第7話 舌を噛む口上と胸の音
ト、ト・トン。
西の木戸を打つ三つの音に、私は祈祷台から立ち上がり、銀鈴の余韻が消えるのも待たずに閂を引いた。
十月二十一日の深夜。木戸の隙間から滑り込んできたデンは、いつもより胸当ての帯をきつく締めていた。試験の荷物はもう、川門の詰所に運び込んであるのだという。
「明日、二十二日から二十七日までの六日間です」
デンは床に腰を下ろし、両手で指を六本立ててみせた。
「最初の二日で縄投げと早外しの実技。二十四日から三晩は、外門の櫓に立って、実際に船と人を通す『仮配属』です。二十七日の夜明けに、門番長と神殿の立ち会い神官が最終判定をして、合否が決まります」
「六日間も」
「ええ。その間、内門の見回りには戻れません。寝起きも全部、川門の仮兵舎です」
六日間、この部屋に彼の足音は響かない。
分かっていた数字なのに、口に出されると喉の奥がひりついた。けれど、今夜は寂しがっている場合ではない。私は眉を寄せて、デンの顔を覗き込んだ。
「それで、縄投げは大丈夫なの? 十のときの川を思い出して、足がすくんだりしない?」
いちばん気がかりだったことを尋ねると、デンは意外そうに瞬きをして、それから困ったように眉尻を下げた。
「縄投げと早外しなら、身体が勝手に動くんで平気です。非番のたびに、水門の丸太相手に投げてますから」
「じゃあ、何が不安なのよ。さっきから目が泳いでいるじゃない」
「言葉ですよ」
「言葉?」
「外門の通関口上です」
デンは頭を抱え、胸当ての革を小さく軋ませた。
「外門は他国の商船や公証人も通るから、格式張った神殿の定型口上を、一言一句間違えずに唱えなきゃいけないんです。筆記のあと、試験官の前で実際に暗唱させられるんですけど、僕、見習いの粗っぽい喋りしかしてこなかったから、舌がもつれて、どうしても噛むんです」
私はあっけにとられて、口を半ば開いた。
濁流や夜の暗闇に怯えているのかと思えば、恐れているのは神殿の儀礼口上だという。あまりにデンらしい理由に、張りつめていた糸がふっと緩んだ。
「どんな口上なの。言ってみなさいよ」
「ええと」
デンは居住まいを正し、膝の上に拳を置いた。額に青筋が浮くほど顔を強張らせ、出来の悪い朗読劇のような一本調子で声を張り上げる。
「『川関の令に基づき、神殿の静謐を、せ、静謐を汚さぬ証を立てよ。汝の積荷、水底の光に照らし合わせ、て、やましいことなきや』。あ、違った。『照らし合わせて影なきことを証せよ』だ」
「全然だめね」
「だめですよね!」
「声が上ずっているし、顎が上がっているわ。そんな睨みつけるような目で言われたら、まっとうな商人でも、密輸船と疑われたと思って逃げ出すわよ」
「だって、普段使わない言葉ばっかり並んでるんだから仕方ないでしょう!」
デンが耳まで真っ赤にして抗議する。
思わず吹き出しそうになったが、ここで笑っては、朱の推薦印を押した聖女の名折れだ。私は裾を払って、デンの正面、膝が触れ合うほどの近さに正座した。
「私が商船の船長をやってあげるわ。立派な荷を積んだ、少し気難しい年寄りの商人よ。ほら、門番。もう一度」
デンがごくりと喉を鳴らした。
暗がりの中、すぐ目の前で、私の目を見つめ返してくる。茶色い瞳の奥に、揺れる蝋燭の炎が映っていた。
「川関の令に基づき」
「声が低すぎる。もっとお腹から出しなさい。相手は川の波音の中にいるのよ」
「川関の令に基づき、神殿の静謐を汚さぬ証を立てよ」
「そう。続けて」
「汝の積荷、水底の光に照らし合わせて」
そこで、デンの言葉が詰まった。
私の目を見つめたまま、唇をかすかに震わせている。その視線が、私の目から鼻先へ、それから結んだ唇へと滑り落ちた。
部屋の空気が、急に熱を帯びた気がした。
「デン?」
「あんたの顔が近すぎて、口上が頭から飛びました」
「馬鹿なこと言ってないで続けなさい」
「馬鹿なことじゃないですよ。こんな近くで聖女様にじっと見つめられて、平気で喋れる番兵がいたら連れてきてくださいよ」
デンの声が掠れていた。冗談にしようとしているのに、語尾の震えがごまかしきれていない。
見つめ返す私の胸も、早鐘を打ちはじめていた。
六日間、会えない。
もし彼が受かれば、こんなふうに二人きりで膝を突き合わせる夜は、もう戻ってこない。
胸の底から何かが突き上げてきて、気づけば右手を伸ばしていた。
夜風に冷えた彼の頬に、あるいは強張った頑丈な肩に、触れたいと思った。聖女の祈りとしてではなく、ただの女として、彼の体温を確かめたかった。
けれど、指先が胸当ての留め具に届く寸前で、私の手は止まった。
触れてしまえば、一線を越える。
これから彼が戦いに行く場所を、私の勝手な熱で邪魔してはいけない。ためらって引き戻しかけた指先を、大きな手が下からすくい上げた。
「止めるなら」
デンの指が、私の手首をそっと引き寄せる。
「止めるくらいなら、触ってください」
私の掌が、デンの胸当ての革に押し当てられた。
硬い革越しに、トク、トク、トク、と驚くほど速くて力強い鼓動が、手のひらに直接響いてくる。口上を噛んで慌てていた男の、生身の命の音だった。
「速いわね」
「あんたのせいです」
デンは私の手を離さず、革の上に自分の指を重ねたまま、静かに息を吐いた。
「六日間、戻れませんけど。あんたの祈りの夜は、川門の櫓から光を見張ってますから」
「ええ」
「合否が出たら、いちばんに報告に来ます」
「待ってるわ」
喉が熱くて、それ以上は言葉にならなかった。
ありきたりな「頑張って」は、喉の奥に引っかかって出てこない。そんな軽い言葉で送り出すには、彼が背負おうとしている川の暗闇も、私が祈り続ける敷石の光も、重すぎた。
私はデンの胸の上で、重ねられた指をぎゅっと握り返した。
「腹を空かせて、戻ってきなさい」
デンは一瞬目を見張り、それから、今までで一番誇らしげに口の端を上げた。
「言われなくても。うまいもの用意して、待っててください」
木戸が開き、冷たい風と一緒に、デンの背中が夜の闇へ消えていく。
閉めた閂の冷たさに額を押し当てながら、私は掌に残った鼓動の名残を、祈りのように抱きしめていた。




