第6話 朱の印と冷えた栗
神殿の東回廊にある寺務所の前で、デンが大きな背中を丸めて立ち往生していた。
昼下がりの、薄暗い石造りの廊下だ。十月も後半に入り、吹き抜けから入り込む風はすっかり冬の気配を帯びている。見習いの革胸当てをつけたデンは、一枚の羊皮紙を両手で挟んだまま、窓口の木枠の前を行ったり来たりしていた。
昼の勤行を終えた白衣のまま、私は柱の陰からその様子をうかがった。
手にしているのは、外門番の昇格試験の願書だ。右肩には内門番長の承認署名が墨で入っていたが、左下の「神殿常駐者による職務適格の証明印」の欄だけが、白くぽっかりと空いていた。
窓口の向こうでは、気難しそうな年配の書記神官が帳簿を繰っている。見習い番兵が気軽に「印をください」と頼める相手ではない。神官たちの多くは、番兵を川岸の荒くれ者と大差ないものと見下していた。
声をかけようとして、足が一瞬止まった。
(このまま、印がもらえなければ)
胸の底で、小さく濁った考えが頭をもたげた。
出願の期限は今日の夕刻だ。印がなければ、デンは四日後の試験を受けられない。そうなれば彼は内門の見習いのままで、これからも三日に一度、夜の至聖所の垂れ幕を揺らして、塩パンや生姜湯を抱えて私のところへやってくる。
手放したくない。
あの青い残光を二人で見た夜から、そんな我が儘が、祈りの言葉の隙間に何度も棘のように刺さっていた。
デンは願書を抱えたまま、窓口へ踏み出せずに唇を噛んでいる。指先が、大事な羊皮紙の端を握り潰しそうになっていた。「川の暗闇を照らす場所に立ちたい」と語ったときの、痛いほどまっすぐな目が頭をよぎった。
私は息を吸って、胸元の白衣を正した。
迷いを振り切るように、靴音を高く響かせて回廊へ踏み出す。
「デン番兵」
呼びかけると、デンは跳び上がるように振り返った。丸い目を見開き、慌てて願書を背中に隠そうとする。
「ゆ、ユッカ聖女様!」
「何をうろうろしているのです。回廊の通行の邪魔ですよ」
「あ、いえ、その。寺務所に用がありまして」
「願書でしょう」
私はデンの横を通り過ぎ、まっすぐ窓口へ向かった。書記神官が驚いて眼鏡の縁を押し上げ、椅子から立ち上がる。
「これは、ユッカ様。何か御用で」
「書記官殿。私の私印を出してください。台帳に預けてあるはずです」
神官は目を瞬かせながらも、棚の引き出しから小さな印章を取り出し、朱肉の壺とともに差し出した。黒檀の柄に青銅の印面をはめ込み、絡み蔦を彫らせた、至聖所を預かる聖女だけが持つ重い印だ。
私はデンを振り返った。
「出しなさい、その紙を」
「え、でも、ユッカ様」
「早く」
デンがおずおずと願書を差し出した。
私は窓口の木板の上に紙を広げ、羽ペンを墨壺に浸すと、空欄の真ん中に迷わず書きつけた。
『当人の夜間警備における職務態度、極めて誠実。至聖所の静謐を乱すことなく、不測の事態にも迅速に対応せり』
それから朱肉をたっぷりつけた印章を、体重をかけてその横に押しつけた。
ドン、と鈍い音が木板に響く。
羊皮紙の上に、鮮やかな朱の蔦模様がくっきりと浮かび上がった。
「受け取りなさい、書記官殿。第二聖女ユッカの推薦です。不備はありませんね」
「は、はい、確かに承りました」
神官が恐縮して願書を引き取った。
私は印章を返し、呆然と立ち尽くしているデンの前へ戻った。
自分の手で、背中を押してしまった。もう後戻りはできない。彼を外門へ送り出したのは、ほかでもない私だ。
「貸しがひとつ増えましたね、デン番兵」
それだけ早口で告げて、私は返事も待たずに踵を返した。
その夜、祈祷を終えた至聖所は、しんと静まり返っていた。
三十呼吸の残光が消え、冷気が足元を這いはじめた頃、西の木戸から小さな音がした。
ト、ト・トン。
ひとつ叩いて、少し間を置いて、続けてふたつ。初めて聞く叩き方だったのに、誰なのかはすぐに分かった。
閂を外すと、デンが身を縮めるようにして滑り込んできた。外の冷気をまとったまま手早く閂を戻し、暗がりの中で私の顔をじっと見る。
「昼間は、ありがとうございました」
「礼なら結構よ。聖女として、正当な職務評価をしただけですから」
「嘘ばっかり。『至聖所の静謐を乱すことなく』って書いたじゃないですか。僕ら、ここで無花果を引っ張り合って大騒ぎしたのに」
「あれは、不測の事態に備えた訓練の一環よ」
言い返すと、デンは喉の奥でくぐもった笑いを漏らした。
見習いの制服の右肩に下がった黄色い撚り紐の飾りが、ふと目に留まった。内門見習いの印の肩章だ。
「その黄色い芋虫みたいな紐とも、もうすぐお別れね」
「芋虫って言わないでくださいよ。これでも見習いにとっては誇りの紐なんですから」
「外門へ行けば、川門番の青い組紐になるのでしょう? そっちのほうが、あなたの日に焼けた肌には似合うと思うけれど」
「受かれば、ですけどね」
デンは肩をすくめ、胸当ての内側から、くしゃくしゃになった油紙の小袋を取り出した。
「これ、昼のお礼です。町外れの屋台で買っておいたんですけど、見回りのあいだ懐に入れてたら、すっかり冷えちゃいました」
受け取った袋の中には、焦げ茶色の焼き栗が六粒入っていた。
温もりはすっかり抜けて、石のように冷たい。それでも、どの栗にも丁寧に十字の切れ込みが入っていた。剥きやすいように、デンが自分の小刀で手を入れてくれたのだろう。
デンが私の手からひと粒取り、硬い鬼皮に親指の爪を引っかけた。
パキリ、と乾いた音がして、渋皮ごときれいに外れた黄色い実が現れる。デンはそれを、私の掌にじかに載せた。
「どうぞ。冷たくても甘いですよ」
口に運ぶ。
たしかに冷えきっていたけれど、噛みしめると、秋の終わりの土のような濃い甘みと香ばしさが舌に広がった。生姜湯のような派手さはない。喉の奥にじっくり残る、素朴で力強い味だった。
「おいしいわ」
「よかった。冷えた栗なんか押しつけて、怒られるかと思いました」
「怒るわけないでしょう。あなたが自分で皮を剥いてくれたんだから」
二粒目もデンが剥いて、また私の掌に載せる。自分では一粒も食べようとしない。
「自分でも食べなさいよ」
「僕はいいんです。あんたが食べてるのを見てるほうが、腹が落ち着く」
「変な人ね」
「変なのはお互い様ですよ。夜中に聖女様の栗を剥いてる番兵なんて、リヴィエの町じゅう探しても僕くらいのもんです」
デンは笑って、三粒目の殻を指先で器用に弾いた。
祭壇の蝋燭に照らされて、二人の影が壁に長く伸びている。
「ユッカ様」
「何?」
「試験に受かって外門に行ったら、夜はここに来られなくなります」
分かっていたことでも、言葉にされると胸がちくりと痛んだ。私は栗を噛みながら、黙ってデンの手元を見つめた。
「でも、外門の櫓の上から、至聖所の屋根が見えるんです」
デンの声は静かで、迷いがなかった。
「だから、夜番の交代の鐘が鳴ったら、川門の篝火の脇から、ランタンを二回大きく振ります。ト、ト・トン、の代わりに」
「見えるかしら。至聖所の窓は小さいのよ」
「見えますよ。あんたが天窓の点検口から顔を出せば、絶対に見える」
デンは最後の栗を剥き終えて私の掌に握らせると、大きな手で、私の拳をそっと包み込んだ。
冷えた栗の硬さと、デンの手の熱が重なる。
「だから、あんたも鈴を鳴らし終えたら、天窓から合図を返してください。持ち場が変わっても、僕らの夜食が終わるわけじゃないですから」
胸の底に溜まっていた湿った寂しさが、すうっと溶けていった。
この人は、離れるために外門へ行くのではないらしい。
「いいわ」
私はデンの掌の中で、栗ごと拳を握り返した。
「手鏡に蝋燭の光を映して、二回光らせてあげる。見落としたら承知しないからね」
「見落としませんよ。あんたの光を探すのが、僕の仕事になるんですから」
部屋に帰るなり、私は手鏡を磨いた。身だしなみのために、あれほど丁寧に磨いたことはない。




