第5話 三十呼吸の青い道
ちりん、と銀鈴の余韻が天井に消えた瞬間、私は祈祷台に膝をついたまま、深く息を吸い込んだ。
一、二、三。
頭の中で拍子を刻みながら、白い祈祷着の裾を引いて立ち上がる。いつもなら祭壇の段を降りて、緑天鵞絨の垂れ幕が揺れるのを待つところだ。
炒り豆を噛み砕いたあの夜から三日。今夜の冷え込みはひときわ厳しく、石壁の隙間から忍び込む風が足首をしびれさせていた。
七、八、九。
私は祭壇の奥、至聖所の西壁にはめ込まれた小さな樫の扉へ歩み寄った。昼間は神具の出し入れにしか使われない、鉄の閂が一本下りただけの勝手口だ。
この扉の向こうは、神殿の裏手を回る細い路地と、川門へ下りる荷揚げ場の坂に、そのままつながっている。
「ユッカ様?」
背後で垂れ幕が乱暴にめくられ、デンの低い声がした。今夜は手ぶららしい。胸当てを鳴らしながら、訝しげに眉を寄せている。
「何してるんですか、そんな隅っこで」
「十二、十三」
「は?」
「デン、閂を外しなさい」
振り返って命じると、デンは目を丸くして立ち止まった。
「閂って、その木戸の? 何言ってるんですか、夜に聖女が神殿の外へ出るのは禁制でしょう。小頭に見つかったら、落ち葉掃きどころか、半月は礼拝堂の雑巾がけですよ」
「十六、十七。いいから早く! 三十を数えたら消えてしまうのよ!」
「何が消え――あ」
デンが息を呑み、私の視線の先にある扉と、自分の爪先とを見比べた。
考えるより先に、男の足が動いた。大股の二歩で私の横に滑り込み、重い鉄の閂を掌で押し上げる。長いこと油を差されていなかった軋みが、天井まで鋭く響いた。
「怒られても、僕のせいにしないでくださいよ」
「あなたのせいよ。余計なことを教えた人がいるからでしょう」
デンが肩で木戸を押し開けた。
十月の冷たい川風が、いっぺんに二人の顔を叩いた。
夜の匂いがした。湿った川泥と、荷揚げ場に積まれた濡れ藁と、冷えきった石の匂い。閉めきった祈祷室の油煙が、あっという間に吹き払われていく。
私は敷居をまたいで、一段低い敷石に爪先を下ろした。
「あ」
声が、白い息になってこぼれた。
光っていた。
神殿の裏壁に沿って川門へ下る細い石畳が、水の底を覗き込んだときのような、澄んだ白青色の光を放っている。
ランタンの炎のように揺らぐ光ではなかった。石そのものが、昼の陽射しを水に溶かして閉じ込めたかのように、足元から静かに燐光を立ちのぼらせている。
濡れた黒い川石の輪郭も、継ぎ目に生えた苔の緑も、塩パンの晩にデンが話してくれた石の縁の影も、闇の中にくっきりと浮かび上がっていた。
「綺麗」
これが、私の祈りだった。
指先をかじかませ、空腹をこらえながら、ただ鈴を鳴らし続けていた時間が、夜の町の足元をこんなに優しく照らしていたのだ。
「言ったでしょう」
隣に立ったデンが、川風に目を細めた。
「薄い絵の具を溶かしたみたいだって。あんたが中で祈ってる間、川門の先の浮き桟橋まで、この青い道がずうっと続いてるんですよ」
「本当だったのね。あなたが適当なことを言って私を喜ばせようとしているのかと、半分疑っていたわ」
「ひどいな。僕がいつあんたに嘘をつきましたか」
「焼き葡萄の軸を隠して、お皿の見た目を整えただけだって言ったのは誰よ」
「整ってたでしょう。見た目は」
デンは鼻を鳴らし、苦笑まじりに首を振った。
ふいに、肩の上に重みと温もりが落ちてきた。
見上げると、デンが自分の番兵外套を脱いで、黙って私の肩に巻きつけていた。内門の見習いに支給される、ごわごわした暗緑色の毛織物だ。汗と、夜風にさらされた鉄の匂いが鼻先を包む。
「寒いですから。祈祷着一枚で夜風に当たる奴があるか」
「あなたが寒くなるでしょう」
「僕は下に着込んでます。それに、聖女様に風邪を引かせたら、神殿長にどんな目にあわされるか分かったもんじゃない」
「口実ばかり達者ね」
襟元をかき合わせると、内側に残っていたデンの体温が、冷えきった首筋にじわりと染みてきた。
大きすぎる裾が石畳につきそうになるのを、デンが慣れた手つきで折り返してくれる。その指先が二の腕をかすめて、二人して一瞬、息を止めた。
足元の青い光が、潮が引くように、端から少しずつ夜の闇へ溶けはじめていた。
三十呼吸が終わるのだ。
「消えちゃうわね」
「三日後に、また光らせればいいでしょう。あんたが鈴を鳴らせば」
「そうね」
光の引いていく石畳を見つめたまま、私は外套の中で拳を握りしめた。
「デン。外門の試験は、いつなの」
デンは驚いたように私を見下ろし、それから川門の方角へ目をやった。闇に沈んだ路地の先で、水門の篝火が小さく赤く揺れている。
「七日後です。二十二日の朝から」
「何をするの」
「筆記が少しと、掛金外しの早業。それから、水門の上から、流れてくる標的に縄を投げて引き寄せる実技です」
「縄投げ」
「ええ。流木や壊れた舟に見立てて、水門の急流の中で確実に引っかける試験です。三人受けて、受かるのは一人だけ」
風に吹かれるデンの横顔は、硬く引き締まっていた。見習いらしい落ち着きのなさが消えて、船着き場で泥水に飛び込んだときと同じ、張りつめた男の顔になっている。
三人受けて、一人。
彼がどれほどその一席を欲しがっているかは、階段の踊り場で鍵を磨いていたあの手つきを見れば分かる。受かれば、彼は正規の番兵として、あの篝火のもとへ行く。垂れ幕をめくって、笑いながら塩パンを差し出してくれる夜は終わる。
胸の奥を、冷たい風が吹き抜けた。それをごまかしたくて、私はわざと眉を吊り上げてみせた。
「流れてくるのが塩パンだったら、あなた、一等でしょうね」
「やめてください。縄より先に手が出ます」
「試験官に言っておいてあげましょうか。この見習いは、標的をパンにすると見違えるように速くなりますって」
「絶対にやめてください!」
デンが本気で嫌そうな顔をして頭を抱えたので、私は堪えきれずに声を立てて笑った。
笑い声を夜風がさらっていく。デンは恨めしそうに私を睨んでいたが、私がいつまでも笑っているのを見るうちに、根負けしたように太い眉を下げて破顔した。
「本当に性格が悪いな、あんたは」
「聖女に向かって何てことを言うの」
「聖女様が夜中に番兵をからかって大笑いしてるほうが問題でしょうが」
言い合ううちに視線がぶつかって、ふっと笑みが引いた。
足元の石畳は、もうすっかり元の冷たい黒い敷石に戻っていた。闇が戻り、川の低い水音だけが耳を満たしている。
近い。デンの息が、私の額にかかるほど近かった。
外套の隙間から入り込む冷気が、触れそうで触れない互いの距離を際立たせる。デンが何か言いかけて口を半ば開いたとき、神殿の回廊の奥で、カツン、と巡回交代の靴音が響いた。
「戻りましょう」
デンが小声で言った。
「ええ」
私たちは木戸をくぐり、至聖所の暗がりへ滑り込んだ。
デンが手早く閂を下ろす。ガチャン、と重い音がして、夜風と川の匂いがぴたりと遮られた。
私は外套を脱いで、両手で抱えてデンに返した。布地には、私の祈祷の香と、デンの体温が混ざり合って残っている。
「デン」
「はい」
「絶対に受かりなさいよ」
今度は、冗談をひとかけらも混ぜずに言った。
デンは外套を受け取り、暗がりの中で、まっすぐに私を見つめ返した。その目の奥に、確かな熱が宿っていた。
「言われなくても。あんたの青い道を、いちばん上から見張ってみせますから」
木戸を閉めても、私はまだあの敷石の縁を、靴の裏に探していた。




