【6】夜の乙女
質素な部屋の椅子に腰掛ける青年がいる。
悪逆と名を謗られようとも、仮にも大貴族である。
雪花石膏の肌にさらりとした黒髪がかかる様は、滴るような色気に満ちている。扇のように拡がる睫毛は目元に影をつくりーーー王国の街並みを見下ろしている。
黙って、ひとつ、ふたつと瞬きながら。
『愛しているわ、わたくしのきょうだい』
ーーー彼方の春を、思い出す。
ウィリアム・ブランノワールが白樺の少年ならば。
ヴィクトリア・ブランノワールという少女は、夜の乙女であった。
黒真珠を砕いて散りばめたような黒髪に、珠のように光る檳榔子黒の眼。
紅をささなくても淡く色づく薔薇色の頬は愛らしく、艶やかな雪花石膏の肌を引き立てている。
それでいて、はっとするほど美しい黒を身に纏う少女であった。
彼女の眼差しは穏やかで、彼女の声は小鳥の如く軽やかだ。
「愛しているわ、わたくしのきょうだい」
そして彼女は、きょうだいを愛している。
愛情だけでつくられたような、少女である。
ヴィクトリアが知る世界は、ブランノワールの敷地の隅っこにある小さな離れ。
彼女の世界は、彼女と、片割れと、灰色の側仕え。
たった3人の箱庭。3人ぽっちの楽園だった。
「ヴィー」
「どうしたの?ビル」
長い睫毛がはたと瞬いて、いっそ人形のような美貌に血が通る。俺を見るたび、瞳が蕩けるお前を見るのが、好きだった。
「此処は、こうなっている」
「はい。……こうですか?」
「よく出来たな。正解だ」
緩やかに口元が弧を描く。一生懸命に数字を数える灰色の側仕えを見る目は驚くほど穏やかだ。ウィリアムは、手の空いた時間に手習いを教えていた。それは、彼等が離れに隔離されているから出来たことであった。
「あら、ビルに教えてもらっていたの」
「ヴィー」
「お嬢さま」
可憐な声が掛けられた。良かったわね、と側仕えに笑い掛ける姿は、息を呑むほど愛らしい。
さっと頬を染めた側仕えは「ありがとうございました、若様」と辿々しく言って駆けて行ってしまった。小さな背中を、微笑ましく見送る二人である。
さて。
「王宮にアイツを連れて上がったらしいな」
「ええ。それがどうしたの?」
「どうしたもクソもあるものか。侯爵令嬢が、側仕えに子供を連れて行くなんて、何を考えていたんだ」
思わず、詰るような声が出た。だって、当たり前だろう。本当の本当に、巫山戯ているーーー!
「あの魔窟に、何故連れて行ったんだ!本邸から適当に連れて行けば良かっただろう!侯爵令嬢の側仕えが子供1人だなんて、なめられるに決まっている!!!」
だって、そうだろう。1人、大人に混じって連れて行かれたアイツも、家の庇護が薄いことを見せつけた形になったお前も、損にしかならない。本当に馬鹿野郎だ。
「あら。ビルは、あの子以外に命を預けろと言うの?」
微笑は崩れないままだった。いっそ優しい声だった。
「嫌よ、あの子はお守りだもの」
きっぱりと言い切ったヴィクトリアに、少年は苦々しく唇を引き結んだ。
(そうだよな)
知っていた。
お前が、この箱庭をどう思っているか、とっくのとうに気づいていた。
ブランノワールの畜生腹は、これでも嫡出であり、生みの母亡き後再婚しなかった(あのクソ偏屈を相手してくれる女性がいないのだろう)父の血を引く唯一の子供達である。
なのに。側仕えは子供1人。離れには、子供が3人しかいない。必要になったら、本邸から大人が来るだけだ。
本当に、小さい頃から共にいた。真似事でも側仕えとして働くことさえできないくらい、赤子の頃から共にいた。だって、そうでないと畜生腹を生かすことなど出来ないからだ。記憶にない頃から共に過ごしたことで、畜生腹に悪意を向けず、危害も加えない側仕えが誕生した。
そうまでしないと、命の保証はない。
側仕えの子供以外、味方ではない。
そのことを、彼と彼女は、痛いほどに知っていた。
己を取り巻く歪さを知っていて、それでも灰色の子供を手放さないくらいには、子供だった。
だから。
「仕方がねぇなあ」
だから、ウィリアムは。大きく溜息を吐いて、ヴィクトリアの我儘を許してやった。ウィリアムはとっても賢い天才であったけれど、きょうだいの不正解を見逃してやったのである。
彼は用は済んだとドアに手を掛けて。あ、と一つ声を漏らす。
「そういや、お前王宮はどうだったんだ?」
振り向くと、愛らしく微笑んだままのヴィクトリアと目があった。少女はぱちぱちと瞬いて、小首を傾げて口を開く。
「どう……とは?特に何も、」
「何もはないだろう。俺の耳にも聞こえているぞ、アロイス殿下がお前に首っ丈と」
「アロイス殿下が?」
困ったように、ヴィクトリアは笑みの種類を変えた。普通の人間ならば、王子の求婚にヴィクトリアが照れていると勘違いしたかもしれない。
けれど、ウィリアムは知っている。
ウィリアムは、血肉を分けたきょうだいを識っている。
薄っぺらいその笑顔。
いつでも変わらない可憐にして平坦な笑み。
「アロイス殿下って……どなたかしら?」
少女は、柔らかくそう言った。
(嗚呼、やっぱりコイツ……)
ウィリアムは、そっと息を呑んだ。
ヴィクトリアは、他人に対しての興味関心が限りなく薄い。
彼女は、きょうだい以外を区別していない。実の親でさえ、個人として認識しているか怪しいものだ。
ーーー徹底した無関心。何処までも平行線な眼差し。
花が素敵ねと言うように。空が青いわとでも言うように。王子様を見ても、平民を見ても、浮浪者を見ても、死体を見ても。おんなじ顔で笑うのだから、恐ろしい。
きっと、彼女にとって、王子の初恋も、精一杯の告白も、等しく価値がない。小鳥の鳴き声や、川のせせらぎ、虫の声と区別だってついていないだろう。
でも、だからこそ。彼女の残酷なまでの平等さに、無関心が故の優しさに、絡め取られ惚れる人間が続出するのだから、タチが悪い。
でも、ヴィクトリアに覚えられてさえいないアロイス殿下を知りながら。誰も視界に入ってさえない有象無象を知りながら。これ以上なく深く満たされるのだから、ウィリアムも愚かな少年だった。
「どうしたの?ビル」
「いや……お前が心配になってな」
ヴィクトリアは、人間に必要なものが欠けている。
獣よりも、鳥よりも、心というものが欠けている。
どうしようもなく元からなくて、生まれながらに不完全だ。
ヴィクトリアの心を動かすのは、ヴィクトリアの世界に存在するのは、きょうだいだけである。ヴィクトリアが行動する理由になり得るのは、きょうだいだけである。
「きょうだいがいるからいいの」
無邪気な顔、無垢な声。
つるりと光る檳榔子黒が、胸を裂くほどに美しい。
お前が、そんな顔でそう言ったから。
お前が、そんな目でそう言ったから。
同じ顔、同じ色。それでもお前が言ったから、俺は。
(ーーー仕方がないよなぁ)
きっと。
お前の手を離せないことが、俺の悪逆だった。
「ヴィー」
「なぁに?ビル」
だからあの晩。絶望と悲劇に満ちた地獄の淵で、俺は、俺たちは。
『にいさまぁ!』
悲痛なお前の声が、耳から心臓を貫いた。
この期に及んで。お前は俺を兄と呼ぶのか。
背中の灼けつくような痛みも、流れる命の雫も。刹那、全て忘れていた。
反射的に息を詰めて、少女を凝視して。
お前と同じ檳榔子黒がまあるくなりーーー美しい光を宿して、笑う。
ずっと、ずっと。強請っても、兄と呼んでくれなかったくせに。
狡いだろう。お前にそう呼ばれたら、俺は兄を全うするしかなくなった。お前にそう呼ばれてしまったら、俺は兄であり続ける以外の選択肢は無くなった。
視線を交わすーーー檳榔子黒の眼が交差する。
そっくりそのまま同じ目が、俺を見ていて。
その瞬間、俺たちはどうしようもなく通じ合っていた。どうしようもなく、理解していた。
片割れも、同じことを考えていたと察していた。
同じ顔。同じ色。俺の片割れ。俺の唯一。
蔑まれ憎まれるべき畜生腹。どちらかが死んでおくべきだった、悍ましき双子。
ーーー違う。
俺たちはそんなこと、たったの一度も、思ったことなどなかったのだ。
だから。この選択が、どれだけ残酷だと分かっていても。この先が、救いなど一つもない地獄の道だと知っていても。
この愛に間違いはない。
俺たちの地獄に、後悔はない。
俺のきょうだい。
俺のーーーいもうと、
彼はきょうだいを愛している。
誰よりも聡明なくせに、誰よりも理性的なくせに。
彼は正解を選ばなかった。唯一になることを選ばなかった。
理屈を超えて地獄を選んだ。
人生掛けてでも愛した唯一無二。
彼にとって、きょうだいは本当に。
命よりも矜持よりも、本当の本当に特別であった。
「愛しているぜ、俺のきょうだい」
ーーーだから、彼はその手を離したのだ。




