【14】アネモネの証明
「ふふ、気づいていたの」
ジョーカーを目の前にして、冷ややかに女は笑った。その表情は既に、ヴィクトリアのものでも、ウィリアムのものですら、ない。
嗚呼、そうだ。
あの王太子の視界には入っていなかったのだろうけれど。
かつて、アロイスが「ラースの花畑」を告げた場にいたのは、ヴィクトリアだけではない。
当たり前だ。王太子と貴族令嬢の茶会である。
周囲には側仕え達が控えていた。その中でひっそりと立っていた、小さなメイドがいた。
生まれながらにして存在を抹消された女の子。
髪に灰をまぶし、前髪で檳榔子黒を隠した女の子。
悪逆の双子が、命を投げ捨ててでも守り抜いた三番目。
それがゆえに、彼女は生き延びた。
それがゆえに、彼女は全て欺いた。
黙ったまま己を見上げ続ける男の目の前で、凍蝶の翅のような睫毛がゆったりと動く。
「そう。お前でなければ、殺していたわ」
ーーー刹那、地獄の闇より深く、深淵の闇より悍ましい、絢爛たる檳榔子黒が顕現する。
「ありがたき幸せでございます。ではなぜ、ここまでされたのですか?」
普通の人間なら恐れおののき二度と直視できないだろうそれを受けて、青年の顔は静かなままだった。ただ、ひたむきなまでに、一心に己の主人を見上げている。
「様々な苦難もございました。己の身を痛めつけてまで……」
苦し気な眼差しを鬱陶しそうに振り払って、女は瞳を伏せた。
(………煙草がほしいな)
そう思って、もう必要ないことに気づいて苦笑する。
嗚呼、そうだろうとも。
ジョーカーの言う通り、女が生きてきた道は、並大抵のそれではない。
隠し道から出たときに、男たちに見つかって……笑いながら首元に押し付けられた松明の痕は、今でもかつての苦しみを忘れるなと。そう、主張し続けている。
だから女は、緩やかに目を細めながらーーー笑う。
「愛を証明する。これ以外の理由はないわ」
少女は平凡な娘であった。勘違いするまでも無く、普通の少女であった。
姉のように圧巻のカリスマ性もとびきり優れた武才も無く。
兄のように全てを支配し数百年の時代を進める圧倒的な智慧も謀略の才も無く。
姉兄に愛された畜生腹の女の子。ただ、それだけしかなかった小さな娘だったのだ。
嗚呼、けれど。
王子様の恋によって姉兄が殺されたように。
王家の傲慢によって楽園が壊されたように。
国民の信仰によって最愛が奪われたように。
彼女は、愛の名のもとに全てをやり抜いた。
弱いままで、平凡なままで。
憎くて恨めしくて悲しくて苦しくて怖くて惨めで腹が立って哀しくて悔しくて打ちのめされてーーー寂しくて、彼女はやり遂げた。
「答えを言ってあげるけれど。……私に名前はないわ。つけられたことがないもの」
幼いころ。私がいたのは三人ぽっちの世界だった。
ヴィクトリアとウィリアムの最愛の妹。可愛いアネモネ。小さなお姫様【リトルプリンセス】。最愛の姉兄の妹は、私一人。兄姉が妹と呼ぶのは私だけ。それだけで、十分だったのよ。
けれど。目の前のお前が。頬を叩かれたような顔をしているものだから。
女は思わず笑ってしまった。
「そう、なのですか。……名前がないのは、不便ですね」
「そんなことは無いわ」
「では、私は何と呼べば?」
「好きに呼びなさい。それくらいーーー許してあげる」
では、とジョーカーは貴人を押し戴くかのように、細い手を下から掬いあげた。
「仰せのままに、俺の姫君」
薄い唇が、手の甲に押し当てられた。女は、それを静かな眼差しで見ているだけだった。
彼が身を起こすと同時に、儀式じみた雰囲気が霧散する。興味深そうな顔をして、
「そういえば、なんで殿下のことをあんなに嫌っていたのですか?」
とそう聞いた。
女はぱちくりと瞬いて、噴き出すように笑う。
「別に、嫌ってはいないわ」
「そうですか?それにしては……」
傍から見ていて、彼女のアロイス殿下への感情は、並々ならぬものがあった。
だって、発端はアロイス殿下の我儘だったとはいえ。直接暗殺命令を出した王へは、側妃殿下をうまく乗せたーーーもう足が弱り切っていたとはいえ、他人に譲る程度の復讐だったというのに。殿下には、やけに念入りに心を叩き折って丁寧に踏みにじって、己の手で地獄に叩き落していた。歩くどころか、もう立つのも難しかったのに、アロイス殿下を苦しめ後悔させるためだけにあの場所に立っていた。
「ええ、本当よ。ただ、あの男……」
檳榔子黒がみるみると吊り上がり、その滑らかな額にいくつもの青筋が浮く。浮かべた笑みは、凄絶なまでの気迫を宿している。
思い出す度、臓腑が煮え立ち、烈火のごとき激情が身の内を焼く。
かつて、アロイスは恋をした。
国内中の貴族令嬢を集めた園遊会で、ヴィクトリアの美しい笑みに心を奪われた。
シンプルなドレスを着た黒髪の少女が、側にいる灰がかった髪の側仕えに何事かを話しかけて。
『皆さん、とても華やかだわ。……貴女も流石に疲れちゃうでしょうから、早めに帰りましょうか』
『まだ疲れていません。…………あと、お嬢さまが、一番綺麗で誰よりも素敵ですからね』
はた、と瞬いた絢爛たる極上の檳榔子黒が、やわらかく光って。
蕩けるように。
融けるように。
明けるように。
解けるように。
うつくしい蜜色の光を燻らせてーーー笑う。
『まあ、わたくしのアネモネはなんて可愛いの』
彼女は、最愛の末妹に微笑んだ。
慈愛に満ちた笑みだった。
愛情に蕩けた笑みだった。
幸福を形にした笑みだった。
ーーー嗚呼、そうだ。お前が一方的に惚れたそれは。
お前のものじゃない。
お前なんかのものじゃない。
私に向けて差し出された愛だけは、何があってもくれてやるものか。
「愛されているのは私だというのに。……お姉さまの愛を、あの男が図々しい顔で横取りしようとするなんて、許すわけがないでしょう」
彼女は、それだけで。
己への愛を自分のものにしようとされた、勘違いされた。たったそれだけの理由で。
十年間、息をひそめるように隠し通して、あの大舞台を整えて見せた。
無理をしてウィリアムを演じ、ヴィクトリアまで完璧に演じきり。
もう立てないくらいに弱った体で、あの男の息の根を止めて見せた。
幾重にもあの男を苦しめ後悔させ絶望させるために、人生をかけたのだ。
(そうよ……許してたまるものか。私のものを横取りされてたまるものですか。もう、私には、それしか残っていないのに)
そっと足を撫でる。
かつてウィリアムになるため、闇医者の元で、身長を伸ばす施術をした。
何度も足を叩き折って、傷つけて。
男と見間違うような高身長と引き換えに、彼女は健康な足を喪った。
傷だらけだった足は、あの火事の後遺症ではない。人道に背く手術の痕だ。
彼女は、もう二度と走れない。小さな離れ、その庭を3人で駆け回ったあの頃のように。
草の匂いを嗅いで、全身で姉兄の愛を浴びて。幸福に身を震わせることは二度とない。
かつて愛した貴方になるために、この髪から灰を落とした。
かつて愛した貴方になるために、足を捨て、髪を切り落とした。
かつて愛した貴方みたいな白い肌になるために、顔に白降汞を塗りたくった。
かつて愛した貴方みたいな声になるために、傷んだ喉を更に煙草の煙で焼いた。
かつて愛したきょうだいみたいに傷ひとつない身体になるために、火傷痕の上から鉛白を塗りたくった。
どれが原因なのかわからないが、身体のあちこちが脆く弱くなっていった。足から始まった炎症は全身に廻り、神経もどこか可笑しくなった。寝ても覚めても身体の芯が痛み疼く。最早、何処が痛いのかも分からないくらい、息をするだけ、鼓動するだけでも寿命が削れる。
痛みを誤魔化すために、麻薬を喰み、煙草を喫んだ。現実と幻覚の合間をふらつきながら、それでも顔を見せてくれないきょうだいの名を呼びながら血を吐いた。全身を蝕む痛みよりも、両脇にぽっかりと空いた寒々しさが痛かったの。
可愛いわ、と褒めてもらった小さな身体はもう無くて。小鳥のようだ、と愛してくれた声は醜く潰れて嗄れてしまった。いっぱい走って元気で素敵ね、と慈しんでもらったこの足は自分の意志で潰し、長生きするのよと願われた、健康な身体などとっくのとうに壊れてしまった。
(さみしい、)
きょうだいに愛されたあの頃には戻れない。
私がただの妹でいれた、あの幸福は零れ落ちたまま。ただの女の子のまま愛された、かつての春は炎の向こう。
つまづき転んだ子供に優しい手が差し出されることはない。
もう二度と。
「それに、あの男のことは、どうにも我慢ならなかったけれど……この国も、好きではないわ」
この怒りを知れ。憎しみを知れ。
わたしが行くのは怪物の道。復讐ではない。報復でもない。
ーーーこれは証明だ。
お前たちの恋も正義も、見当違いだと突きつける。お前達の全てを否定する。
だって、そうでなければ報われない。
何もしていないのに、畜生腹というだけで憎まれ蔑まれ殺された、私のきょうだいが報われない。
伸ばした手の先できょうだいを喪った私が報われない。最愛を喪くした先にあるのが、幸福だなんてあってたまるものか。
お前が抱く憎悪さえ、わたしの掌の上。お前の恋も、その結末も利用して見せる。
何よりも。
畜生腹であることが罪になるというのなら、最期までその悪を掲げて死んでやる。悪逆の名の下に、この愛を抱えたままに死んでやる。お前達に、お前達なんかに、三つ子という名の誇りを奪われてたまるものか。
必ず。
地獄の果てまで苦しめる。
姉様と兄様とわたしの3人分。私が味わった喪失の痛みも、姉兄がその身に受けた痛みも、私たちが奪われた全ても。
決して、決して赦すものか。私たち3人が苦しんだ分と同じだけは、何としてでも痛めつける。私たちから平気な顔で奪ったのだから、私たちと同じ分だけ奪ってもいいだろう。私たちが失った分だけ…………。
「……愛されたの」
ぽつり、と落とす。
私たちが失ったものと同じだけなんて到底無理な話だと、とっくのとうに知っていた。
私が失ったものは、お前たちなんかの苦しみで、取り戻せるものではないと知っていた。
「わたし、あいされたの」
黒蝶の翅のような睫毛が持ち上がって、落星の欠片を宿した瞳でーーー笑う。
ひとつも優しくなんてない世界においていかれて。
ひとりぼっちになって。
それでも、最期の願いを足蹴にして心のままに追いかけられないくらい。
それでも、きょうだいの遺した祈りに唾を吐いて全部放り投げて死ねないくらい。
ーーーひとりで生きてしまえたくらいに、愛されたから。
愛された。どうしようもなく愛された。
ずっと意地を張ってきょうだいと呼ばなかった馬鹿な小娘を、それでも愛してくれた。
堂々ときょうだいと呼べないことに拗ねて……一緒に立つことができないことに不貞腐れていた私を、心の底から愛してくれた。
(愛されてしまったのだから、しょうがないでしょう)
彼女は、最初から最期まで弱いままだった。
身体が震えるのは恐怖ではなく憎悪のせいだと嘘をついて。
涙が出るのは哀しいからではなく怒りのせいだと嘘をついて。
痛みに強いわけでも無く、心が強いわけでも無く。
当たり前の弱さのまま、ありきたりの弱さのまま。
弱いままで、成し遂げた。
姉兄に愛された自分のままで、やり遂げた。
最愛たちに慈しまれた、守られた、……愛された、そんな理由で立ち上がった。そんな理由だけで、立ちはだかった。
憎くて恨めしくて悲しくて苦しくて怖くて惨めで腹が立って哀しくて悔しくて打ちのめされてーーーやっぱり寂しくて、彼女は駆け抜けた。
だって、畜生腹であるのだから。
王家の秘密を隠すためだからと、そんな理由で。
私のきょうだいは殺された。私の最愛たちは奪われた。
それだけは赦さない。必ず、報いを受けさせる。
「私達の三つの矜持を知っているでしょう?」
「ええ。……えぇ。十分な、ほどに」
ひとつ、華麗で優美たれ
ふたつ、聡慧で強者たれ
みっつ、高雅で深愛たれ
この三つの矜持でもって、我らブランノワールの誓いは為される。
愛情深き最後の娘。高雅故に己の誇りを穢した者を許さず、深愛故に己の愛を手放すことを赦さなかった。平凡なままで、強者となってやりきった。
例え、その先がこの世の地獄だとしても。
その意志でもって、みんな平等に不幸にしてみせた。
『愛しているわ、わたしのきょうだい』
『愛してるぜ、おれのきょうだい』
かつて与えられたその愛は。黒の少女と白の少年の死体の上に、真っ赤な花を咲かせたのである。




