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【15】怪物の孤独

「わたしの矜持がお前に分かると?」

「私は、貴女の執事でございますから」


鼻で笑った彼女を見上げて。優しい声で、ジョーカーは言った。それは、彼女が思わず口を噤んでしまうほど、情に満たされた声だった。


(ジョーカー……私の、切り札【・・・】)


寂しそうな顔で笑うお前が、どうしても。

彼女は、腹心たる執事を見下してふと思う。


ジョーカー。愛のために自由を捨てた私が得た唯一の腹心。

彼は確かに彼女を守り抜いた。自分勝手に駆け抜けて生き急いだ彼女の背後にぴったりとくっついて、文句も言わずに無茶なオーダーを完璧にこなし続けた。


……もし、お前が一度でも妨げたのなら。少しでも私の意志を否定したのなら、きっとその時点で、私はお前を切り捨てていた。


(いっそ、命令通りに動くのなら、人形でも良かったくらいだもの)


だって、そうだろう。

彼女に助言など必要ない。彼女により良い明日など必要ない。

終わるための旅である。正しく死ぬための十年だった。


そこまで思って、彼女は細い喉を鳴らす。

重い睫毛がゆったりと伏せられ、その瞳が瞼に隠れる。


(……嗚呼、本当に、ほんとうに、お前は)


なのにお前は、黙って私の言うことを聞くのだから、堪らなかった。お前の有能さをどうしようもなく殺すことを知っておきながら、裏切ることもなく、他の家に仕えることもなく。……不正解を選び続ける主人に、提案も、反対も何ひとつ口にせず。

ただ、十年共にいるためだけに。まるで人形のように、死出の旅に付き従った。


「……本当に、お前は、馬鹿な男だな」


掠れた声に目を丸くして。一拍置いて、破顔した愚かなお前が、まるで子供みたいだったから。満たされきった顔を、していたから。


(きっと、私に出会ったことが、お前の不幸だった)


だから。だから、アネモネと呼ばれた女は。


「最後の主命を与えるわ。……わたしを置いて、西方のアルムという街へ行きなさい。」


笑って、己の切り札を手放すことを決めたのだ。


「ーーーは?」


刹那、一気にジョーカーの顔色が変わる。

無邪気な笑顔の残滓など欠片もなく。先ほどまでの幸福など一つも残っていない。弾かれたように立ち上がり、愕然と主人を見下ろしてーーー、一瞬にして、ぐわりと一気に瞳孔が開く。


「どういうことです」


森の中の闇を打ち払うように。爛々と瞳を光らせた男が、唸るように言った。獣さながらの殺気で睨み据えられた女は、平然とした顔で「聞こえなかった?」と言った。


「お前1人で、アルムへ行けと言った」

「嫌です!!!!!」

「私に、三度目を言わせるつもりか?」


冷ややかな声に、頰を張られたような顔で頭を引いた。見下ろした女は、あまりにも小さい。身長を無理やり伸ばそうとも、弱りきった身体はあまりにも生気が薄かった。


でも、それでも。

風に揺れる貴女の髪は、星を溶かした夜の海のようで。滑らかな氷肌は、夜露に濡れた白百合のように儚い色気を醸している。その輪郭は、女性らしい滑らかさが削ぎ落とされてなお、凄絶なまでに美しかった。


「主人……」

「なに」

「俺の……… おれの、姫君」


ふらりと伸ばした手が、貴女に触れた。

貴女は俺を避けなかった。静かな光を湛えた檳榔子黒は、漆黒よりも華やかで、純黒よりも気品があった。痩せ細って、今にも折れそうな肢体を掻き抱いてーーーそれでも、氷のような身体の奥に、微かな温もりがあることを感じて。



心臓が、直接握られたかのように、苦しかった。視界が歪んで、臓腑が捩れて、喉の奥が引き絞られて。


光を放つ深碧の眼が、ゆらりと揺れる。


なぁ。ひどい。酷いだろう。

とびきり人でなしすぎるだろう。

十年。十年も共にいた。十年も、お前に付き従った。その十年の結末がこれだなんて、認められるものか。


「俺は、……貴女と離れるために、この十年を過ごしたわけじゃない」


反論のひとつも言わず。意見のひとつもしなかった。破滅へと向かうお前に、黙って付き従った。


「貴女に置いていかれるために、ここまで着いてきたわけじゃない」



隠し隠し、息を潜めるようにして過ごした。

そんな十年だった。



「………アンタのせいだ」


静まり返った孤独の世界で。言葉すらも分からない愚かな化け物に。人であることも知らない独りぼっちの怪物に。お前が、お前だけが。


「俺に温もりを与えたくせに!!!!!」


出逢ってしまったのだから諦めろとそう言って。

誰よりも美しくお前は笑った。誰よりも傲岸で傲慢に、悪逆たる正しさで怪物の前に立ちはだかった。


眩しいまま、美しいまま、正しいまま、お前は最後まで駆け抜けた。

傲岸なまま、傲慢なまま、それでも寂しいままに、

たったひとりでお前は逝こうとしている。


「お前が、俺をっ、おれをっ!人間にしたんだろう!!!!!」


俺は当初、それが人間だとは知らなかった。

二本の腕に、二本の足。五本に分かれた繊細な指に、ハッとするほど細い胴、今にも折れそうな頸に乗る頭は、あまりにも完璧な造形品であった。あまりにも美しい、高貴たる黒を身に纏う人間だった……。嗚呼、そうだ。何もかもが初めての姿だった。怪物が知らないそれだった。

怪物に言葉はなく、感情はない。それを生かす因縁も、殺さない理由も一つもない。


ただ、その小さな顔に嵌まる。

檳榔子黒の双玉が、あまりにも美しかったから。


死の床から起き上がり、死の森にたった1人で踏み入って。

言葉も由縁も己を取り巻く因縁も知らない、緑の目の怪物に手を差し出したのはお前だった。お前がついぞ得られなかった人間としての名前をつけ、何よりも身近に置いて温もりを教えた。


輝くような金髪に灰を被せ、己が矢面に立つことで隠し通した。


ーーーかつて守られた己をなぞるように、彼女は怪物を護ったのだ。


「ジョーカー」


反射的に顔を上げる。

視界に映る貴女は、優しい顔をしていた。向けられた事のない、顔だった。細い指が伸びーーー俺の顔に、触れる。


「畜生腹の、王子様」


純金でできたかのような髪は、光を散らしながら輝き、美しい深碧の瞳は宝石を嵌め込んだかのような美しさである。王国で、たった数人しかいない色だった。


同じ顔、同じ色。

けれど、どうにもあの男とは違う青年だった。


嗚呼、そうだ。


守られた女の子と、捨てられた男の子。

人間を捨てた怪物と、人間になった怪物。

選ばれた末妹と、選ばれなかった王子様。


いいえ。違う。ーーー違う。


わたしは愛されていた。どうしようもなく守られていた。この人生に春など来ない。わたしの最愛がいない世界で、春なんか来てたまるものか。


(ーーーこの男、どこまで分かっていたのか)


かつて女は、青年にジョーカーと名をつけた。その場にトランプがあったのは偶然だが、切り札と名付けたのは必然である。


(本当は、キャスリングをしようと思っていたけれど)


キャスリング。チェスの用語でありーーーキング(王)とルーク(城砦)の場所を入れ替える技である。そうだ、本当は。畜生腹への悪感情を煽るだけ煽った末に、アロイスの代わりにジョーカーを送り込む予定だった。ジョーカーに王太子の座を乗っ取らせて、代わりにアロイスを最下層で這いずり回らせる。己が正統な王太子だと主張しても誰にも信じてもらえず、寧ろ完璧な王太子を引きずり下ろそうとする賊だと思わせて。もう二度と届かない玉座を地獄の底から見上げさせ、王太子の畜生腹を名乗り貶めようとする罪人として苦しめるつもりだったのに。


(お前が、私に黙ってついてきたから)


ポーンがクイーンとなるように。平凡だった少女は盤面を全て支配して君臨してみせた。キングではなく。クイーンとなったポーンを、ルークは守り続けたのだ。


(ーーー十年だ)


十年、十年も共にいた。

最愛と共にいた日々より、お前と共にいた年月の方が長くなってしまった。かつての幸福より、お前と歩んだ地獄の方が馴染んでしまった。


穏やかな無表情のまま、その羽のように広がる睫毛の先だけが、霞むように震えて。


ゆっくりと。ジョーカーの顔をなぞる指先の下で、傷が生まれ治される。傷跡が、白い指先を辿るように長く線を引く。


痛みはない。

ただ、二度と消せない傷跡が刻まれて。


「あら、まぁ。醜い化け物だこと」


お前を王子様だなんて。冗談でも言ってやるものか。


「貴方は、二度と王宮に行けないでしょう。もう王太子に成り代わることは出来ず、貴方が手に入れることが出来たであろう居場所を、取り戻すこともできない」


その傷は。アロイスとジョーカーという青年を、明確に区別していた。誰もが、彼等を見間違えるなんてことはあり得ない。もう二度と。



「……ほんとうに、似ていない顔だこと」



花のような唇から溢れた声は、涙が出るほど優しかった。そのよく似た顔で、己を殺し、世界を騙し抜いた女は、せせら笑う。


瞼の裏に蘇る。

かつて向けられたお姉さまの春の微笑み、お兄様の柔らかい眼差し。天高く伸びるあの日の炎、振り上げられた鉈と斧、笑いながら押し付けられた松明の炎。生き残った私に向けられる目、王の憎たらしく澄ました面、貴族たちの悪意と蔑みが滲む笑み、アロイス殿下の憎悪に塗れたその、表情。


輝く金髪を灰でくすませて、遊戯に負けては本気で拗ねて、やろうと思えば完璧なくせに生意気な口を叩いて。足を伸ばす手術も、煙草も、麻薬も、肩に届かないくらい短い髪も、火傷痕を隠す白粉も。もう止めませんかと言わなかったくせに、駄目ですと一度も言わなかったくせに。食事を抜くことには怒って、完全栄養食という名のありとあらゆる薬草をぶち込んだゲテモノを作り出して飲ませては。〝ジョーカー〟と、私がお前の名を呼ぶたびに、花緑青に、とっくの昔に喪った春の光が差したのだ。


(嗚呼、畜生、ちくしょう!)


お前が悪い。

この私に、不正解を選ばせた。私に、その花緑青を、苛烈な深碧を惜しませた。

あの憎たらしい王太子のそれではなく、王家のそれでもなく。お前の深碧が美しいと思ってしまったのが、お仕舞いだった。


私はこれまで、置いていかれる側だった

ブランノワールの3人目を知る人間は、もうお前以外いなくなった。 

だから。他人の中に、当たり前に己がいてーーーそれがこの世から喪われる痛みを私に教えたことが、お前の致命傷だった。


「ざまぁみろ!」


瞬間、咲いた花をなんと喩えよう。

世界中の音が消えるほど、美しい笑みだった。

あらゆる色が褪せて霞むくらい、綺麗な笑みだった。

絢爛で凄絶で清廉で凄艶で透明で満たされきった笑みだった。


どんな激情も一瞬で醒めるほどの美しさ。

人を殺せるくらい、どんな春も霞むほどの美しさだった。


「………、」


は、と短く息を吸って。ジョーカーは己が息を止めていることに気がついた。涼やかな眼は、深碧に輝くまま。黒と白が引き立て合うように美しい女を見下ろして、ぐしゃりと、紙を丸めたかのように顔が歪む。


「……、…………、」


唇が動くが、声は出ない。

彼は知っていた。彼の姫君は、己の最後を決めてしまった。己で自分の終わりを定めてしまった。


柔らかな木漏れ日が差し込む中で。

死の影をベールのように纏う、うつくしい、女。


俺の姫君は、ほんとうに頑固で、悪逆で、こうと決めたら頑と動かなくて、甘くも優しくもなくて、振り返ってもくれなくて。……それでも、その背中から目が離せないくらい、眩しいから。


「ジョーカー」


伸ばされた花のような手が、柔らかくその頬に触れて。


「私のどこか、お前にくれてやってもいいわ」


と彼女は笑った。

私の死も、同じ最期もくれてやれないけれど。まだやることがあるのだから、全部はあげられないけれど。最期にこれだけはくれてやれる。

これだけで、お前が死ねなくなるのなら。私の欠片を持ったお前が死ねない理由になるのなら。


ジョーカーの瞳が戦慄いて、静かに、その長い睫毛が伏せられる。

白手袋が指先から抜かれ。筋張った大きな手が、小さな手を取る。

ぐぅっと喉が鳴る。頼りない手だった。細い指だった。どんな刃からも守ると誓ったそれだった。嗚呼、そうだ。王国を引っ掻き回して幾多もの絶望を置き土産に笑った彼女は、こんなに小さな手をしていたのに。


押し戴く用に、彼女の左手を掬い上げ。口付けをするように唇を寄せて。


ーーーガリリ、


鈍い音がした。一瞬で、口の中が血の味に染まる。視線だけで見上げた先の美貌は、花が零れるように綺麗なままだった。


「……姫君」


喉を動かし、彼は口を開く。

全くもって、正気の沙汰ではない。


女の血で満たされた口、女の肉の味を知った舌。

そこに躊躇なんてひとつもなく、後悔なんてひとつもない。反射と言うには思考があり、本能というには覚悟があった。そして、一際輝く深碧が見つめる先は。


ーーー指を喰い千切られてなお、女はうつくしく微笑んでいる。


「俺以外にくれてやったら、死の果てまで追いかけて、そいつを殺すからな」

「ふふ、それは楽しみね」


弾けるように軽やかな笑い声を立てて。

彼女と彼は笑い合う。

彼女は、そうして。

座り込んだまま。立てないまま。木々、の間に消えた青年の背中を見送って。



ーーーひとりに、なったのだ。




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