第4話 日なたの背中と川の底
第二聖女の正装の白衣は、秋の風をはらむと帆のように重く膨らむ。
十月半ばの昼下がり、私は上級神官に先導されて、川門の隣の第一船着き場へ向かっていた。冬の渇水期を前にした、川筋の安全祈願だ。真鍮の水差に入れた聖水を杉の小枝で跳ね上げ、荷揚場と船着き板を清めていく。
町の人々は足を止め、頭を垂れて祈りの言葉を迎えた。
「ありがたや、ユッカ様」
「冬も無事に船が出せますように」
声をかけられるたびに、私は背筋を伸ばし、わずかに顎を引いて微笑みを返す。
儀礼用の手袋の中で指先は強張っていたが、顔には静かな聖女の笑みを貼りつけておかなければならない。それが私の務めであり、町の人が求める「光を祈る娘」の形だった。
祈祷の列が船着き場の中ほど、荷揚げ用の木組の前にさしかかったときだ。川面から怒声が上がった。
「綱を引け! 杭から外れてるぞ!」
「無理だ、流れが速すぎる! 舳先が割れるぞ!」
上流から材木を運んできた平底舟が、係留の輪を外れて、岸壁へ真横に流されていた。水門の近くは引き波が強い。舟が横腹から岸にぶつかれば、材木を留めた鉄鎖が弾け飛んで、荷揚げの人足ごと薙ぎ払う。
神官たちが息を呑み、信徒の列がざっと後ずさった。
その人垣を割って、泥はねの上がった革鎧が飛び出してきた。
「そこを退け!」
デンだった。
見習いの短槍を木組へ投げ捨てるなり、迷わず岸壁の縁から浅瀬へ飛び降りる。濁った川水が腰の高さまで跳ね上がり、しぶきが私の足元まで届いた。
デンは舳先から垂れた濡れ綱を素手で掴むと、それを左腕にひと巻きし、太い丸太の係留杭に肩を預けて全体重で踏ん張った。
きりきりと麻が軋む。杭と胸当てが擦れて、鈍い音を立てた。舟に引かれてデンの爪先が泥を抉り、ぐっと沈み込む。
「舵を切れ! 川下へ向けろ!」
喉が裂けそうな叫びだった。夜の至聖所で「腹が減った」と笑っていたのと同じ男の声とは思えない。鋭く、低く、濁っていた。
船乗りが青い顔で舵棒を蹴り込む。舟の腹が岸壁の丸太に鈍くぶつかり、しぶきを上げて止まった。
「よし、今だ、舫いを取れ!」
荷揚場の男たちが一斉に駆け寄り、予備の太綱を投げ落とす。
危険が去ったのを見届けると、デンは濁った水から重そうに足を引き上げ、石段に腰を落とした。左の肘のあたりから血が滲み、胸当ては川泥と藻屑にまみれていた。
あちこちから歓声と安堵のため息が漏れる中、上級神官が「見苦しい騒ぎだ」と眉をひそめ、足を早めようとした。
私は立ち止まった。
神官の手をすり抜け、石段の脇で肩を上下させているデンの前へ進み出る。
デンが顔を上げた。額に張りついた泥まじりの黒髪の間から、鋭い目がまっすぐに私を捉える。
けれど、私が見ているのは至聖所の床で焼き林檎をつついていたデンで、彼が見ているのは何千人もの信徒を率いる第二聖女だった。
デンは荒い息を呑み込み、泥だらけの右手を胸に当てて、深く頭を垂れた。
「神殿の御前をお騒がせいたしました、ユッカ聖女様」
他人としての、完璧な礼節だった。
私は杉の小枝を水差に浸し、彼の濡れた肩口の上で静かに振った。
清めの雫が、泥で汚れた首筋に落ちる。
「神の加護が、町の門を守る者の腕にあらんことを」
それだけを告げて、私は踵を返した。振り向くことは許されていなかった。
その夜、子の刻の鐘が鳴りやんだ至聖所は、昼の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。
垂れ幕が音もなく揺れ、デンが現れた。昼間の泥はすっかり洗い落としてあったが、左の肘から手首にかけて、真新しい晒し布が何重にも巻かれている。
いつものように無造作に腰を下ろすかと思えば、デンは私の前で突っ立ったまま、照れくさそうに頭を掻いた。
「昼間は、どうも」
「腕、見せなさい」
「え?」
「見せなさいと言っているの」
手を伸ばすと、デンは気圧されたように左腕を差し出した。
布の上からそっと触れる。熱を持っていたが、骨は折れていないようだった。
「綱を腕に巻いたでしょう。馬鹿なことをするものじゃないわ。舟ごと川へ引きずり込まれたら、どうする気だったの」
「あれしか手がなかったんです。杭に二巻きする暇がなかったから」
「あなたが怪我をしたら、外門の試験はどうなるの」
責めるような口調になった私を、デンは怒りもせず、丸い目で見つめ返した。
「心配してくれたんですか」
「見習い番兵に欠員が出たら、神殿の警備の割り振りが狂うからよ」
「素直じゃないな、ユッカ様は」
デンは笑って、怪我をしていないほうの手で懐から油紙の包みを取り出した。
「ほら、約束のやつです。腹にたまるやつ」
開いた包みには、香ばしい匂いの炒り豆が山盛りになっていた。塩を振った大豆に、干し肉の細切れが少し混ぜてある。
「顎を使うから、腹が紛れるんですよ。どうぞ」
差し出された掌から、私は豆を二粒つまんだ。噛みしめると、しっかりした塩気の奥から大豆の甘みがにじみ出てくる。
デンも何粒か口に放り込み、がりがりと小気味のいい音を立てた。
「昼間のあんた、すごかったですね」
「何がよ」
「白い服着て、枝を振ってるとき。なんていうか、本当に神様の使いみたいで、声もかけられないくらい遠く見えましたよ」
「当たり前でしょう。あれが私の仕事よ。あなたが泥だらけで舟を止めていたのと同じ」
「僕のは仕事っていうか。体が勝手に動いただけです」
デンは豆を転がす手を止め、天井へ視線をさまよわせた。
「川が、怖いんですよ」
ぽつりとした呟きだった。
「十のとき、親父の舟に乗ってて、夜の増水に巻き込まれたんです。川門のずっと上流の、灯りも何もない真っ暗なところで、舟が岩にぶつかってひっくり返って」
私は息をひそめて、デンの横顔を見つめた。
「水の中って、上も下も分からなくなるんです。真っ暗で、冷たくて、息を吸おうとしても泥水しか入ってこなくて。親父が僕の襟首を掴んで岸へ放り投げてくれたから助かりましたけど、親父はそのまま流されて、見つかりませんでした」
震えそうになる指先を隠すように、デンは膝の上で拳を握った。
「夜の川の暗闇って、全部を呑み込むんです。だから門番になるなら、あの暗闇を照らす場所に立ちたいって、ずっと思ってました。光が届いて、誰かが綱を握っていれば、夜の舟は沈まずに済む。あんたの祈りで敷石が光るのを見たとき、本気で思ったんですよ。この光の届くところで門番をやりたいって」
胸が、ぎゅっと痛んだ。
彼が外門を目指すのは、手柄や給金のためだけではなかったのだ。
私が腹を空かせて鳴らしていた鈴の光は、この人の中に残る十歳の夜の暗闇まで、届いていたらしい。
「デン」
私は手の中の炒り豆を彼の掌に戻し、その傷だらけの指を、両手で包み込んだ。
儀礼用の手袋は、とうに外していた。私の素肌の熱が、彼の硬い皮膚に伝わっていく。デンがびくりと肩を揺らしたが、手を引こうとはしなかった。
「あなたのその腕は、今日、舟と人をちゃんと救ったわ」
「ユッカ様」
「試験、絶対に受かりなさい。あなたが門の上に立つなら、私はどんなにお腹が減っていても、どんなに寒くても、夜の底まで届くように鈴を鳴らし続けてあげる」
デンはしばらく、私の手を見つめていた。それからゆっくり顔を上げて、噛みしめるように笑った。
「約束ですよ、それ。受かったら、最初の夜番明けの朝、門の上からあんたに手を振りますから」
「ええ。至聖所の天窓から、見届けてあげるわ」
話し終えても、私はまだ彼の手を握っていた。気づいたのは私が先で、放したのはデンが先だった。




