【9】妃殿下の北極星
「王家は、祖の血筋から畜生腹が生まれやすい家系です。ーーー貴方の母君は、いつ他界されたのでしたっけ?」
深、と静まり返る。真っ白になった頭で、アロイスは短く息を吐いた。
……どういうことだ。生みの母は、私が赤子の頃に亡くなった。その死が、私を産んだからだと?王妃を殺したのは私だったのか。いやまて。もしかして、
…………わたしの、まだ見ぬ片割れは、とっくのとうに森に捨てられて。
彼の思考は凍りついたまま、彼の眼は色を失ったまま。腰が抜けたように、今度は尻餅をついて。
そして、吐き気を堪えるようにぐぅっと身体を丸めたのだ。まるで、何かを守るように。
彼は気づいてしまった。
己の王太子という椅子が、薄氷の上にあったことを。二分の一の確率で、彼は生かされた。たった二分の一で、己が森の中で朽ち果てるかもしれなかったことに気づいて。彼は立てなくなってしまった。
「まぁ、己の子が畜生腹である可能性が高いと知っていて、王妃を孕ませた王こそ、ひどいお方ですけれど」
「仕方がないだろう。何をおいても、この血筋を絶やす訳にはいかぬ。愚息の片割れを捨ててでも、守り抜かねばならぬものがあるのだ。畜生腹には分からぬようだがな」
「王妃様が生きているように偽装までして?葬式さえ一年後だなんて」
「空の棺だろうが、あやつなら分かってくれる。それに、それが王家に嫁いだ女の責務ゆえ」
「あら、聞きました?こう言うことらしいですわよ?」
「 お 前 の せ い か 」
嗄れた声が聞こえた。聞こえた時には終わっていた。「ヴッ」という鈍い声に、アロイスはのろのろと顔を上げた。
声の方を振り向いて、その顔色はとうとう死人のそれになる。
「な、ぜだ……?」
男は、痰を絡めたような息で、そう言った。
茫然と己の腹を見て、信じられない目でそれを見上げた。
乱れた髪、血走った眼。
固く握りしめたそれは、鋼色をぬらぬらと赤に濡らし、柄がほぼ見えないくらいぶっすりと刺さっている。
「おまえが、」
ゾッとするような声だった。
その凶行を見た、誰もが動けなくなるほどの声。
その唇は、血を塗りたくったかのように鮮やかだ。
「お前が、お嬢さまを殺したのか」
二度、三度と身体に突き刺し直す。
反射で抵抗しようとした王の指を、切り落とす。
研がれた巨大な鋏を、忌々しげな目で見る女を見上げて。
「何故だ、妃……」
ーーー王は、愛する妻を呼んだのだ。
「……何故だ、とは不思議なことを仰いますね」
やや乱れた息を吐いて、妃が言った。
その声は、いっそ恐ろしいほどに凪いでいる。
先ほどまで並んで座っていた男を見下ろす目に、何の感情もない。そこには、凍てつく地獄の闇が凝っている。
「お前のせいだ」
この女は、王のことなどどうでもいい。
二十年寄り添っておいて、ひとつも愛着などない。
それでも、〝愛しております〟と微笑んで。
好いてもいない男に体を明け渡して。
どうでもいい男の種で孕んで。
そうまでして、王家にしがみつきたかった理由など、たった一つ。
側妃と呼ばれた女が、なりふり構わず手放せなかったものは一つだけ。
この女が、愛したひとは、この世にたった一人だけ。
「お前のせいで!!!!!」
王のかつての罪が牙を剥く。
王国の首に手が掛かる。
「お前のせいで、お嬢さまが!!!!!」
愛している。
誰よりも何よりも、お嬢さまを、かつて遠く見上げた貴女を愛していた。
上手いこと後釜に座ったものだと謗られようとも。
死してなお王妃に阿るなど馬鹿らしいと嘲られようと。ただの侍女だった女は妃まで成り上がった。どうでもいい男の隣で、黙って微笑んで寄り添い続けた。「(お嬢さまを)愛しております」と、ただそれだけの理由で、どんな誹謗中傷にも悪意にも耐え抜いた。
絹の手袋が破れるくらいに手を握りしめて。
血が滲んで傷跡が消えなくなった掌を隠し通して。
〝……お願い、眠るまで手を握ってもらってもいいかしら?今夜はお父さまもお母さまも、いらっしゃらないの……〟
〝ねえ!王太子殿下から素敵なお花畑を教えていただいたの!〟
〝寂しくなっちゃうけど……王宮まで、着いてきてくれる?〟
〝ふふ、だぁいすきよ!わたくしのエマ!〟
それでも、清らかで愛おしいお嬢さまがいた場所から、到底離れられなかった。
愛らしくも可憐なお嬢さまが生きていた場所を穢したくなかった。
貴女の笑顔を、その囀りを、少しでも己の中に遺しておきたかった。
そうして、彼女は。
魑魅魍魎の中で微笑み続けた。お嬢さまの忘れ形見を慈しみ続けた。お嬢さまが愛した花園を守るために、走り抜けた。
その真実に辿り着いたウィリアムだった女が目を丸くして、「こわい女がいたものだ」と笑ったくらいに、やりきった。
王子たちを分け隔てなく慈しむ優しき側室。
常に一歩下がりよく王を支え亡き王妃を敬愛した淑女の鏡。
嗚呼、アロイスが己が愛されていると思うのは間違いではなかった。
側室は、確かにお前を愛していた。
お前の中に流れるお嬢さまの血を、愛していた。
「どうかしら?今の気持ちは」
「ええ。最悪で最高かしら」
黒き姫君の呼び掛けに、穏やかな声で女は答えた。
ああ、こんな男に尽くしてきたなんて、と思う一方、いっそ晴れやかな気持ちであった。
ゆったりと目を細める。
若くして亡くなった愛しいお嬢さま。
筆頭公爵のご令嬢だったくせに、幼い頃は一人では眠れなかった。布団の中で手を握ってあげると、愛らしくはにかんだ少女の顔が、心臓にこびりついたかのように忘れられない。
大人になっても、心細い夜は手を握って寝物語を語ってあげた、可愛いお嬢さま。
実はとびきりの寂しがり屋だった貴女の細い手を、最期まで掴んであげられなかったことが私の心残りだった。
……己の察しの悪さを憎む。
王家の慣習と制され、あの方は1人で嫁いでいった。畜生腹なんぞを孕み死ぬ為に、たった1人で死地へ向かって行ったのだ。かつて弔った棺さえ空っぽだなんて、そんな侮辱はあるものか。
ふふ、と漏らした声は、地獄の薄寒さを纏っている。
「王よ。あまりにも驕りすぎでしたわね。そんな悪行が許されると思うなど」
血に濡れた手でベッタリと王の頰をなぞり、覗き込んだその顔は、虫の息の男さえ一瞬で正気に返るほど。
「大丈夫。鍛えてもいない女の腕ですもの。殺しきれないわ」
だから、だから。
その醜い虫のような顔を眺めながら、側妃は誰よりも美しく微笑んだ。その眼差し、その髪の一筋、爪の先まで全てが麗しく。言葉を失うほどの、凄絶にして絢爛な氷の女王であった。
「貴方がお嬢さまを苦しめた分だけ、たっぷり私が生き地獄を味わせて差し上げますわ」
うっそりと流し込んだ睦言は、王の正気の糸を切り落とした。
ぐったりと手足を投げ出した王を打ち捨て、側妃は立ち上がった。返り血でその身を染め上げながら、その赤が映えて一層美しい。
「ヴィクトリア・ブランノワール」
「はい」
「これを届けさせたのは何かと思えば……、気持ちが分かるとは、不敬なこと」
「でも否定はできないでしょう?」
緩やかに微笑むヴィクトリアに、妃はひとつ溜息を吐いた。
誰かの使いと名乗るメイドに、この大鋏を渡され伝言を受けたとき。その職業意識の薄さを叱り飛ばすなり、女中頭に命じて処分させるなりしなかったのは、予感がしたからだ。
王家の出産時に代々使用される臍の緒を切る為の臍帯剪刀を見て。妃はスカートの中に隠して、黙って此処に来た。
真実を見つけるために。
己の愛を証明するために。
「麗しき妃殿下」
優しい声だった。その穏やかさが、いっそ恐ろしいほどの激情だった。
「ずっと思っておりました。貴女は、私と同じ鬼を飼っていると」
同じ形の傷がある。
その眼の奥に、同じ鬼を飼っている。
「……畜生腹の悪習など、王家など、心底くだらないと思うそれは同じでしたね」
鼻で笑って、妃は言った。
嗚呼、くだらない。
そう思うことすら許されなくとも、信仰の前に決して思ってはならないことだと分かっていても。
感情は簡単に理性を飛び越える。
理性でも許せない一線がここにある。
くだらないものに、互いの最愛が奪われた。
くだらないものに、互いの幸福を壊された。
この怒り、この怨み、晴らさずにいるものか。
「私は、きょうだいを愛しております」
「ええ。お嬢さまを愛しております」
「きょうだいのためなら毒でも何でも食めるわ」
「お嬢さまのためなら王を地獄に落とすくらいするわ」
「ふふ、」
「ふふふ、」
己の鬼を愛と呼ぶ、生粋の気狂いたち。
嗚呼、わかるとも。嫌になるほど、分かるとも。
それが最愛に望まれていないと知っていて。
最愛が己に望むことなど知っていて。
それでも、己の手に握った刃を手放さなかった。心臓にこびりついてしがみついて、それでも人生掛けても愛という名の唯一を手放せなかった。
私たちは、理性を超えて、あなた達を選んだ。
「「本当に、馬鹿な女だこと」」
1人は花のように微笑んで、1人は星のように微笑んだ。嗚呼、彼女たちはあまりにも美しい。凄絶にして壮絶な、命の炎を燃やしているが故の美しさだった。
「お前の片割れについて謝罪はしません」
「ええ、そうですね」
緩やかに長い睫毛を伏せて、妃が言った。
互いに思うことはただひとつ。
『最愛を返せ』、それだけである。
それが出来ないのに行われる謝罪など、何の意味があるものか。
だから、2人の女は、顎を引いて笑みを浮かべる。他人の人生を滅茶苦茶にして、踏み躙って、どんなに恨み辛みが積み重なろうとも、それでも手放せない愛を背負って、澄ました顔で笑い続ける。
「代わりに、私はお前の邪魔はしないと誓いましょう」
「あらまぁ、宜しいのです?」
「ええ。譲ってくれた恩もあることだし」
妃は、ちらりと背後の王を見下ろして頷いた。
臓腑の底、心臓の裏。互いに同じ鬼を飼っている。
故に、ヴィクトリアは満足そうに笑って一礼をする。
そうして、手を組みあった女たちは振り返る。
そこにいるのは、花の王子様。
彼女の元婚約者候補で、彼女の義息子で。
ーーー彼女たちの最愛の仇である。
致命的なまでに血の気が失せた端正な美貌をみつめて。
まるで写したかのようにそっくりな、華やかな微笑を浮かべたのである。




