第1話 真夜中の無花果は二つに割れる
干し無花果の蜜漬けは、皿のいちばん外側にある大粒から皮が裂けて蜜が滲む。
祈祷台に額をつけて最後の一句を唱えながら、私はその一粒のことを考えていた。昼に果樹園の親父さんが置いていった銀皿だ。
ちりん。銀鈴を置く。これで深夜の務めはおしまい。
鈴がやんでも、川門の敷石には三十呼吸ほど青い灯りが残るそうだ。
灯した私が「そうだ」としか言えないのは、床に膝をついているかぎり、天井近くの点検窓から道など見えないからだ。私はまだ一度も、自分の灯りの上を歩いたことがない。
おまけに、祈ると腹が減る。
夕餉の堅い干し魚と麦粥は、二刻前に祈祷を始めた頃にはもう跡形もなかった。
扉の向こうをうかがう。足音は遠い。祭壇を二段上がり、皮の裂けた無花果をひょいとつまんだ。
持ち上がらない。
祭壇の裏、緑の幕から伸びた男の指が、実の反対側をつまんでいた。
「ひっ」
「うわっ」
垂れ幕の裾が揺れ、隙間から見覚えのある革の胸当てが現れた。肩幅ばかりが無駄に広く、背丈を持て余したような若い男だ。名をデンといったはずだ。神殿の内門警備に配属されてまだ半月も経たない、見習い番兵のひとりである。
デンは丸い目をこれ以上ないほど見開き、無花果の端をつまんだまま固まっていた。
「ユ、ユッカ聖女様?」
「あなた、何をしているのです」
私は指先に力を込め、無花果を自分の側へ引き寄せようとした。相手の指は岩のように動かない。
「それを言うなら、聖女様こそ何をなさっているんですか。こんな真夜中に、供物の皿の前で」
「神前のお供えに傷みが出ていないか、指先で触れて確かめていたのです」
「嘘ばっかりだ。いま口が半分開いてましたよ。唾を飲み込む音がここまで聞こえました」
「失礼な言いがかりはやめなさい! だいたい、見習い番兵がなぜ至聖所の幕の後ろなんかに潜んでいるのですか。持ち場は内門の詰所でしょう!」
「見回りの順路ですよ。帳簿に『異常なし』の印を押すために回ってきたんです。ただ、その」
デンは視線を泳がせ、太い眉を八の字に曲げた。
「ただ、何です」
「昼からずっと川風に当たってて、夕飯の黒パンが石みたいに硬くて、腹が減って目が回ってたんです」
白状する口元は情けなく歪んでいる。それなのに、無花果をつまむ指だけは毛ほども緩まない。私は鼻先で小さく息を鳴らした。
「見苦しい言い訳ですね。神聖なお供えに手をつければ、見回りの小頭にこっぴどく叱られて、礼拝堂の床拭きを三日は言いつけられますよ」
「聖女様だって同じじゃないですか。神殿長に知れたら、朝の講話で一刻みっちり説教されて、庭の落ち葉集めですよ」
「私は聖女です。落ち葉集めなんて」
「やりますよ、あんたは。だいたい先週、蜜柑の干し皮を燭台の隙間にぎゅうぎゅう押し込んで隠したの、あんたでしょう」
心臓が跳ねた。
「な、何を根拠にそのような」
「皮を小さくちぎって、四角く畳んで突っ込む癖があるのはあんただけです。翌朝の見回りで火皿を掃除したとき、僕が煤まみれになって掻き出したんだから間違いありません」
「あれは! 捨てる場所が遠かったから、ひとまず置いただけです!」
「置いたまま忘れてたんでしょうが。僕が黙ってごみ焼きの竈に放り込んでなきゃ、神殿長に見つかってましたよ」
「あなたこそ、焼き葡萄の軸を林檎の葉の下に隠すの、ずいぶん上手になったわね」
「あれは、お皿の見た目を整えただけです」
お互い、よく見ていたものだ。
「だとしても、これは私がいただきます。あなたは内門へ戻って、冷めた白湯でも飲んで寝なさい」
「嫌ですよ! ここまで見つかって手ぶらで帰れるわけないでしょう! 半分にしましょう、半分に!」
「蜜が垂れるでしょうが! 大理石に染みができたら、明日の掃除で擦るのがどれだけ大変か知っているのですか!」
「僕が下で受けますから! ほら、引っ張らないで、皮が裂ける――」
二人同時に力が入った。
ぷつり、と小気味のいい音がして、干し無花果がちょうど真ん中で千切れた。
私の指先には軸のついた上半分が、デンの指の間には蜜の溜まった下半分が残る。
黄金色の果肉から透明な蜜が糸を引き、デンの手の甲にぽたりと落ちた。
「あ」
「あ」
デンが親指で蜜をすくい、ぱくりと吸った。一滴も床に落とすまいとする真剣な顔に、私は思わず下を向いた。
「笑わないでください。貴重な蜜なんですから」
「行儀が悪いと言ったのです」
「聖女様だって、指に蜜がついてますよ」
言われて見ると、人差し指の腹に甘い汁が光っていた。見られていては舐めるわけにもいかず、手提げの麻布でそっと拭う。
デンは手の中の半分を惜しむように眺めてから、ひと思いに口へ放り込んだ。もごもごと頬を動かし、目を細めて喉を鳴らす。
「うまい。死ぬかと思った」
「大げさな人ですね」
私も背を向けて、残りの半分を口に入れた。
噛んだ途端、濃い甘みと果実酒の香りが口いっぱいに広がった。乾いた喉に蜜が染みていく。
しばらく二人とも、祭壇の前で黙って口を動かしていた。
振り向くと、デンが満足しきった顔で胸当ての留め金を緩めている。昼間に見かけるときはいつも兜のつばを深く下げて仏頂面をしているのに、今は腹を空かせた大きな子どもにしか見えない。
「おいしかったですね」
デンが小声で言った。
「ええ。とても」
「神殿長には、鳥が突いたとでも言っておきますか」
「神殿のどこから鳥が入ってくるというのです。窓は全部閉まっているのに」
「じゃあ、乾いて弾けたとか」
「干し無花果が勝手に弾けるわけがないでしょう」
デンが吹き出した。肩を揺らして笑う姿につられて、私も袖で口元を押さえ、小さく声を漏らした。
そのときだった。
カツン、カツン。
回廊の奥、西の渡り廊下から、革底の靴が石を打つ音が近づいてきた。夜回りの小頭だ。鍵束の擦れ合う音まで聞こえる。
「しまっ――」
デンの顔から笑みが消えた。
「こっちです!」
私はデンの袖を掴み、二人で緑の幕の裏に滑り込んだ。石壁と祭壇の隙間は、ひとり分の幅しかない。鼻のすぐ先で、革の胸当てが上下していた。デンが幕の端を引く。真っ暗になった。
革と羊毛の匂いに、さっき飲み込んだばかりの無花果の甘い香りが混じる。
表の扉が、ぎいと重たい音を立てて開いた。
「ん? 誰かいるのか」
小頭の低く嗄れた声が、至聖所に響いた。
ランタンの光が幕の織り目を透かして、足元をぼんやりと照らす。靴音が祭壇の前まで来て、止まった。
私は息を止めた。デンも胸板を固くして、身じろぎひとつしない。
小頭は祭壇の上をひと通り見回したらしい。やがて短いため息とともに靴音が向きを変え、扉のほうへ遠ざかっていった。
助かった、と思ったその瞬間だった。
ぎゅるるるるる。
静まり返った至聖所に、情けないほど長く、重々しい音が響き渡った。
私の腹だった。
半分きりの無花果は、腹の虫を起こしただけだったらしい。
ぐうう。
返事をしたのは、デンの腹だった。
「っ!」
デンが両手で自分の腹を抱え込み、必死に口元を引きつらせた。
扉の手前で、遠ざかりかけていた靴音がぴたりと止まる。
「おい。今、奥で何か鳴らなかったか?」
ランタンの光が、またこちらへ向き直った。
幕の陰の狭い暗闇で、私とデンは互いの口を手で塞ぎ合い、目を見開いて息を殺した。笑いが喉までせり上がってくるのを押し戻し、腹の虫を力ずくで黙らせようと肩を震わせる。
掌の下で、相手の唇と吐息の熱さがじかに伝わっていた。




