平穏不便な人間生活
「これを資料室へ戻しておいてください」
オズワルドに渡された本の山を抱えたステラは、図書館や資料室の入っている西の資料塔への回廊を歩いていた。
夏の終わりの蒸し暑い空気がむっと漂っているが、新鮮な空気というものが心地いい。
スーハーッと、ステラは大きく深呼吸しながら、つかの間の休息を堪能していた。
半魔から人間になって、早一か月。
働き始めた頃とは打って変わって、学園長室で働く過酷さが身に染みていた。
魔族であるオズワルドの近くは、とにかく魔素が濃い。
ニオイが気になる程度なら、鼻をつまんでいればいいだけの話だが、頭がぼうっとするし、眠くなるしで――。
つまり、魔素酔いの症状にやられてしまう。
クレイグの担当している魔法史の授業で学生がみんな寝てしまうのも、ようやく理解ができた。
魔素酔いはとにかく耐え難い。
学園での仕事を再開して、ステラが最初にそのことに気づいた時、オズワルドには苦言を呈した。
『オズワルドさん、もっと完璧に魔素もれを止められないんですか? ランドルさんのそばではこんなことはなかったんですから、やればできるんですよね?』
『配下の中でも古参のランドルと比べないでいただけますかね?』
オズワルドはムッとしたように顎をそらして、モノクルをくいっと上げた。
『古参?』
『ランドルは学園長が最初にお造りになった魔族です。かれこれ二百年近く生きています。一方、私は失踪したランドルの代わりに造られたので、まだ十八年ほどしか生きていません。魔素の扱いも魔法も、まだまだランドルには及ばないのですよ』
『あ、なるほど……』
ランドルもオズワルドも見た目は中高年の男性。てっきり似たような年代かと思っていたが、魔族は好きに姿を変えられるのだった。
(まさか、オズワルドさんの方がわたしと歳が近かったなんて……。オジサンだと思っていたけど、実は二つ年上のお兄さんくらいってこと?)
『そういうわけで、あなたも学園長のように魔素除けの防御魔法を習得することをお薦めします』
完全に開き直っているオズワルドに、改善は期待できない。
仕方なくステラは防御魔法をクレイグに教えてもらって、オズワルドのそばにいる間は防御結界を張ることにしたのだ。
クレイグが魔素をたっぷり練りこんでくれたこの肉体は、魔力量も十分、能力値もかなり高い。入学当時のポンコツぶりが嘘のように、強力な魔法を使えるようになっていた。
これなら『魔導師を目指しています』と言っても、誰もバカにしないくらいだ。
おかげで魔素酔いの症状は出なくなったものの、結界内の空気はこもるので、わりと息苦しい。学園長室を出るたびに結界を解除して、思いっきり外の空気を吸うことにしている。
「学園長室付きの雑用係、天職だと思っていたのに……。人間になった弊害がこんなところで出るなんてねぇ」
クレイグも二百年ぶりに人間に戻ったことで、何かと不便を感じているようだ。
うっかり食事をとることを忘れようものなら、体内の魔素はあっという間に減って、魔素欠乏症になってしまう。
『そういえば、昨夜から何も口にしていなかった……』
クレイグが転移魔法で学園長室に入ってきた途端に倒れたことは、一度や二度ではない。
そうでなくても、クレイグは『魔王』として長い間、無限にも近い魔素を取り入れて大魔法を使うのが当たり前だったのだ。おかげで人間だった頃の魔法を使う感覚というものをすっかり忘れてしまったらしい。
睡眠にしても魔族の時は必要なかったものだが、今は寝ないと体力がもたない。
その寝ている時間の分、こなす仕事の量が減って、今までに増してオズワルドや総督代理のカーティスが忙しくなっているとか。
もう一人くらい手伝いの魔族がほしいところだが、クレイグにはもうその力はない。
『先生、もしかして魔族の体の方が良かった、なんて思っていませんか?』
ステラが聞いてみたところ、クレイグは『いや』と朗らかな笑顔で答えた。答えるまでに多少の間があったような気もするが――。
『終わりが来るのが分かっているからこそ、今を大事に生きられる。やれることに全力を尽くせる。ずっと長いこと、人間としてこういう生き方をしたかったんだ』
『そうですね』
『――と言いつつ、慣れるまでにはもうしばらく時間がかかりそうだ』
ため息まじりに付け加えるクレイグに、ステラは『頑張ってください!』とエールを送った。
この一か月、いろいろな変化はあったものの、ステラにとっては平穏な日々が続いていた。
(平穏すぎて、先生との関係が全然進展していないのが、なんとも言えないんだけど……)
クレイグが今の身体に慣れて、学園長職と総督職を余裕でこなせる日が来ないことには、一日デートは夢のまた夢。
だからこそ、この学園長室付きの雑用係は、クレイグのそばにいられるという点において、絶対に手放せない職になるのだ。
*
ステラはホコリっぽい資料室の棚に本を片付けると、パンパンと手を叩きながら部屋を出た。
資料塔を下りて回廊まで戻ると、突如足元にポッと白い魔法陣が現れて、目と鼻の先に誰かが立ちふさがっていた。
「あ、危な……!!」と、ステラは慌てて飛びのいていた。
「ステラ? ステラなのよね?」
赤紫のローブをまとった二十代半ばの女性が、勢いよく迫ってくる。
ステラより少し背が高く、肩までの小麦色の髪に若草色の双眸――。
「もしかして……シンシアお母さん?」




