第3話 灰の下の林檎と研ぎ石
神殿の裏手の厨房には、川舟で届いたばかりの林檎が十箱、積み上げられていた。
昼過ぎの陽射しが、湯気を斜めに貫いている。籠を抱えた私を見つけて、料理番の古株の修道女が丸い顔をほころばせた。
「ユッカ聖女様、お供えの選り分けかい?」
「ええ。傷がついて日持ちしないものがあれば、聖女の部屋へ下げてよいと神殿長からお許しをいただいているので」
「あるともさ。今年の赤林檎は蜜が多いぶん皮が薄くてね。荷揚げでぶつかったのが幾つか弾けてるよ。好きなのを一つ二つ、持っておいき」
私は木箱の前にしゃがみ込み、ひとつずつ手に取って重みを確かめた。
選んだのは、頭の形は少しいびつだけれど、肌が濃い小豆色に染まって、持った瞬間に手首が沈むほど重い実だった。
厨房の隅の竈では、昼の煮炊きを終えた灰がまだ赤い熱を抱えている。料理番が鍋を洗いに出た隙に、私は林檎を濡らした油紙と布で包み、火箸で灰のいちばん深いところへ埋めた。
夕方に掘り出したら、布にくるんで懐に入れておこう。人肌くらいのぬくもりなら、夜まで保つはずだ。
塩パンを押しつけてきたあの男が、今夜は生姜湯を持ってくる。口を開けて待っているだけでは、どうにも格好がつかない。私にだって、何か温かいものを渡す権利くらいはあるはずだった。
深夜、祈りの鈴を鳴らし終えた至聖所に、乾いた音が届いた。
シュッ、シュッ、と硬いものを擦り合わせる、規則正しい音だ。
緑の垂れ幕を押し分けて裏の狭い階段を覗くと、デンが踊り場に胡坐をかいていた。膝に砥石を載せ、油を垂らした布で何かを磨いている。夜番が腰に提げる鉄の鍵束と、川門の開閉に使う小型の掛金外しだった。
「デン?」
声をかけると、男の肩がぴくりと跳ねた。
「あ、ユッカ様。もう鈴、鳴りました?」
「とっくに鳴ったわよ。何をしているの、そんなところで」
「道具の手入れです。外門の夜番試験、今月に決まったんですよ。実技で鍵と掛金の早外しがあるんですけど、見習いに回ってくる道具は前の奴の汗と脂で錆びついてて、動きが渋いんです」
デンは鉄具を布で拭い、鍵の歯の噛み合わせを灯りに透かした。その横顔からは、供物をくすねて笑っていたときの呑気さがすっかり消えている。油で汚れた長い指が、迷いなく動いていた。
この男は本気で外門へ行こうとしている。外門へ移れば、夜の至聖所を見回る役目からは外れるはずだ。
「真面目なのね、案外」
「案外は余計ですよ。これでも食い扶持がかかってますから」
デンは苦笑して道具を革袋にしまうと、床に立ててあった真鍮の水筒を手に取った。
「はい、これ。約束のやつです」
ずしりと重い水筒が手に渡される。革の吊り紐まで温かかった。
「厨房の婆さんに頼み込んで、干し生姜と蜂蜜をたっぷり煮出してもらいました。胃袋が焼けそうなくらい熱いですよ」
「ありがとう。ちょうど喉が張りついていたの」
私は水筒を抱えて、デンの横に半歩ぶん空けて腰を下ろした。
「デン、あなたも手を出しなさい」
「え?」
私は懐から油紙の包みを取り出した。
「私も、持ってきたの」
包みを開くと、真っ黒に焦げた皮の林檎が転がり出た。灰の中で蒸し焼きになった果肉は、持ち上げただけで崩れそうなほど柔らかい。懐で温めておいたおかげで、ほんのりと人肌のぬくもりが残っていた。
デンは目を見張り、水筒と林檎を交互に見比べた。
「嘘だろ」
「何よ。形は悪いけれど、ちゃんと蜜の入った実を選んだのよ。灰に埋めて焼いただけだから、神殿の炭は無駄遣いしていないわ」
「いや、そうじゃなくて」
デンは腰袋をごそごそと探り、小さな木匙を二本と、油紙の包みをもうひとつ引っ張り出した。開いた紙の上には、薄切りにして蜜で煮た林檎が、几帳面に三枚並んでいた。
「それ、何?」
「生姜湯だけじゃ腹にたまらないと思って、厨房で煮林檎を三切れもらってきたんです。水筒に浮かべて飲もうと思って」
私の膝には、生姜湯の水筒と、丸ごと焼いた林檎。
デンの掌には、煮林檎が三切れ。
「どれだけ林檎が好きなのよ、私たち」
私が呟くと、デンがこらえきれずに吹き出した。肩を揺らし、膝を叩いて、声を殺して笑っている。
「あんたが焼いてくるなんて思わないじゃないですか! 聖女様が竈の灰をほじくってる姿なんて、誰が想像できますか」
「笑わないで! あなたこそ、道具の手入れなんて真面目な顔をして、裏でせっせと林檎を掠め取っていたんじゃないの!」
「掠め取ってません、婆さんの肩を叩いた駄賃です!」
言い合いながら、私も笑ってしまった。二人分の笑い声が、狭い階段の壁に跳ね返って重なる。
「生姜湯が冷めないうちに食べましょう。ほら、匙」
渡された匙は、使い込まれて角の丸くなった白樺だった。
焦げた皮の真ん中に、二人で両側から匙を差し込む。
ぷすりと崩れた果肉は、黄金色の餡のようにとろけていた。すくって口に運ぶ。
濃い果汁の奥から、灰の熱で閉じ込められた酸味が追いかけてきた。
「うまっ」
デンが匙をくわえたまま唸った。
「うまいですね、これ。焦げた皮の苦みがちょうどいい。兵舎の親父のパイより、ずっとうまい」
「そう? 少し崩れすぎたかと思ったけれど」
「崩れてるくらいのほうが、匙ですくいやすくていいんです」
デンが二匙目を伸ばした。私も同じところを狙っていたらしく、林檎の真ん中で、かちん、と木匙同士がぶつかった。
顔を見合わせて、また笑う。
私は水筒の蓋を開けて、湯気を吸い込んだ。
生姜の鋭い香りと、蜂蜜のまろやかな甘みが鼻に抜ける。ひと口含むと、喉を滑り落ちる熱が、縮こまっていた胸を内側から押し広げていった。
「生き返るわ」
「でしょう。林檎を浮かべなくても、これだけで十分甘いな」
デンは煮林檎の薄切りを、三枚まとめて私の匙の上にぽんと載せた。
「あんたが食べなよ。灰の掃除、大変だったろ」
「ありがとう」
蜜煮の林檎は、生姜湯の熱を吸って柔らかくほどけた。
デンは匙を動かしながら、手元の鉄具に目を落とした。
「外門に行ったら、夜は川風がまともに吹きつけるんですよ。これからの季節、雪混じりの風が吹くと、鍵穴が凍りついて回らなくなるんです」
「そうなの?」
「ええ。だから油を引いて、手のひらで温めながら回すんです。でも、門の上から川を見下ろすと、水門の向こうまで敷石がずうっと光ってて、近づいてくる小舟の舳先が、暗闇の中に白く浮き上がって見えるんですよ」
デンの目が、手入れを終えた鍵の先に向けられた。
「見習いの巡回で一度だけ、先輩の交代で外門の上に立たせてもらったことがあるんです。そのとき川の上から見た敷石の光が、本当に綺麗で」
そこで言葉を切って、デンは私の顔を見た。
「あんたがここで一人で鈴を鳴らしてる光が、あんな遠くまで届いてるんだって、そのとき初めて知ったんです。だから、外門の試験、受かりたいんですよね」
彼が外門へ行ってしまえば、この狭い階段で夜食をつつき合う夜はなくなる。
「受かりなさいよ」
私は匙で、林檎の最後の皮をこそげ落とした。
「受かって、門の上から見張りなさい。私が腹を空かせて鳴らした鈴の光が、どれくらい役に立っているのか、あなたが一番近くで見届けてちょうだい」
デンは驚いたように目を見張り、それから笑った。
「言われなくても、そうしますよ。ユッカ様」
「何よ」
「その代わり、試験が終わるまでは、あんたの当番の夜にはここへ来ますから。次はいつですか」
「三日後の、同じ時間よ」
「了解。次は、もっと腹にたまるやつを仕込んできます」
デンが立ち上がり、道具袋を肩に担いだ。
背を向けて歩き出しかけた彼は、振り返らないまま、片手をひらりと振った。
緑の幕が下りる。
私は空になった真鍮の水筒を両手で抱えて、蓋をきゅっと閉めた。




