【5】空の宝石箱
日が暮れ、夜会が始まる。
貴族のそれは、己の富を顕示するため、非常に豪勢である。
この不穏な情勢などつゆとも感じられないほどの、凄絶たる絢爛さであった。
その中で、身を飾り立てた老若男女がそわそわと浮き足だつ。誰もがたったひとりを意識している。
下位貴族から高位貴族まで、この場にいる全ての人間がたった1人のことを考えている。
「今宵来られるとは。領地から出てきた甲斐があったものだ」
「ええ。かの方にお目通りするのを楽しみにしておりました」
「なんと、卿もであったか」
「ええ。彼は本当によく出来たお方だ」
「なんだと、あの畜生腹が」
「悍ましい」
「しかし、彼の智慧は素晴らしいものだ」
「だから恐ろしいのだろう」
「畜生腹め、なんと目障りな」
「畜生腹のくせに貴族を名乗っておることも忌まわしいわ」
「おお、かの方にお会いしたいと?」
「ええ。あの方に恩がありましてな」
「卿もですか。あの方は大層素晴らしい方だ。婚約者はいらっしゃらないのだろうか」
「やや、私の娘もとても賢く愛らしくてな、かの方のお眼鏡にも叶おう」
「いえいえ、私の娘も一二を争う美しさだ。あの方の隣に並んだら非常に絵になるのだろうと思うのですよ」
「聞きました?白樺の君の話を」
「とても恐ろしい方なのですって」
「あら、私はひどく醜い方なのだと伺ったわ」
「この世のものとは思えない様なのだとか」
「非常に優れた方だと聞いたわ」
「あら、ほんとうに?」
「来られた」
誰かが隙間を縫うように囁いた。
カツン、と靴音が響く。
新月のような射干玉の髪が、紗砂の音を立てて揺れ、滑らかな雪花石膏の氷肌は、仄かに光っている。扇のような睫毛がゆるりと空気を掻き混ぜる様は、凍蝶が絶命の間際に震わせた翅のようであり、天に舞い上がる前の大鷹が夜明けに広げた翅のようであった。
氷でできた花のように美しい青年であった。新月の闇よりも艶やかな黒白の美貌は、輝くようであった。
何より、地獄の闇よりも美しく、深淵の闇より凄絶な、二つとない極上たる檳榔子黒。
誰も彼もが一切の動きを止める。
老若男女惚けて、楽団さえも手を止めて。派閥も政治も立場も思惑も全て飛び越えて。憎悪も陶酔も嫌悪も好意も興味も全て塗り替えて。
夜の闇さえも引き立て役にする、魔性の貴人。
現れるだけで世界を塗りつぶす圧巻の存在感。
息をするように社交界を支配する黒夜の王である。
静かに伏せられた睫毛が震え、艶やかな檳榔子黒が向けられた楽団長は、はっと指揮棒を震わせる。急に意識を取り戻したかのように始まる演奏は、やはり何処かぎこちない。会場全ての意識が、たった1人の青年に引っ張られている。
「ブランノワール卿」
掛けられた穏やかな声に、人形のような美貌が、ゆるりと動く。
「久々でございますな。先日は感謝申し上げます」
「嗚呼、久しいな。卿の領地で魔石が輸出されたと聞いたが。その後は如何だろうか」
「ええ、ブランノワール卿にご助言をいただいたお陰で、生産体制も整い、魔石産業が軌道に乗っております。」
「そうか。それはよろしいことだ」
「それにしてもよろしいのですか……?このような、」
男は声を潜める。
「このような儲け話を容易くいただいて」
「ーーー嗚呼、」
はつり、と極彩色の檳榔子黒が瞬く。
「魔石は人類を豊かにするものだ。……私の名で出すよりも、魔石技術を卿に広めてもらう方が、余程この世の為になろう」
「なんと……!なんと嬉しいお言葉でしょうか」
〝卿の信頼、我が一族の命を賭けても全うしてみせます〟と紅潮して震えながら語る男に向ける顔は、静かなままだ。
「心強いことだな」
そんな言葉ひとつで、容易く忠誠を誓うのだから簡単なものである。
(まぁ、何処まで信用できるものか)
畜生腹。ブランノワールの悪逆。
己の生まれと同時についた悪名は、未だに社交界に根付いている。だから方々に恩を売り、己の利を捨ててでも国の為と嘯いて業績をくれてやった。
ここ10年弱のありとあらゆる流行も発展も、ウィリアム・ブランノワールが仕掛けている。
嫌悪を陶酔に塗り潰し、反発を盲目に塗り替えた。
アロイスが煽る世界の中で生き残るため、彼は圧倒的な強者である道を選んだ。誰にも文句を言われないくらい、強く美しく圧倒的である道を選んだ。
例え、腹の中でどのように思われていたとしても。
ウィリアムが歩く道は変わらない。
ウィリアムのゴールは変わらない。
「レティシア嬢の話。あれで良かったのですか」
「何だ。不満か?」
夜も更け、馬車の外から差し出された手を掴みながら立ち上がった。ひっそりと佇む民家に入るウィリアムの後ろに控えながら、執事は珍しく眉を顰めている。
「できない約束はしない主義でしょう」
何処か棘のある声に、はつりと瞬く。
「妬いているのか」
頰を打たれたような顔をするジョーカーに、思わず笑ってしまった。これで無自覚なのだから愉快なものだ。
「嫉妬など、私は。レティシア嬢のことを思ってのことでございます」
「そうか」
ーーーお前がそう言うのならば、そうなのだろうな。
そう嘯いた青年は、背後を振り向かない。後ろの男の顔を、知らないまま。興味もないまま。平然とした顔で扉を開け、
「おう、来たかい」
「久しいな」
もわりとした空気が充満し、目を刺すような臭気が襲いかかる。その中心で、ボサボサの髪、髭面の顔面。草臥れた人夫のような風体の男が顔を上げた。男は手元で弄っていたソレから顔を上げ、「いつもの部屋行きな」と顎をしゃくる。只人ならえづき涙を流すであろう空間でありながら、ウィリアムもジョーカーも滑らかな無表情のままだ。
「それで、先ほどのは?」
「あァ、西方領から上がってきた死体を診ていた。アンタが言っていた通りだ。魔石産業が盛んな地に住む人間の不審死がちらほら出てきている」
「そうか」
「いやあ、にしても見てくれ!コイツァすごいぜ、大粒のダイヤモンドだ」
「……死体から宝石をつくる技術も、安定してきたな」
「いやいや、そうじゃねえさ。俺の目標は、魔石をつくることだ。魔石つくろうとして、宝石になっちまうんじゃ失敗さね」
目の前にいる男は、軍医崩れの闇医者である。全くもってイカれた男である。この男、眉唾物の人工魔石に魅せられて、戦地で死体を弄り回し解体し、好き勝手に研究という名の人体実験を重ねてきた男である。嬉々として死体を弄る様は悍ましいが、人体に関してはピカイチなこの男を、わざわざ侯爵子息であるウィリアムが訪ねてきた理由はただひとつ。
椅子に腰掛けたウィリアムの前に膝をつき、スルスルとズボンの裾を捲り上げた先。
「どうだ」
「アー、最高だな」
青褪めた月のように生白い足は、筋肉が衰え、女のようであり。何より、見るも無惨な傷痕が何本も走っている。例えばレティシアが見たのならば、言葉を失って二度と忘れられなくなるくらい、凄惨な跡であった。
「いつ見ても我ながら惚れ惚れするぜ。俺じゃなかったらアンタの足は今ごろ立つこともままならねぇだろうよ」
「そうだな」
ーーー彼の脚は、歩行能力をほとんど失っている。
杖をついているのは、紳士としての嗜みではない。そうでなければ、まともに歩けないからだ。まともに立てないからだ。踊るなんてもっての外。
「普通さァ、」
節くれだった指が、きめ細やかな肌を味わうようになぞり、撫でさする。
「そうは言っても、こんなに当たり前の顔で歩けはしねぇ筈なんだがなァ」
呆れ果てた顔で見上げた先の美貌は、夜明けの新雪のように真っさらなままだ。努力のひとである。平然とした顔で歩きーーー足が悪いと悟らせなかったほどの、凄絶な努力を当たり前の顔で熟す鬼人である。
「俺は、アンタが隠したい気持ち分かるぜ。弱みを見せたくないもんな?」
膝の傷をなぞりながら、男は言った。「マ、他人には漏らしゃしねえさ。俺だって命が惜しい」と嘯きながら、その視線が、足首、脹脛、膝、太腿と撫でるように移って。その瞳が、どろりと蕩ける。
「アンタは俺の芸術品だ」
カサついた唇が絹の肌に触れ、男が膝頭に口付ける。
「ーーーおいおい、熱烈だな」
くつりと、男が唇を押し付けたまま、笑う。
男の太い首に、鈍銀に光る針先が添えられている。
いつの間にか影のように立っている青年が、肘ほどまである長針に指を添えてーーー薄皮一枚の距離に突きつけている。
音もなく、空気の揺れもなく。1ミリでも動けば、一瞬にして脊椎が破壊されているだろう。僅かにでも顔を動かした瞬間、殺されているだろう。
花緑青の瞳孔が、花開くように拡がって。
……色が変わる。
「ジョーカー」
静かな声だった。凪海のようでありながら、指先まで動けなくなるほどの、とびきりの支配者の声だった。星月夜を掻き消すほど美しい檳榔子黒が、つるりとした硬質さで見下ろしている。
「ジョーカー、傷つけるなよ」
「……いやあ、恐ろしいこって」
従順に針先が遠ざかる。線を描くような通った鼻筋、切れ長の眼、酷薄そうな形のいい唇。能面のような無表情のまま黙って男を見下ろす様は、鋭い美貌を際立たせている。
「はいはい、失礼しましたよ。我が主人」
言葉の裏に地獄の薄寒さを纏った声だった。温度なんて欠片もない、研ぎ澄まされた刃のような声だった。平素、主人にも軽口を叩く男だとは思えないほどーーー悍ましくも恐ろしい、凄絶な殺意を剥き出しにしていたのである。
そんな執事の声を聴きながら、笑顔に失敗したように歪な表情の男はひとつ息を吐いた。
「……全く大した番犬だな。お前の秘密は安泰か」
噴き上がる金紗の炎。
見開かれたきょうだいの檳榔子黒、むさ苦しい男たちの歪な顔、引き裂くような絶叫、振り上げられた鉈と、斧。
ーーー彼方の地獄を、瞬きひとつで振り払う。
「嗚呼、素晴らしいだろう?」
薄く笑みを刷いて、ウィリアムは滑らかに告げた。気圧されたように黙り込んだ男が身を引いた隙間に滑り込むように、長身の青年が膝を折る。流れるように裾を直し、白手袋に覆われた手を差し出して。
「此度は失礼したな。そろそろ帰るとしよう」
「おーおー、頼むから帰ってくれ。今後もよしなに」
立ち上がったウィリアムに、ひらりと手を振って男は言う。その視線は、ジョーカーが渡した札束に向いている。そして、去っていく主従を追いかけるように声が飛んだ。
「お前が自分で歩けるのは、精々次の春までだな」
振り向かないまま、檳榔子黒がはつりと瞬く。
「ならば、私も頑張らねばな」
形の良い唇が柔らかく綻んで。扇のような睫毛の先が白く凍りつく。
空から流れ落ちる結晶のような花弁。
何処からか飛んできた淡雪でその身を飾り立てながら。
絶世の佳人が、冴え冴えとした薄氷色の月を背に立っている。
「ジョーカー」
背後に影のように立つ青年が、静かな顔で寄り添った。
「暫くお前を私から離す。動けるな」
「承知いたしました」
断定の言葉に、ジョーカーは即答した。
ーーー生き残った畜生腹。悍ましき悪逆の貴公子。
生まれながらに忌まれ憎まれ嫌われ否定され、死を願われ続けた貴公子の。
ウィリアム・ブランノワールの最側近。右腕たる男である。
拡がったままの深碧の双玉が、ヂカヂカと瞬いて。
「春が来る前に終わらせる」
「我が主人の、ご随意のままに」
ーーー緑の目の怪物が笑っている。
*
異変は、唐突に訪れるものである。
「ーーーウィリアム様?」
レティシアは足を止めた。旧図書館は、伽藍として、薄寒さが漂っている。謐けさの中に、人の気配はない。
(急に、何かご用でも出来たのかしら)
眉を下げ、己の手の中の招待状を見下ろした。レティシアのデビュタントに代わる夜会のものである。晴れてダンスや礼儀作法で合格が貰えたのだ。卒業式の翌週、約束通り招待しようと、そう思って。
「レティシア、貴女聞いた!?あのブランノワール様が王国兵に捕縛されたのですって!」
少女の眼が、愕然と見開かれる。
……まさかと、思った。
信じたくない、信じられない。
優しい貴方。山猿にも誠実だった貴方。いつか私と踊ってくれると約束したあの人が、悪事を働くなんて、どうしても思えなかった。
そして、その日中に王宮から発表された彼の罪の名を聞いて、さらにその色を喪った。
〝〝貴族詐称罪〟〟
そんな残酷なことがあるの。そんな酷いことがあるの。貴方は何も悪くないのに。貴方は何もしていないのに。
畜生腹の生まれだけで人間と認められず、貴族の直系でありながら、貴族を詐称したと捕えられた。
ーーー貴方は、双子だから囚われた。
レティシアは、血の気の失せた唇を震わせる。普段は活気に満ちた学園も、この時ばかりは静かなまま。誰も彼もが息を潜め、大きく動いた王家の動向を注視するまま。レティシアは、居ても立っても居られず、カツカツと歩き出しーーーいつしか、走り出していた。
制服の裾を翻して、淑女の気配など欠片も無く。走って、走って、走ってーーー息が切れて、喉から血の味がして、涙が滲んでーーーそれでも、走り続けて。
レティシアの脳裏に蘇るのは、貴方の声だった。かつて交わした言葉だった。
『協力させてください』
『ーーー協力?』
『わたしは、畜生腹のない世界を作ります。もう誰も傷つかないようなーーー誰も、泣かないような。双子で生まれたって、何人で生まれたって、誰も憎まれないような、そんな世界をつくります』
『……それは、楽しみだな。レティシア』
こんな時に限って。
あの時の、貴方の顔を思い出す。
走って、走って、走って。
階段を駆け上って、勢いよく扉を開け放って。
そこは、伽藍堂の宝石箱。
誰もいない。
誰もレティシアを迎えてくれない。
青春の思い出が詰まった、埃が舞うばかりの旧図書館の真ん中で。ひとつ、息を吸って。
ーーーレティシアは決めた。
「次は、私が迎えにいくの」
彼女は、己の恋の為に戦うことを選んだのである。




