【16】最後の涙
チチチチ、と遠くで鳥の音がする。
静かな顔をした女は、もうイカれてしまった耳を肩につけた。確かに彼女の身体は死に近づいてきている。
音は遠く、視界は縁【ふち】が暗いのに、中心はほぼ白飛びしているようである。嗅覚も触覚も味覚も……五感のほぼ全てがダメになった。もう、己の手すら満足に動かせない。それでも。ブルブルと痙攣する腕を、歯を食い縛りながらゆっくり持ち上げて。
首元に、爪を立てる。
「……い、たい」
ぽろ、とその眼から一滴が零れた。そして、一度決壊したそれは、次々と溢れ出てくる。
「いたい、……いたいぃっ」
顔をぐしゃぐしゃにして、しゃくり上げながら女は泣いた。
痛かった。ずっとずっと、痛かった。
首元の痕は、何もせずともジクジクと痛み、白粉で塗りつぶすために触れることさえ、喚き散らしたいほど痛かった。この足は真っ赤に熱された太い針が神経の内側からびっしりと突き刺さっているようで。メイド業で焼けた肌を脱色するために塗った白降汞さえ、身体を狂わせ吐き戻すくらい辛かった。
……復讐の為に治安の悪いところへ行った。敵討ちの為に、後ろ暗い連中と取引を重ねた。
……全部、本当は恐ろしかったの。策を巡らし、ひりつくような腹の探り合いの中で相手を動かして。一歩でも間違ったら奈落の底のような世界で、勝者であり続けなければいけないことも怖かった。何より、正解が分からない道で、ひとり歩き続けることが心細かった。
ーーーそう。私、がんばったの。とっても、頑張ったのよ。
「ねぇさまぁ、にいさまぁ」
ひくりと喉を鳴らしながら、姉兄を呼ぶ。
音も吸い込むような深とした森の底で、彼方の春を呼ぶ。ぼろぼろと大粒の涙を流して、もうほぼ死んでしまった視界で懸命にあたりを見回して。うわん、と響く呼び声の残響が消えてから。
喉が鳴り、心臓が引き絞られるように痛んで。
「ーーーなんで、迎えに来てくれないの?」
血を吐くような声で、慟哭した。
(早く……早く、助けを呼ばなきゃ。……にいさまが)
かつての悪夢の話である。
少女は、脳裏に焼きついた血濡れた兄の姿に、じわり、と滲んだ涙を拭う。その手から、血の匂いがした。にいさまから流れた赤だった。噎せ返るような血の匂いと、蒼褪めた兄の顔に追い立てられるように足を早めて。
「……、ここ、は?」
かたり、と小さな音を立てて蓋が外れた。暗闇の中で首をめぐらせて、少女はひとつ瞬く。人気のないそこは、もう既に火が落ちたキッチンである。
ゆっくりと辺りを伺いながら、足を踏み出す。
(ここがキッチンなら……もう出口は近いはず)
足音を忍ばせて。机の端から覗く棒を跨ぐ。
ーーー暗闇の中で、ぬらぬらと血走った眼球が光っていた。
「アッッ!!!!」
「あ゛~、流石貴族様だ。旨い酒で、つい飲んじまった」
「はなっ、はなして!!!」
身を翻して駆けだそうとする少女のお下げ髪を荒々しく引っ掴んで、男は大きく欠伸をした。そのまま、「おうい、餓鬼を捕まえたぞお」と力づくでキッチンから引きずりだした。容赦なく引っ張られる痛みと、プンと香る酒臭さに少女は呻く。
「本当か!ーーーおいおい、このガキ、メイドじゃねえか。俺たちが殺すべき畜生腹は貴族のガキだぜ?」
駆けよってきた男が眉を寄せる。松明の炎が揺れ、少女の痛々しい姿が浮かび上がる。覗き込んで、怪訝な声が上がる。
「……にしても、なんでこのガキ血濡れなんだ?」
「ッッーーーー!!!!!」
「ッ痛ェ!!!!!」
反射的に、髪を握る男の手に嚙みついた。突き飛ばされ、床に打ち付けられて……跳ね起きて駆けだした。怒りに血走った男が剣を振りぬき、危機一髪で髪が斬られる。
「おいッ、こいつ嚙みつきやがった!!!待て、このクソガキがァ!!!!」
「ギッッ!!!!!」
男と子供の差だ。あっという間に追いつかれ、容赦なく腕を振りぬかれる。軽い体が吹き飛んで、壁に叩きつけられて。ウーウーと呻きながら、立ち上がることもできない子供の胸倉を掴み上げて。
「ふざけてんじゃねえぞ、コイツ!!!」
「ーーーーーーーッ゛ッ!!!!」
「ははっ、うるっせえの」
喉から迸ったのは、罅割れた絶叫であった。獣の断末魔のような悲鳴であった。
(いたい、いたい、痛い!!!!)
薄れる視界に、にやにやと笑う男たちが映る。ジゥ、という鈍い音と、己の肉が焼ける臭い。頬から首にかけて貫くような痛み。
それは、少女が初めて対面した悪意だった。少女が生まれて初めて感じた恐怖だった。
今までどうしようもなく、守られていた。これ以上なく、護られてきた。でも、何が何でも守り通してきた兄姉はここにいない。
少女は喉が裂けて血が滲むくらい絶叫して、
「おい、どうする」
「気絶したのか?」
ぱたり、と止んだそれに男のひとりは松明を少女から離して首を傾げる。前髪を引っ掴んで持ち上げてーーー恐ろしいくらい伽藍洞で、それでもなお美しい、極上の檳榔子黒と視線が合った。
ごくり、と男の喉がなる。節くれだった手が、虚ろな少女に伸ばされて……、
「なァ、こいつ」
「嗚呼……売れるな」
「いいもん持ってんじゃねえか、嬢ちゃーーー」
視界が、真っ白に染まる。
……気づけば、少女はひとりだった。
見渡す限り、紅蓮の業火。炎が渦を巻き、壁も扉も所々砕け散っている。まるで、巨大な炎嵐が吹き荒れたような有様である。
少女に、痛々しい火傷以外傷ひとつない。
己を掴んでいたはずの男は、その横からにやにやと覗き込んでいた男は、影も形もない。その炎は、少女の身体を撫でるようにーーーそれでいて、ひとつも燃え移ることなく、守るように取り巻いている。
ふらり、と少女は足を出した。頭の中は真っ白のまま。けれど、
(にいさまが……)
それだけが、彼女の身体を突き動かしている。ひとり、もう骨格しか残っていない玄関をふらふらと抜けて。
「生き残りがいたぞ!!!!!!おい、大丈夫か!?」
温もりに抱き留められた。見上げると、心配そうな顔をした青年が覗き込んでいる。辺りは騒がしい。誰かが「ひどいけがだ!」「おい!火事がおさまらねえぞ!」「水を持ってこい!!!」と叫んでいる。「大丈夫だからな、君の名前はなんだい?」と落ち着かせるように呼び掛けた青年の袖が引かれる。
「ん?」
小さな手が、縋るように、袖を握って。彼は、反射的に腕の中を見下ろす。
短い黒髪に煤けたメイド服。炎を反射して輝く、檳榔子黒の瞳を持ちーーーその広範囲で色が変わった皮膚が痛々しい少年を。
「ウィリ、アム………」
掠れた声で告げて、その意識は深い海に堕ちてゆく。
(ウィリアム・ブランノワールを、たすけて)
「ん!?君の名前か!寝るな!!……おい!この坊主、ウィリアムっていう名前らしいぞ!!!!!この子の治療を!!!!!」
「……おい、そういやウィリアムってあの噂の畜生腹の名前じゃないか?」
「はぁ!?まじかよ!俺触っちまったよ」
「うわっ。おいお前俺に近寄るなよ。そこに置いとけばいいんじゃないか?誰か治療するだろ」
「そうか、そうだな。転がしとくか」
(にいさまを、にいさまとねえさまを誰か)
極限状態にあった彼女の意識は深く、深く落ちてゆく。
己がウィリアムと勘違いされたと思いもせずに。メイドのふりをして逃げ出してきた嫡男だと勘違いされるなど、思いもせずに。生存者の少年として、アロイスに報告されるとは、欠片も予想せずに。
彼女が目を覚ました時……畜生腹だからと、誰にもまともな治療をされないまま、性別がバレないまま、彼女は彼になって。彼女に遺されたのは、全焼し真っ黒になった廃墟と、黒焦げの死体がひとつ。
「ーーーなんで、にいさまとねえさまは、褒めに来てくれないのおっ!」
頑張った。頑張ったのよ。
いっぱい頑張ったのに、なんで褒めにきてくれないの。
身も世もなく泣き果てながら、女は言った。
涙が止まらなくて、瞼がはれぼったくて、鼻が染みて、頭が痛くなって。
それでも、駆けよってくれる足音はない。頑張ったねと思いっきり甘やかしてくれる人はいない。
あの晩。あの屋敷にいたのは3人。
生き残りはひとり、黒焦げの子供の死体が一体。
数が合わない。計算が合わない。
ーーー彼女は、当然のごとく。(兄さまたち、逃げることができたんだわ)と思ったのだ。
にいさまかしら。ねえさまかしら。
いや、でもねえさまが手負いのにいさまを置いていくわけがない。きっと、誰かの死体を仕立てあげて、ふたりで逃げることができたのよ。
(だったらどうして……怖かったねって出てきてくれないの?)
「ひとりにしてごめんなさいね」「怖かっただろう……頑張ったな」って、ひょっこり出てきてくれるはずなのに。いくら焼け跡で待っても、にいさまとねえさまの声は聞こえない。瓦礫が積みあがった影から、「遅くなってごめんなさいね」「もう大丈夫だぞ」と顔を出して迎えに来てくれることもない。
(……なにか、何かあったのかしら。あれだけ大きな衝撃だったもの……もしかしたら、怪我をして動けないのかも……いいえ、川に流されて記憶を失ってるかも)
彼女は、次いで、兄姉を探すことにした。
嫡男の名のもとに領土全域、貴賤問わずに教育を広げて、「檳榔子黒の瞳を持つ子供がいたら連れてこい」と命令した教師を送り込んで。
それでも、いくら待っても「怪我がひどくて、待たせちまってごめんな」「わたくしが小さなお姫様を忘れるなんて……!嗚呼、ほんとうにごめんなさい。もう独りぼっちにはしないわ!」と抱きしめてくれる人はいなかった。見つかったと報告が上がることも無かったのだ。
(………わかったわ。こんな世界だから、きっとねえさまもにいさまも出てこれないのよ)
畜生腹であるだけで、あんな悍ましい悪意を向けられた。生きることを許されなかった。
にいさまとねえさまは本当に、優しいから……傷ついてしまって、隠れてしまっているだけよ。
(そうだ。そうに決まっている。こんな王家と世界のせいで、にいさまとねえさまが)
だから。アロイス殿下を苦しめて苦しめて苦しめて、アロイス殿下が地獄の底で足掻きながら畜生腹の改革を成し遂げようと、心が折れて王家が潰れ地獄を彷徨おうと。どちらでも成り立つように仕立てあげた。
わざと、美容を謳って身長を伸ばしたり顔の形を変えたりと後遺症の可能性や危険性が高い医療を広めた。鉱毒が川を大地を王国を汚染させるために魔石の利用を広げ、魔道具を生み出し貴族から庶民まで使うように開発して。身体に害をもたらすシェールグリーンの生地で流行を仕掛けた。麻薬を混ぜた煙草も、畜生腹の迫害も、政治対立も、貿易摩擦も、革命の火種も、隣国の政情不安も、貴族同士の殺し合いも、人身売買も、ありとあらゆる全部を仕掛けてみせた。これから千年の地獄をつくったのだ。
(………どこにいるの、私のきょうだい)
愛していた。
どうしようもなく、愛していたの。
幼い頃。彼女は劣等感と卑屈さに塗れていた少女だった。同じ血肉を、魂を分けたきょうだいが、貴族として華々しく過ごしているのに。自分と言ったら、小さな離れで、細々ときょうだいの世話をする(といっても、あの妹を溺愛するふたりが大層なことをさせなかったけれど)だけの、薄汚いメイドだった。一方的に守られるばかりだった。同じ日に生まれたのに、与えられるばかりだった。その薄暗い感情が、棘となって現れなかったのは、確かに愛されていたからだ。どれだけ複雑な感情を抱こうとも、愛されていることを知っていたから。きょうだいのことはこれっぽっちも嫌いにはなれなかった。
〝ねぇ、可愛いわたくしのアネモネが、わたくしのことをお姉ちゃんって呼んでくれたら、王宮でも頑張れると思うの〟
〝嗚呼、ありがとう。助かるよ、俺の小さなお姫様。……え?恥ずかしい?なぁ、俺のことも、兄と呼んでくれていいんだぜ?〟
痛いほどに立場の違いを分かっていた。貴族の子供と、最下層のメイド。決して、あのうつくしい人たちを、兄姉と呼ぶことは赦されないと知っていたから。
〝お嬢さま〟
〝若君〟
ずっと拗ねていた。その呼び名は小さな反抗心だった。でも、貴方が、貴方たちが。己を取り巻く理不尽に怒って拗ねていた、甘ったれな天邪鬼を。
〝愛しているわ、わたしの妹!〟
〝愛しているぜ、おれの姫君!〟
詰まらない私の全てを飛び越えて、そう言って蕩けるように笑うから。幸福を形にしたように笑うから。
(ねえさま……にいさま………わたしの、きょうだい)
かつて与えられたものも、場所も、決して満たされたものでは無かったけれど。ひとりになった方が、明らかに良いものが与えられたけれど。
それでも、私には貴方達がいた。
私のきょうだい。
私の愛しき姉と兄。
2人とも、定期的に親に呼び出されては、疲弊して帰ってくるのが常だった。スコンと表情を落っことしたかのような滑らかな無表情に、毛羽立つ感情を僅かに滲ませて。それでも、小さな少女を見つけた瞬間に。
「ーーーおいで、」
嗚呼、あのときの、きょうだいの顔といったら!
微かな苛立ちなんて一瞬で消えてしまったみたいに。きょうだいだから分かる僅かなささくれも、まるで元からなかったみたいに。
蕩けるように、綻ぶように、花開くように。本当に、溢れんばかりの愛情に満たされた顔で、甘ったるく笑うから。
(どうして、)
抗いようもない、孤独という名の傷を抱えながら。
女は、少女のような顔で泣いていたのである。
あと1話です




