【0】少女Aの品格
(早く……早く、助けを呼ばなきゃ。……にいさまが)
かつての悪夢の話である。
少女は、脳裏に焼きついた血濡れた兄の姿に、じわり、と滲んだ涙を拭う。その手から、血の匂いがした。にいさまから流れた赤だった。噎せ返るような血の匂いと、蒼褪めた兄の顔に追い立てられるように足を早めて。
「……、ここ、は?」
かたり、と小さな音を立てて蓋が外れた。暗闇の中で首をめぐらせて、少女はひとつ瞬く。人気のないそこは、もう既に火が落ちたキッチンである。
ゆっくりと辺りを伺いながら、足を踏み出す。
(ここがキッチンなら……もう出口は近いはず)
足音を忍ばせて。机の端から覗く棒を跨ぐ。
ーーー暗闇の中で、ぬらぬらと血走った眼球が光っていた。
「アッッ!!!!」
「あ゛~、流石貴族様だ。旨い酒で、つい飲んじまった」
「はなっ、はなして!!!」
身を翻して駆けだそうとする少女のお下げ髪を荒々しく引っ掴んで、男は大きく欠伸をした。そのまま、「おうい、餓鬼を捕まえたぞお」と力づくでキッチンから引きずりだした。容赦なく引っ張られる痛みと、プンと香る酒臭さに少女は呻く。
「本当か!ーーーおいおい、このガキ、メイドじゃねえか。俺たちが殺すべき畜生腹は貴族のガキだぜ?」
駆けよってきた男が眉を寄せる。松明の炎が揺れ、少女の痛々しい姿が浮かび上がる。覗き込んで、怪訝な声が上がる。
「……にしても、なんでこのガキ血濡れなんだ?」
「ッッーーーー!!!!!」
「ッ痛ェ!!!!!」
反射的に、髪を握る男の手に嚙みついた。突き飛ばされ、床に打ち付けられて……跳ね起きて駆けだした。怒りに血走った男が剣を振りぬき、危機一髪で髪が斬られる。
「おいッ、こいつ嚙みつきやがった!!!待て、このクソガキがァ!!!!」
「ギッッ!!!!!」
男と子供の差だ。あっという間に追いつかれ、容赦なく腕を振りぬかれる。軽い体が吹き飛んで、壁に叩きつけられて。ウーウーと呻きながら、立ち上がることもできない子供の胸倉を掴み上げて。
「ふざけてんじゃねえぞ、コイツ!!!」
「ーーーーーーーッ゛ッ!!!!」
「ははっ、うるっせえの」
喉から迸ったのは、罅割れた絶叫であった。獣の断末魔のような悲鳴であった。
(いたい、いたい、痛い!!!!)
薄れる視界に、にやにやと笑う男たちが映る。ジゥ、という鈍い音と、己の肉が焼ける臭い。頬から首にかけて貫くような痛み。
それは、少女が初めて対面した悪意だった。少女が生まれて初めて感じた恐怖だった。
今までどうしようもなく、守られていた。これ以上なく、護られてきた。でも、何が何でも守り通してきた兄姉はここにいない。
少女は喉が裂けて血が滲むくらい絶叫して、
「おい、どうする」
「気絶したのか?」
ぱたり、と止んだそれに男のひとりは松明を少女から離して首を傾げる。前髪を引っ掴んで持ち上げてーーー恐ろしいくらい伽藍洞で、それでもなお美しい、極上の檳榔子黒と視線が合った。
ごくり、と男の喉がなる。節くれだった手が、虚ろな少女に伸ばされて……、
「なァ、こいつ」
「嗚呼……売れるな」
「いいもん持ってんじゃねえか、嬢ちゃーーー」
視界が、真っ白に染まる。
……気づけば、少女はひとりだった。
見渡す限り、紅蓮の業火。炎が渦を巻き、壁も扉も所々砕け散っている。まるで、巨大な炎嵐が吹き荒れたような有様である。
少女に、痛々しい火傷以外傷ひとつない。
己を掴んでいたはずの男は、その横からにやにやと覗き込んでいた男は、影も形もない。その炎は、少女の身体を撫でるようにーーーそれでいて、ひとつも燃え移ることなく、守るように取り巻いている。
ふらり、と少女は足を出した。頭の中は真っ白のまま。けれど、
(にいさまが……)
それだけが、彼女の身体を突き動かしている。ひとり、もう骨格しか残っていない玄関をふらふらと抜けて。
「生き残りがいたぞ!!!!!!おい、大丈夫か!?」
温もりに抱き留められた。見上げると、心配そうな顔をした青年が覗き込んでいる。辺りは騒がしい。誰かが「ひどいけがだ!」「おい!火事がおさまらねえぞ!」「水を持ってこい!!!」と叫んでいる。「大丈夫だからな、君の名前はなんだい?」と落ち着かせるように呼び掛けた青年の袖が引かれる。
「ん?」
小さな手が、縋るように、袖を握って。彼は、反射的に腕の中を見下ろす。
短い黒髪に煤けたメイド服。炎を反射して輝く、檳榔子黒の瞳を持ちーーーその広範囲で色が変わった皮膚が痛々しい少年を。
「ウィリ、アム………」
掠れた声で告げて、その意識は深い海に堕ちてゆく。
(ウィリアム・ブランノワールを、たすけて)
「ん!?君の名前か!寝るな!!……おい!この坊主、ウィリアムっていう名前らしいぞ!!!!!この子の治療を!!!!!」
「……おい、そういやウィリアムってあの噂の畜生腹の名前じゃないか?」
「はぁ!?まじかよ!俺触っちまったよ」
「うわっ。おいお前俺に近寄るなよ。そこに置いとけばいいんじゃないか?誰か治療するだろ」
「そうか、そうだな。転がしとくか」
(にいさまを、にいさまとねえさまを誰か)
極限状態にあった彼女の意識は深く、深く落ちてゆく。
己がウィリアムと勘違いされたと思いもせずに。メイドのふりをして逃げ出してきた嫡男だと勘違いされるなど、思いもせずに。生存者の少年として、アロイスに報告されるとは、欠片も予想せずに。
彼女が目を覚ました時……畜生腹だからと、誰にもまともな治療をされないまま、性別がバレないまま、彼女は彼になって。彼女に遺されたのは、全焼し真っ黒になった廃墟と、黒焦げの死体がひとつ。
「ーーーなんで、にいさまとねえさまは、褒めに来てくれないのおっ!」
頑張った。頑張ったのよ。
いっぱい頑張ったのに、なんで褒めにきてくれないの。
身も世もなく泣き果てながら、女は言った。
涙が止まらなくて、瞼がはれぼったくて、鼻が染みて、頭が痛くなって。
それでも、駆けよってくれる足音はない。頑張ったねと思いっきり甘やかしてくれる人はいない。
あの晩。あの屋敷にいたのは3人。
生き残りはひとり、黒焦げの子供の死体が一体。
数が合わない。計算が合わない。
ーーー彼女は、当然のごとく。(兄さまたち、逃げることができたんだわ)と思ったのだ。
にいさまかしら。ねえさまかしら。
いや、でもねえさまが手負いのにいさまを置いていくわけがない。きっと、誰かの死体を仕立てあげて、ふたりで逃げることができたのよ。
(だったらどうして……怖かったねって出てきてくれないの?)
「ひとりにしてごめんなさいね」「怖かっただろう……頑張ったな」って、ひょっこり出てきてくれるはずなのに。いくら焼け跡で待っても、にいさまとねえさまの声は聞こえない。瓦礫が積みあがった影から、「遅くなってごめんなさいね」「もう大丈夫だぞ」と顔を出して迎えに来てくれることもない。
(……なにか、何かあったのかしら。あれだけ大きな衝撃だったもの……もしかしたら、怪我をして動けないのかも……いいえ、川に流されて記憶を失ってるかも)
彼女は、次いで、兄姉を探すことにした。
嫡男の名のもとに領土全域、貴賤問わずに教育を広げて、「檳榔子黒の瞳を持つ子供がいたら連れてこい」と命令した教師を送り込んで。
それでも、いくら待っても「怪我がひどくて、待たせちまってごめんな」「わたくしが小さなお姫様を忘れるなんて……!嗚呼、ほんとうにごめんなさい。もう独りぼっちにはしないわ!」と抱きしめてくれる人はいなかった。見つかったと報告が上がることも無かったのだ。
(………わかったわ。こんな世界だから、きっとねえさまもにいさまも出てこれないのよ)
畜生腹であるだけで、あんな悍ましい悪意を向けられた。生きることを許されなかった。
にいさまとねえさまは本当に、優しいから……傷ついてしまって、隠れてしまっているだけよ。
(そうだ。そうに決まっている。こんな王家と世界のせいで、にいさまとねえさまが)
だから。アロイス殿下を苦しめて苦しめて苦しめて、アロイス殿下が地獄の底で足掻きながら畜生腹の改革を成し遂げようと、心が折れて王家が潰れ地獄を彷徨おうと。どちらでも成り立つように仕立てあげた。
わざと、美容を謳って身長を伸ばしたり顔の形を変えたりと後遺症の可能性や危険性が高い医療を広めた。鉱毒が川を大地を王国を汚染させるために魔石の利用を広げ、魔道具を生み出し貴族から庶民まで使うように開発して。身体に害をもたらすシェールグリーンの生地で流行を仕掛けた。麻薬を混ぜた煙草も、畜生腹の迫害も、政治対立も、貿易摩擦も、革命の火種も、隣国の政情不安も、貴族同士の殺し合いも、人身売買も、ありとあらゆる全部を仕掛けてみせた。これから千年の地獄をつくったのだ。
(………どこにいるの、私のきょうだい)
愛していた。
どうしようもなく、愛していたの。
幼い頃。彼女は劣等感と卑屈さに塗れていた少女だった。同じ血肉を、魂を分けたきょうだいが、貴族として華々しく過ごしているのに。自分と言ったら、小さな離れで、細々ときょうだいの世話をする(といっても、あの妹を溺愛するふたりが大層なことをさせなかったけれど)だけの、薄汚いメイドだった。一方的に守られるばかりだった。同じ日に生まれたのに、与えられるばかりだった。その薄暗い感情が、棘となって現れなかったのは、確かに愛されていたからだ。どれだけ複雑な感情を抱こうとも、愛されていることを知っていたから。きょうだいのことはこれっぽっちも嫌いにはなれなかった。
〝ねぇ、可愛いわたくしのアネモネが、わたくしのことをお姉ちゃんって呼んでくれたら、王宮でも頑張れると思うの〟
〝嗚呼、ありがとう。助かるよ、俺の小さなお姫様。……え?恥ずかしい?なぁ、俺のことも、兄と呼んでくれていいんだぜ?〟
痛いほどに立場の違いを分かっていた。貴族の子供と、最下層のメイド。決して、あのうつくしい人たちを、兄姉と呼ぶことは赦されないと知っていたから。
〝お嬢さま〟
〝若君〟
ずっと拗ねていた。その呼び名は小さな反抗心だった。でも、貴方が、貴方たちが。己を取り巻く理不尽に怒って拗ねていた、甘ったれな天邪鬼を。
〝愛しているわ、わたしの妹!〟
〝愛しているぜ、おれの姫君!〟
詰まらない私の全てを飛び越えて、そう言って蕩けるように笑うから。幸福を形にしたように笑うから。
(ねえさま……にいさま………わたしの、きょうだい)
かつて与えられたものも、場所も、決して満たされたものでは無かったけれど。ひとりになった方が、明らかに良いものが与えられたけれど。
それでも、私には貴方達がいた。
私のきょうだい。
私の愛しき姉と兄。
2人とも、定期的に親に呼び出されては、疲弊して帰ってくるのが常だった。スコンと表情を落っことしたかのような滑らかな無表情に、毛羽立つ感情を僅かに滲ませて。それでも、小さな少女を見つけた瞬間に。
「ーーーおいで、」
嗚呼、あのときの、きょうだいの顔といったら!
微かな苛立ちなんて一瞬で消えてしまったみたいに。きょうだいだから分かる僅かなささくれも、まるで元からなかったみたいに。
蕩けるように、綻ぶように、花開くように。本当に、溢れんばかりの愛情に満たされた顔で、甘ったるく笑うから。
(どうして、)
薄々、分かっていた。あの死体はきっと、兄姉のどちらかだった。でも、それでも計算が合わない。どちらかは、生き延びている筈である。
まさか、あの優しい姉が、己を救う為に自爆してーーー細切れの肉片となって散らばって死体さえ残ってないなんて。
まさか、あの冷静な兄が、きょうだいの肉片をかき集めてーーー己に火を放って生きながら真っ黒な炭になってしまうなんて。
甘やかされた末っ子は思いつきもしなかったから。
(なんで、会いに来てくれないの)
〝どうしたの?わたくしのお姫様〟
〝おや、寂しかったのか?俺のアネモネ〟
きょうだいの名を呼んだ瞬間、すぐに迎えに来てくれるはずなのに。
〝ふふっーーーわたくしの可愛いアネモネを泣かせたのはだぁれ?〟
〝おいーーー俺の小さなお姫様に手を出したのは誰だ?〟
こんな風に大声で泣いたのなら、即座にすっ飛んできて、笑いながら、真顔のまま、怒り狂うはずなのに。
〝まぁ、頑張り屋さんね〟
〝悪戯っ子なお前も愛らしいな〟
ウィリアムに成りすまし、ヴィクトリアの振りもした。ふたりが帰ってくる居場所を、何とか残そうとした。
どれだけ人を陥れて、国に混乱を齎して、世界を破滅に導いても。
〝まぁ!わたくしの真似っこをするなんて……わたくしの妹は、なんて愛らしいの!〟
〝ひとりでよく頑張ったな。ふふ、懸命に俺の真似をするお前を見るのは、気分がいいな〟
とびきり甘い声で抱きしめられて、
とびきり優しい声で甘やかされて、
そうしてとろとろになるまで、愛してくれる筈なのに。
どれだけ泣いても。名前を呼んでも。
優しい声はない。抱きしめてくれる温もりはない。
なぜいない。
なぜ、誰もいない。
………何故、誰もここに来ない。
(かえして、)
怪物だった女はそう思った。
春に生まれた子供たち。春が来る前に、バラバラになってしまった。その温もりは奪われてしまった。
蕩けるような声も、慈愛に満ちた眼差しも、優しい抱擁さえ。かつて与えられた愛を、根こそぎ奪われてしまった。その虚に真っ赤な花が咲く。
(奪ったくせに、)
あの男も、王家も、国民も。
わたしから奪ったくせに、どうしてのうのうと息をしてるの。当たり前の顔で、幸福を手に入れようとするの。
ーーーそれは。それだけは許さない。必ず、報いを受けさせる。
許すものか。
何としてでも、何があっても赦すものか。
必ず、この報いはその身でもって受けさせる。
お兄さまに恋した身の程知らず。
お姉さまを愛した愚かな男たち。
真実に慟哭した馬鹿なひとたち。
王家のためだからと。わたしの姉を殺していいというのか。
姉のために、兄が死ぬべきだったとそう詰るのか。兄が、姉が、誰を愛していたか知らないくせに。その愛を、恋を、自分のものにしようなんて、そんな烏滸がましいこと、許してなんかやるものか。
瞬くたびに、かつての地獄がよみがえる。
振り上げられた鉈と、斧。兄の肩に突き刺さった矢、切り裂かれ息も絶え絶えの白樺の美貌。誰よりも美しく、慈悲に蕩ける目で、花のように笑った姉の姿。笑いながら押し付けられた松明は、私の左半分に消えない傷跡を刻んだ。
(許すものか)
身のうちに宿る炎。ジクジクとこの身を蝕む猛毒。あの地獄の底で、産まれ直した子供がいた。畜生腹から、この世の悪鬼に産まれ直した怪物がいた。
私が選んだ道は、報復ではなく、復讐ですらない。
ーーーこれは証明だ。
きょうだいの苦しみは、絶望は間違いだったと証明する。あの想像を絶するこの世の地獄の中で生まれ直した私が、幸福であって良いはずがない。
だって、そうでなければ報われないだろう。
心の底から愛していたきょうだいを、伸ばした手のほんの先で喪った私が報われない。
最後の最後まで、私なんかを案じて、炎の向こうに消えたきょうだいが報われない。
もし。アロイスが立派な王となり幸せな国を築き上げるというのなら。レティシアが、惚れた男と幸せに暮らすというのなら。畜生腹を憎み排斥した国民が、好いた人に愛されて、家族にも仲間にも恵まれ囲まれて、太陽の下で何憚ることなく笑って生きるというのならば。
かつてのきょうだいの苦しみは、私の絶望は。正しいとでもいうの。
そんなの認められない。認めるものか。
お前たちの積み重ねた歴史は罪で有り、お前の人生は罰であったとこの身で持って証明する。私の最愛の地獄の先に育まれたのが幸福であってたまるものか。
私が最愛を失った日。ブランノワールの偽物が生まれた日。
たったの数分だ。たったの数分の差で、きょうだいは私を置いていった。兄と姉は妹を守るものだと笑って、たった数分を後生大事に抱えて炎の中に消えていった。
そんな私だけでも、この世界できょうだいのことを諦めたくなかったから。
(私はーーーわたしは、証明してみせる)
溺愛とは。
溺れるように愛するということだ。
溺れてしまって息が出来なくなって、苦しくて辛くて苦しくて、もう二度と空を見れない。そんな死の淵で、最期まで笑っていられるほどに愛するということだ。
かつてわたしは、確かに愛された。
溺れるように、幸せだけを注ぎ込まれて愛された。
この後に及んで、ひとりぼっちで笑えてしまうほどに、愛されたから。
(ねえさまとにいさまの愛を、溺愛と呼ぶのなら)
お前たちに、わたしの愛をひとつたりともくれてやるものか。
はつり、はつりと凍蝶の翅のような睫毛が瞬いた。その瞳にもう、涙の気配はない。
その顔にはもう、弱さなどない。
細い指が、懐から大小の石を取り出してーーー
小さい方のそれを頭上に翳して。美しく絢爛たる檳榔子黒が、その凄絶な青みを増す。
「ーーーーー嗚呼、」
掲げたそれは、陽の光がひとつも透けなかった。
地獄の闇よりも絢爛で、深淵よりも悍ましい、極上の檳榔子黒。
「ねえさま、にいさま」
彼女の最後の罪を明らかにしよう。
彼女は、決して許されざる罪を犯した。決して認められない罪を犯した。
かつて、地獄の淵から生き延びて。彼女の手元に残ったのは、姉のうつくしい黒髪と、黒焦げの死体だった。だから、生き残った最後の怪物は、あの闇医者に持ち込んで。
「愛しているわ」
彼女は、きょうだいで出来た魔石に口付けて囁いた。
嗚呼、そうだ。闇医者の男と繋がりを持ったきっかけは、足の手術じゃない。それよりももっと悍ましく忌むべき理由だ。
彼女は、きょうだいの死体を、髪を使って魔石をつくったのだ。本当は王妃を無縁仏として打ち捨てて、空っぽの葬式を挙げた王を責められやしない。
ブランノワールの片割れのーーーヴィクトリア・ブランノワールの墓は空っぽだ。そこに死体はなく。きょうだいは、小さな石になってしまった。
……魔石には、天然のものと人工のものがある。人工のものは、歴史上幾つかしかなく。作った宝石が魔石になるかどうかの条件は、まだ解明されていない。その魔石の質も一定ではなく、どの条件で質が変わるのかも分かっていない。人工の魔石とは、幾千幾万の死体と失敗を重ねたものであるべき中で。
ころり、と掌に転がった小さな檳榔子黒。
爪先ほどのそれに、莫大な魔力が秘められていると一目でわかる。それくらいの、隔絶した美しさ。
倫理も道徳も遠く投げ捨てて、愛なんて錯覚だと豪語するあの男が「とんでもねぇな」と笑ったくらい、凄まじい奇跡である。
嗚呼、そうだ。
この極上にして絢爛たる檳榔子黒は、文字通り、最上級の愛である。
「にいさまも、ねえさまも。こちらにいらっしゃったのですね」
うっとりと睫毛を伏せて。花のように微笑みながら、女は囁いた。
もう、己の寿命が尽きかけているのを嫌というほど分かっていた。
息をするだけで、爛れるように胸が痛み、何かを考えようとするたびに頭が軋み、じゅくじゅくと内臓が嫌な音を立てて。瞬きひとつするだけで、心臓がひしゃげるのだ。
もう、死んでいないのが奇跡だった。言葉一つ零すだけで長くない寿命を削る。
そんな弱り切った身体で、まともな魔法など使えやしない。
もう冥府の門に身体の半分を突っ込んだような死に損ないが、魔法なんて使えるわけがない。
……いま彼女の手の内にあるのは、兄姉で出来た魔石と、かつての晩、兄から貰ったお揃いの魔石だけだった。もう、それだけしかない。それだけしか残っていない。
ーーーそれだけで、十分だ。
だから。
彼女は、花のような唇を開いて。
ごくり、と躊躇いもなく魔石を飲み込んだのだ。
「ーーーふふ、」
柔らかな笑い声が漏れた。身体の内側が刹那発火したかのように熱くなり、指先まで熱が通る。空っぽだった器が、一瞬にして満たされる。胸の中心でふわりと解けたきょうだいが、魔力となって私の内で溶けて融けて熔けて混ざりあって、ひとつになってゆく。
「嗚呼、なんて気持ちがいいの」
きょうだいが、私の中にいる。
姉兄の愛が、全身を巡っている。
彼女は、力を取り戻した指先で、10年前の誕生日プレゼントを握りしめーーー笑う。
愛とは、選ばれると思わせることだ。
そこがどんな地獄の最前線でも、絶望の淵でも。無数の選択肢の中で、己が、選ばれると思わせた。
疑う余地もなく、躊躇う余地もなく。
無条件に、両腕を差し伸べてくれると。
なんの見返りもなく、その温もりを分け与えてくれると。そう、思わせた。
そんな貴方たちに、愛されていることを知っている。愛というものを魂の底まで教え込まれてしまった。
どうしようもなく愛されて、慈しまれて、守られて。
故に、笑顔で置いて逝かれて、ひとりになって。
たった数分の差で愛された。たった数分の差で、守られた。
産声を上げるーーーその数分で、ひとりぼっちになっても生きて足搔いて苦しんで嘆いて怒って絶望して、それでも生き延びてしまうくらい、本当に愛されたから。
ーーーだから、これは正真正銘の賭けである。
この死の森と共に心中する。
畜生腹の忌み名と悪習と。その怪物たる象徴と共に死んでやる。これからの波乱と絶望と再生の、嚆矢となる。
……これは、眉唾物の話であるが。
人工の魔石には意思がある。もう既に人格はなく、個人としての記憶もない。
ただ、焼きついた意思だけが、美しい光を放つのだと。
そして彼女は、それが正しいと確信している。
アロイス殿下のブローチ……王家の家宝、深碧の宝玉、弟王の右目が、自ずと光を放ち魔法を構成したあの瞬間に、この結末を決めたのだ。
〝俺の姫君〟
……ゆったりと目を伏せて。
この期に及んで思い出すのは。
闇のなかでも輝く、お前の花緑青だった。
十年だ。
気づけば十年も、共にいた。
3人ぽっちの世界だった。兄と姉と妹。それだけで完成された世界だった。
それでも、きょうだいと共に過ごした時より、無防備に愛されていた時より。
気づけば、お前と共に生きた時間の方が長くなった。
かつて、この森で拾ったお前は、人の言葉も知らず、己が人間だとも知らぬただの怪物だった。ジョーカーと名付けた後は、みるみると大きくなって、その言動は優雅になって、知識を重ねて。……己を拾い上げた怪物が成し遂げようとする悪逆を、理解して。けれど、どんな時も私を見つめ続ける花緑青の眼は一切変わらなかった。
ウィリアムだろうが、ヴィクトリアだろうが、名もなきメイドだろうが。
全部ひっくるめて、私の前に跪いた男。その優れた頭脳を、恵まれた肉体を、この国で一番尊い血を、私のためだけに使った男。私の背中を、誰にも譲らなかった男。
女は、音もなく睫毛を伏せた。黒漆扇のように拡がるそれが、花散るような美貌に影をつくり、その凄絶なまでの色気が滲む儚さを際立てていた。
馬鹿だな。と滑らかな無表情なまま、彼女は思った。
私はお前に決して報いてやれないというのに。
愛も情も、この矜持さえ、私の根幹を構成する一欠片もお前に渡してやれないというのに。
非情な女。
薄情な女。
私を言い表す言葉を知っていて、それでもこの生き方を変えることはできなかった。あの晩、怪物であることを選んだのだから、猶更だった。
(まぁ、仮にも腹心と呼んだ男を、守ってやるのも主人の役目か)
力を入れた掌から、凄まじい光が放たれる。
己の死体を残さないことは決定事項だった。
いざ見つかったときに、この身体を暴かれては堪らない。兄姉が守った秘密を暴かれて堪るものか。だから、これはついでだ。
私は三番目の娘。
お姉様とお兄様が命を掛けて遺してくれた、3つ目の矜持。悪逆の双子が愛した、存在する筈のない名もなき怪物。
魂を3つに分けた、その一欠片。
ひとつ、華麗で優美たれ
ふたつ、聡慧で強者たれ
みっつ、高雅で深愛たれ
悪逆たる三つの矜持を、きょうだいに託された愛を証明して。
あの男を縛る鎖も、あの男を捨てた場所も、あの男の未練すら。私がまとめて滅ぼしてみせる。
己の命の残り火を全部焚べてでも、畜生腹を誇ってやり遂げてみせる。
あの男を巻き込んでーーー、
(賭けてみようか、この指で)
男が喰らったのは、三つ子の末妹。
たった指一本でも、確かに彼の内側にある。
そして、いま彼女の内を満たすのはきょうだいの魔力。
三つ子の魔力は同一のものであり。
畜生腹が放つ魔力は、魔法は、何ひとつきょうだいを傷つけることはない。
全力で魔力を爆発させても、己ごとあらゆる生物を皆殺しにするだけで、血肉を、魂を分けたきょうだいには傷一つつけることはない。
「にいさまとねえさまが、私を傷つけるわけがないもの」
ーーー彼女は、己が愛されていることを、知っている。
とうとう純白になる視界で、ほぼ役立たずの耳に、ふわりと何かが触れる。
”愛してるわ”
”愛してるぜ”
彼方の春が、聞こえる。
〝わたしたちのいもうと、かわいいきょうだい〟
〝おれたちのいとおしいリトルプリンセス〟
〝あなたは1番愛情深くて素敵な女の子〟
〝おまえは1番誇り高くて素敵な女の子〟
〝〝高雅で深愛たるブランノワールの最愛〟〟
左右のこめかみでリップ音がした。
ふ、と軽くなる口元が綻んで。
まるで、夜明けとともに春が来たように
楽園を見上げながら、アネモネのように美しい檳榔子黒を咲かせて笑いながら、天国を仰ぎながら。
ーーー名もなき女は地獄に堕ちる。
私は、悪逆の子供。
生まれながらに憎まれ蔑まれ嘲られた畜生腹の、三番目。
ブランノワールの三つ目の矜持。
至上たる姉兄に愛された、唯一のお姫さま。
至高たる兄姉と魂と血肉を三等分に分けた、春のアネモネ。
美しき怪物たちに守られ育まれた、終焉の怪物。
とびきり深く愛された。溺れるほどに愛された。
そのたくさんの愛をこの身で持って証明した。
貰った愛を世界に刻みつけた。
私は、世界で1番幸福な女の子。
私は、世界で1番愛された女の子。
ーーー私は、ブランノワールの三つ子である。




