて「川関の令に基づき!」と一本調子に叫んでいたデンの顔が、まざまざと浮かんだ。誰かが笑い飛ばしてやらなければ、あの男はどこまでも生真面目に自分を追い詰めてしまう。
「口上が不格好でも、積み荷の影は見落としていないのでしょう」
「ええ、そりゃあもう。水底の光で荷を見る目だけは、見習いの中で一番です。昨夜も、南へ下る商船の荷を、船主がうんざりするほど念入りに検分しとったそうで。……おや」
番長が、中庭の敷石の先へ目を向けた。
霧の切れ間を縫って、一人の番兵が大股で中庭の脇の通路を横切っていく。
デンだった。
仮配属の日報を、寺務所へ届けに来たのだ。
その姿に、私は足を止めた。
デンが身につけていたのは、見習いの黄色い撚り紐ではなかった。かといって、正規兵の青い組紐でもない。
鉄鋲を打った、染めていない硬い白革の胸当て。試験中の見習いにだけ一時的に貸し出される、『仮・四号』と焼き印の押された分厚い貸与品だった。
歩き方が、私の知っているデンと違った。
木戸をくぐるときの、肩の力の抜けた、大きな手足を持て余すような歩き方ではない。踵をきっちり敷石に打ちつけ、目線を正面に据えた、規律どおりの歩調だった。
横顔には、疲れと緊張が色濃く張りついていた。頬が少し削げて、無精髭の浮いた顎を固く引き結んでいる。
声はかけられなかった。仮配属中の試験生は、用務のほかに神殿の者と私的に言葉を交わすことを禁じられている。
私は列柱の陰に半歩下がり、抱えた祈祷書の角を指先で強く押さえた。
デンは寺務所の階段を駆け上がり、日報の束を書記神官に渡した。深く頭を下げて受領の印をもらうと、すぐに踵を返す。
中庭の敷石を踏んで戻っていく途中で、デンがふと足を緩めた。
目を向けたのは、私の立っている回廊ではなかった。
神殿の屋根。至聖所の上に突き出た、あの小さな天窓だった。
朝の薄い光を鈍く跳ね返す天窓を、デンは二呼吸ほど見上げていた。それから、誰にも分からないくらいわずかに顎を引いて、走るように川門の方角へ去っていった。
「まったく、不器用な男ですな」
番長が呆れたように鼻を鳴らした。
「ええ。本当に」
私は小さく答えた。
袂の中の胡桃パンは、すっかり冷えて石のように硬くなっていた。
それでも、天窓を見上げたデンのまっすぐな横顔が、目の奥に焼きついて離れない。あの男は、冷えたパンの味も忘れるほど必死に、川門の風に耐えている。
あと二日。
二十七日の夜明けまで、私は私の祈祷台で、あの男の足元を照らす光を研ぎ澄ませておかなければならない。




