第14話 朝霧の箒と外套のポケット
神殿前広場の敷石には、一面に霜が降りていた。
十一月三日、夜明けの鐘まであと半刻。明日はここに、朝から大祭の露店が並ぶ。
白く立ちこめる朝霧の中で、サッ、サッ、と二本の竹箒が乾いた音を立てている。神殿長に命じられた三日間の合同労役も、今朝で二日目だった。
箒を握る前に、二人で至聖所の祭壇に無花果を一皿供え直してきた。今度の皿は、一粒も欠けずに祭壇の上に載っている。
隣では、デンが長い腕を大きく振るって、欅と銀杏の濡れた落ち葉を手際よく一か所へ掃き寄せていた。右肩の青い組紐が、体を動かすたびに朝露を弾いて揺れる。
広場の向こう、神殿の通用門のあたりで、ざわめきが起きた。
霧の中から、番兵二人に両脇を挟まれた男が出てくる。白衣ではなく、ごわごわした麻の上着を着せられ、手首は縄で前に括られていた。
後ろからは、家財を山と積んだ荷車がきしみながらついてくる。売りに出される、彼の家の衣装箱や寝台だ。
ハルムだった。
帳簿を洗い終えて、今朝、町の役所へ引き渡されるのだと聞いていた。
露店の骨組みを運んでいた商人たちが、手を止めて振り返る。
「あれが、大祭の壺を売り飛ばした神官か」
「供物まで売ってたんだと。それを新任の番兵さんになすりつけようとしたって」
「三十年も神殿にいて、よくもまあ」
ひそひそ声が、霧の中で次々に広がっていく。ハルムは背中を丸め、縄の掛かった手で顔を隠そうとしたが、縄が短くて頬まで届かない。
材木を担いでいた男が一人、荷を下ろして前に出た。嵐の夜、デンが濁流から引き上げた船宿の主人だった。
「おい、神官さんよ。あんたが盗人呼ばわりした番兵はな、俺の命の恩人だ」
主人は吐き捨てるように言って、ハルムの足元の敷石に唾を吐いた。
ハルムの顔が、くしゃりと歪んだ。
霧の向こうに、私たちの姿を見つけたのだろう。ハルムは番兵の手を振りほどこうと身をよじり、霜の降りた敷石に、どさりと両膝をついた。
「せ、聖女様! ユッカ様!」
膝で這うようにして、こちらへにじり寄ってくる。冷たい霜が麻の上着に染みて、膝のあたりがみるみる黒く濡れていった。
「お慈悲を、どうか、お慈悲を! 神殿長様にひと言だけ、口添えを! この歳で家を失っては、私は、私はもう、どこにも」
すがるように伸ばされた手は、縄に引かれて途中で止まった。
私は箒の柄を握ったまま、その手を見下ろした。
「私が口添えをしたのは、正直な番兵の願書、一枚きりです」
それだけ言って、私は落ち葉に向き直った。
デンは、一度もハルムに目を向けなかった。ハルムの膝の前に溜まっていた落ち葉を、箒の先で黙って脇へ掃き寄せただけだった。そこに誰もいないかのように。
番兵たちがハルムを引き起こした。呻きとも泣き声ともつかない声を漏らしながら、元倉庫番は荷車と一緒に、霧の奥へ引かれていく。一度だけ振り返ったが、広場の誰ひとり、目を合わせようとはしなかった。
車輪の軋む音が、やがて聞こえなくなった。
しばらく、二人とも黙って箒を動かした。
「あんた、ああいうとき容赦ないですね」
デンがぼそりと言った。
「あなたこそ。あの人の前の落ち葉、わざわざ掃いたでしょう」
「仕事ですから。落ち葉が溜まってたんで」
しれっとした横顔に、思わず笑ってしまう。
「それにしても、手際がいいのね。見習いの頃から、掃き掃除ばかりやらされていたの?」
「見習いの仕事の半分は掃除ですからね。でも、あんたの箒は筋が悪すぎます。腕だけで振るから腰に来るんですよ。柄のもっと上を握って、体重を乗せないと」
「余計なお世話よ。聖女は普段、箒なんて握らないの」
「知ってますよ。だから最初から、僕が全部掃くって言ったのに」
「連帯責任でしょうが」
言い返しながら、私は竹箒を噴水の石枠に立てかけた。
指先がかじかんで、感覚がなくなっていた。冷えきった大理石の縁に腰を下ろし、白い息を手のひらに吹きかける。
デンも箒を止め、苦笑しながら隣にやってきた。大きな体が腰を下ろすと、冷たい石の上がにわかに温かくなる。
「ほら、言わんこっちゃない。指が真っ赤じゃないですか」
「あなたが文句ばかり言うからよ」
そっぽを向くふりをして、私は白衣の袂の奥に手を差し入れた。
指先に触れたのは、合格発表の朝からずっと持ち歩いていた、小さな油紙の包みだった。一度は渡すのを諦めて、それでも手放せなかったもの。
「はい」
黙って差し出した包みを、デンは不思議そうに見つめた。
「なんですか、これ」
「お祝い」
「え?」
「合格のお祝いよ。あなたが青い組紐をつけて詰所に立っていた朝、渡そうと思って持っていたの。あのときは人が大勢いて、渡せなかったけれど」
デンはおずおずと油紙を開いた。
中から出てきたのは、角が欠けて少し崩れた、黄金色の焼き菓子だった。蜂蜜と燕麦を固めて香ばしく焼いた、素朴な薄焼き。
「これ、あんたが焼いたんですか」
「そうよ。厨房の竈を借りてね。日持ちがして、櫓の上でも手袋のまま食べられるようにと思って」
言いながら、急に自分の浅知恵が恥ずかしくなって、目を逸らした。
「少し崩れちゃったけれど。硬くなっているかもしれないわ」
デンはしばらく、掌の上の菓子を見つめていた。
それから右手の厚い革手袋を口でくわえて引き抜き、薄焼きを真ん中で割って、片方を口に放り込んだ。
カリ、と乾いた音が、早朝の広場に響く。
デンは目を細めて、ゆっくりと噛んだ。顎が動き、喉仏がごくりと鳴る。
「うまい」
掠れた、低い声だった。
「今まで食った菓子の中で、いちばんうまいです」
「大げさね。ただの麦と蜂蜜よ」
「嘘じゃないですよ。あんたが僕のために焼いてくれたんだから、うまいに決まってます」
あっけらかんと言われて、胸の奥がきゅうっと縮んだ。
デンは残りの半分を油紙で丁寧に包み直し、鉄の胸当ての内側へ、大事そうにしまい込んだ。
「これは、次の夜番で食べます。櫓の上で」
「そう」
噴水の水音が、静かな広場を満たしている。
朝霧の向こうで、神殿の尖塔が東の空の白みを受けて、淡く輪郭を浮かび上がらせはじめていた。
明日の朝の掃除で、合同の罰当番は終わる。
デンは川門を守る正規兵として昼夜の交代勤務に戻り、私は至聖所で敷石の光を祈る。神殿長の前で叱られる口実も、朝の広場で並んで箒を握る理由も、なくなってしまう。
胸の底に沈めていた言葉が、熱い塊になって喉元までせり上がってきた。
私は膝の上で握っていた手を、デンの脚のそばへ伸ばした。
「デン」
「はい」
「罰当番が終わっても、私は夜、木戸の閂を外して待っているわ」
デンが息を呑んで、こちらを向いた。
私は逃げずに、その茶色い瞳を見つめ返した。
「見回りのついでじゃなくていい。供物の盗み食いの口実もいらない。あなたに会いたいから、開けて待っているの。聖女としてじゃなくて、私が」
言ってしまった。
デンは目を見張ったまま、固まっている。
沈黙が怖くなって、思わず視線を伏せかけた、そのときだった。
手袋を外したままのデンの手が、冷えきった私の右手を、横から力強く包み込んだ。
それでも足りないとでもいうように、デンは私の手を引き寄せ、自分が羽織っている番兵外套の深い右ポケットへ、二人分の手をまとめて突っ込んだ。
暗いポケットの中、ごわごわした毛織物の温もりに包まれて、デンの太い指が私の指の間に滑り込み、ぎゅっと絡められる。
「当たり前でしょう」
デンの声が、耳元で低く響いた。
「僕が、あんたの鈴を遠くで聞いてるだけで我慢できるわけないじゃないですか」
ポケットの中で、デンの親指が私の手の甲をそっと撫でた。
「ユッカ」
様が、ついていなかった。
名前だけを呼ばれた瞬間、背筋を甘い痺れが駆け抜けた。
「明日の大祭、施しの儀礼が終わったら、広場でいちばんでかい丸パンを買います。神殿長が見てようが町じゅうが見てようが、あんたの前に持っていって、真ん中で真っ二つに割ってやりますよ」
「私のほうが、大きく食べるわよ」
「半分です。きっちり半分こです」
デンが笑った。その目の奥の熱に、視界が潤んだ。
「そのあとも、あんたの祈りが終わる晩には、持ち場を上がって木戸を叩きに行きます。ト、ト・トンって。あんたが飽きたって言っても、絶対にやめませんから」
「飽きるわけないでしょう、馬鹿」
ポケットの中で、二人の手がいっそう固く結ばれた。
神殿の鐘が、夜明けを告げて高く鳴り響いた。
朝霧が晴れ、昇ってきた朝日が、広場の敷石を金色に染めていく。
私たちは立ち上がって、もう一度竹箒を手に取った。
離した手が、ちょっと寒い。私は箒を片手に持ち替えて、もう一度、彼のポケットに手を突っ込んだ。




