第2話 欠け石の影と塩の粒
三日前のあの夜、垂れ幕の陰で私とデンの腹が地鳴りのように鳴ったとき、小頭は舌打ちをして「また野良猫が入り込んだか」と呟き、それきり至聖所の扉を閉めて立ち去った。
猫に間違えられたのだ。成人した聖女と、大柄な番兵が。
あれから三日。また私の祈祷番の夜が来た。
祈祷台から立ち上がり、銀鈴を一度だけ鳴らす。澄んだ音が堂内に広がり、天井に吸い込まれていった。胸の前で重ねていた指をほどいて、長く息を吐く。
祈りが終わった瞬間から、川門の敷石に宿った青白い光は、三十呼吸をかけて消えていく。
その呼吸を心の中で数え終えるか終えないかのうちに、祭壇の裏の垂れ幕がさやさやと鳴った。
「ユッカ様」
幕の隙間から顔を出したのは、デンだった。
今夜は兜をかぶっておらず、寝癖の残る頭に革の胸当てという格好だ。肩幅のせいで垂れ幕を大きくめくり上げてしまっているのがいかにも間抜けで、私は唇を引き結んで笑いを堪えた。
「表の扉は開いていたでしょうに。どうして幕の後ろから出てくるのです」
「表から入ると、床に靴音が響いて小頭に見つかりやすいんですよ。裏の点検口から入るほうが、足音を消せるんです」
言いながら、デンは長い脚を器用に折り畳んで床に座り込んだ。冷たい石の床にためらいなく腰を下ろすあたり、やはり兵舎暮らしの男だ。
「それで? 今夜も供物を盗りに来たのですか」
「人聞きが悪いな。今夜は僕が持ってきたんです。ほら」
デンが胸当ての内側から取り出したのは、油紙の包みだった。ほんのりと温かいらしく、焼けた小麦の匂いがふわりと漂う。
「パン?」
「兵舎の窯で夕方に焼いた塩パンです。無花果みたいに甘くはないですけど、腹にはたまりますよ」
油紙を開くと、私の握り拳よりふた回りも大きな、丸々としたパンが転がり出た。表面には粗い岩塩の粒が白く浮き、こんがりときつね色の焼き目がついている。
「兵舎のパンをくすねてきたのですか」
「くすねてないです! 僕の夕飯の分を取っておいて、詰所の火鉢で炙り直してきたんです」
「無花果の半分のお礼のつもり?」
「それもありますけど。あんたが祈りのあと、いつも寒そうに肩をすくめてるから」
そこまで言って、デンは口をつぐみ、気まずそうにパンへ目を落とした。耳の端がかすかに赤い。
「いただくわ。割ってちょうだい」
「はい」
デンが太い親指をパンの真ん中に突き立てた。ぱきり、と皮の割れる音がして、白い湯気がひと筋立ちのぼる。
ところが、不器用な手つきのせいで、パンは綺麗に半分にはならなかった。七対三ほどに偏って千切れてしまったのだ。
デンは一瞬だけ眉を寄せ、迷わず大きいほうを私の前に差し出した。
「どうぞ」
「デン」
「なんですか」
「あなたが大きいほうを取りなさい」
「嫌ですよ。あんたにあげようと思って持ってきたんですから」
「あなたのほうが身体が大きいし、夜風の吹き抜ける門に立っているのでしょう。お腹が減るに決まっています」
「三日前にあんな立派な腹の音を鳴らしたくせに、よく言いますよ」
デンは私の手を取ると、大きいほうのパンを強引に握らせた。
夜風に当たってきたはずなのに、彼の手は私の指先よりずっと分厚くて温かい。指の付け根の硬い豆が、私の掌をこすった。
「意地っ張りね」
「お互い様です」
デンは笑って、小さいほうのパンを口に放り込んだ。
私も諦めて、両手で持ったパンの端に小さくかじりついた。
表面の皮が砕け、中の柔らかい生地がふわりと戻る。岩塩の強い塩気が、噛むほどに小麦の甘みを引き出してくる。温もりが唇から舌へ、喉を通って腹の底へと落ちていった。
「おいしい」
「でしょう。兵舎のパン焼き番の爺さん、腰は曲がってますけど腕だけはいいんです」
頬を膨らませて満足そうなデンを見ているうちに、祈りのあとに残るあの三十呼吸のことが、ふと頭をよぎった。
「ねえ、デン」
「ん?」
「外の敷石は、本当に光っているの?」
デンは噛むのをやめて、不思議そうに私を見た。
「見たことないんですか? 自分で光らせてるのに」
「夜に聖女が神殿の外へ出るのは禁じられているもの。祈りが済んだら、回廊を通って自分の部屋へ戻るだけ。光っているうちに外の道を見られるはずがないわ」
「光ってますよ」
デンは残りのパンを飲み込むと、膝を抱え直して、薄暗い天井を見上げた。
「水の底に、薄い青の絵の具を溶かして流したみたいに光るんです。ランタンみたいに目が眩まないから、足元を見るのにちょうどいい」
「そう」
「三日前、ここへ来る途中で見たんですよ。川岸の第二倉庫の船着き場で、毛織物を積んだ荷車を押してる爺さんがいて。あそこの道、係留杭の手前に、角の欠けて窪んだ敷石がひとつあるでしょう」
私は首を横に振った。神殿の外の道なんて、昼に信徒の列の間を歩くくらいで、石の欠け方まで知るはずがない。
「昼間でもみんなが躓く、嫌な欠け石なんです。でもあの夜は、ユッカ様の祈りで敷石が光ってたから、その窪みにくっきり黒い影が落ちてたんですよ」
デンの話しぶりは淡々としていた。
「爺さんは立ち止まって、『おお、危ねえ危ねえ。今夜の光は足元がよく見えるな』って、車輪をうまく脇へよけて通っていきました。そのあと川船の若い棹差しが、荷綱を解きながら『今夜の聖女様は祈りが澄んでるな』って笑ってましたよ」
欠けた石の、黒い影。
暗い部屋で腹を空かせて唱えていた祈りの先に、そんなものが生まれていたなんて。
「澄んでる、なんて。私、お腹を空かせて、早く無花果が食べたいとばかり思っていたのに」
「それでいいんじゃないですか」
デンはあっけらかんと言った。
「爺さんの荷車がひっくり返らなかったのは本当のことですから。僕だって夜番の途中で足元が青く光りだすと、『ああ、聖女様が今夜も文句言いながら祈ってるな』と思って、ちょっと気が楽になりますし」
「文句なんて言っていません」
「言ってますよ。背中からそういう気配が出てます」
「失礼な人」
私は最後のひとかけらを口に放り込み、わざと乱暴に噛み砕いた。岩塩の粒が奥歯でぱちんと弾けて、急に喉が渇く。
「おいしかったわ。塩パン」
「それはよかったです」
「でも」
懐から手巾を出して指先を拭いながら、私は澄ました声を作った。
「塩が効きすぎていて、喉が渇いたわ」
「え?」
「兵舎のパン焼き番のお爺さんに伝えてちょうだい。もう少し塩を控えてくれないと、祈祷の途中で声が嗄れてしまうと」
「いや、これは僕の夜食用だから、あんたの祈祷とは関係ないんじゃ」
「関係あります」
私はデンをまっすぐに見据えた。
「三日後は、また私の祈祷番です。その夜あなたが手ぶらで来たら、私は喉が渇いて、敷石を光らせられないかもしれません。だから」
小さく咳払いをして、私は続けた。
「次は、何か温かくて、喉を通る飲み物を持ってきなさい。欠けた石の影を教えに来た見張り番の役目です」
デンは目を丸くした。それから何度か瞬きをして、太い眉をふにゃりと下げた。
「分かりました。厨房の婆さんに頼んで、生姜の蜜湯でも水筒に詰めてきますよ」
「頼み込まなくてもいいわよ。くすねてくるだけで」
「聖女様が番兵に泥棒をけしかけないでください」
デンが吹き出し、私も笑った。
祭壇の蝋燭が小さく爆ぜて、壁に映った二人の影を揺らしている。
「じゃあ、三日後の同じ時間に」
「ええ。待っているわ」
油紙を几帳面に畳み直すデンの指先を見つめながら、私は短く頷いた。




