【13】ブランノワールの最愛
ーーー気づけば、室内で生きている人間は、ヴィクトリアとウィリアムだけだった。
扉は固く閉ざされーーー扉の前に積み重ねられた家具越しに、幾重にも怒声が響いている。
ヴィクトリアは、ひとつ息を吐いた。血でぬめる手が、柄に張り付いたかのようだった。
彼女の視界の端で、伽藍堂の琥珀の眼が己を向いている。今まで生きていたそれは、腹を掻っ捌かれ頭をかち割られ……無惨な死体を晒している。
「………なぁ、きょうだい」
「ええ。どうしたの、きょうだい」
愛らしいドレスをぐっしょりと血で濡らしながら、可憐な声は穏やかであった。隣に凭れ掛かる少年から流れ出した命が、今まさに尽きようとしている。
その背に受けた深傷は骨まで届き、肺に血が入ったのか呼吸のたびに嫌な音がする。
もう絶え絶えの少年を支える少女は、いまだに柔らかな微笑を湛えたままだ。
「……いっしょうに、いちどの。おれの、最期の願いを、きいてくれるか」
俯いたまま、呻くようにウィリアムは言った。
彼は、己の願いがどんなに残酷なことか分かっていた。どれだけ、酷いことか分かっていた。
もう、涙のひとつも出やしなかった。
ひとつ、ふたつと息をして。
「頼むから。俺たちの妹を助けるために、死んでくれ」
人でなしの言葉を吐いた。
本当に、クソッタレな愛を囁いて。
「ええ。あなたがそう願うなら」
けれど、迷いなんざ一つもなく。
当たり前のように、ヴィクトリアは答えたのだ。
「ッ……!」
ウィリアムの瞳が、傷ついたように揺れる。
……頷いてくれるな、とそう思っていた。けれど同時に、あの子を生かすためなら、お前はなんだって出来ちまうことも分かっていた。
小さなアネモネのために鬼畜生になることを決めた、俺の様に。
「さて、どうすればいいの?」と小首を傾げるヴィーの髪は、無惨にも肩の上で揺れていた。自分の手で、切ったのだ。ばっさりと切った髪をあの子に握らせて、「売ってお金にしなさいな」と言い聞かせたその姿を見て、やっぱりやりきれない思いが胸を衝いた。
………けれど。
ウィリアム・ブランノワールという少年は、実は口も悪いし態度も悪い。
紳士だなんて欠片も無く、貴族教育など欠片も意味がない。典雅など夢の夢、度々屋敷を抜け出しては下町に降りた。いつの間にか身についたゴロツキやチンピラのような口調を、何度ヴィーに嗜められたことか。普段は、可愛い末妹を怖がらせないために少々柔らかくしているだけだ。
それでも、持って生まれたギフトという名の異能はウィリアムをいとも簡単に怪物へと押し上げる。どんなに下町言葉を使おうが、その研ぎ澄まされた思考は一切鈍らない。致命傷を負ってなお、彼の頭脳は最適解を導き出し続ける。
「この魔石を使え」
「あら?どうしたの、こんなに大きいもの」
「数時間早いが、誕生日プレゼントだ。三人お揃いで、持とうと思ったんだがな」
漆黒のーーー彼らの瞳によく似た色の魔石を持って、ウィリアムは壮絶に笑う。
「これに魔力を込めて、わざと爆発させろ。この館にいる全ての人間を、お前ごと吹き飛ばすぐらい全力で」
酷薄な顔で笑ったウィリアムに、ぱちくりと瞬いて。次いでヴィクトリアは、全力の歓声を上げた。
「まぁっ!流石、私のビルは天才ね」
三つ子の魔力は同一のものである。
この身体から放つ魔力は、魔法は、何ひとつきょうだいを傷つけることはない。
全力で魔力を爆発させても、侵入者を皆殺しにするだけで、愛する兄弟には傷一つつけることはない。仮にでも、ヴィクトリアにきょうだいを傷つけさせようとしないところが、ウィリアムの素敵なところだった。
ーーー何より。
(わたくしが自爆して死ねば。わたくしの死体はなく、ビルとあの子が残される)
生まれた瞬間に無かったことにされた可愛いあの子。
狭い箱庭でしか生存を許されなかった愛しいあの子。
あの子は、何にも憚ることなく生き残れる。
あの子に、居場所をプレゼントしてあげられる。
なんて素敵な作戦なの。なんて最高な誕生日プレゼントなの!
まるで、ピクニックの前のような気持ちだった。
踊るようにわくわくと胸を高鳴らせ。己が爆死してーーー肉片の一片も残らないくらい粉々になって黒い土にばら撒かれると理解していても。心の底から、ヴィクトリアは快哉をあげる。
上気した頬は熟れた果実のように愛らしく、恍惚と微笑む様は、慈母のように愛情に満ちいている。
(今更人殺しを後悔なんてしないけれど、あの子を泣かせてしまったら、どんな罪になるのかしら)
生まれながらに畜生腹という名の罪を背負っているようなものだから。生まれると同時に母を殺しているのだから。あまり意味はないのだけれど。
でも、それでも。
欠けたわたくしたちを生かす縁。
黒と白の子供が手に入れた、真っ赤な心臓。
(秤の上に載せるなら、あの子がいいわ)
罪を量る秤があったとして。わたくしとビルは、きっと私たちのアネモネを秤に載せる。
私たちのアネモネの未来を選んでしまう。
これ以上、幸福なことはあるものか。
「それに、ビルもあの子も、傷ひとつつけることなく守れるなんて!」
それを知っていれば良い。
それさえ分かっていれば、できる。
躊躇いなんてひとつもなく、迷いなんて欠片もなく。
彼女は、己の死も、その死にざまも、心の底からどうでもよく。
ヴィクトリアは欠陥品ゆえに。それでも、きょうだいを愛しているがゆえに。
心に多大なる穴があるくせに、彼女は本当に、本当にきょうだいを愛していたから。
「まかせて頂戴!全身全霊で、貴方達を守ってみせるわ」
彼女は最後まで、欠けているまま、足りないまま。
ただ正気のままに狂っている。狂っているくせに、どうしようもなく美しい。
ぐっと魔石を握りしめた指の隙間から、眩い光が零れて。
ヴィクトリア・ブランノワールは、真っ白な世界で笑う。
「愛してるわ、わたくしのきょうだい」
ーーーそれ故に、それは愛以外の名を喪っていた。
*
業火の中で、ウィリアムはひとり、掠れた息を吐いた。
炎渦巻く屋敷の中に、もう敵対者はいない。ヴィクトリアも、またいない。
彼の脳内で思い出されるのは、「任せて」というヴィクトリアの言葉を信じて。姉兄のためにひとりで助けを呼びに行った少女のことだった。
(……あの子は、無事だろうか)
あの子は、あまりにも普通の女の子だった。
小さくてか弱くて、荒事にも謀略にも向かない、ひとを陥れる度胸もひとの人生をぶち壊してでも生き延びる強さもない。
何もかもないけれど、愛されることを知っている少女だった。愛されるために生まれてきた女の子だった。
あの子がいたから、ヴィクトリアもウィリアムも普通でいられた。あの子が、ふたりをこの家に結びつける鎖だと当然のように気づいていて。それでも、
(ヴィーは何だかんだ平気だろう。あの究極のきょうだい贔屓と階級社会ガン無視の平等主義が、社交界の方がまだ浮かないだけで。……ただ、俺たちの小さな姫君は、きっと外では生きていけないから)
かわいいアネモネ。同じ年、同じ日に生まれた幸福な三兄弟。
とびきり可愛いリトルプリンセスの、姉と兄。
それだけが、ヴィクトリアとウィリアムが手に入れた本当だった。それだけが、ブランノワールの双子と呼ばれた畜生腹を生かす縁だった。
あの子が俺達を知らずに生きていく可能性には、蓋をして。きょうだいから離れて平民として生きていく道は握りつぶして。
(………お前のせいだ。お前が、俺たちなんざを愛しちまったから)
愛とは、名前を呼ぶことだ。
幸福にもなりきらないほんの小さな喜びを、分け与えるということだ。
何度もお前は俺の名を呼ぶ。
愛らしい声が俺の名を象るたびに、お前が呼んだ俺の名が柔らかく光るたびに。張り裂けるような愛おしさに目が眩む。
そうして、俺の名を呼んだその口で。
アネモネの花が咲いた、空の青が綺麗だ。そんなひとつも腹が膨れないようなしあわせを、一生懸命に伝えようとするのだから。お前が感じた些細な喜びを、共有しようとするのだから。
俺がお前を愛するくらい。
お前に、どうしようもなく愛されていることを知っている。
ウィリアムは、先が煙るような睫毛を微かに震わせて、口元に淡い笑みを刻む。
(不幸だよなぁ、)
血肉を分けて、魂を分け合った。
たったそれだけで。そんな理由で。
俺達なんざを愛しちまったことが、お前の不幸だった。
「どうしようも、ねぇよなあ」
大きく息を吐いて、言った。
声は震えなかったが、目の奥が熱くなった。
もう感覚のない身体を、ようやっと動かして、呻く。
「すまない」
俺たちのリトルプリンセス。
俺たちのかわいいアネモネ。
誰よりも可愛く愛しいお前を、俺たちはどうしようも無く愛していた。俺たち3人の中で、最期にお前を選ぶくらい、たった1人の末妹を愛していた。
例えお前の道行きが地獄だとしても。
それでも、俺たちは、お前を守ってやりたかったんだよなあ。
「……すまない」
白皙の美貌は血に濡れ、傷だらけである。
それでも、息をしていた。自爆したヴィクトリアの放った炎は、同じ血肉を分けた故に、ウィリアムの身体を一切傷つけず。最愛たちを襲う全ての悪意は灰燼と帰した。
ウィリアムの傷は深いが、それまでだ。もう、全ての脅威が排除されたいま、彼が生き残るのは難しくない。彼の聡明な脳味噌は、己が生き残る道を示している。
可愛い小さな妹。ウィリアムの大事な宝物。
放り出されたあの子の手を取ってやらないと、とそう思って。
ふ、ふふ、と漏れた息が空気を震わせ、身体が軋む。
それでも。
……それでも。
傷ついた身体を引きずって、肉片になったヴィクトリアを掻き集めて。
壮絶なまでに青褪めた顔でーーー笑う。
「すまない、お前の片割れには、なってやれないんだ」
互いに姉も兄もなく、それでも互いに長く過ごした。3人で魂を分け合ったけれども、兄と姉という名の同じ地獄を分け合ったのはアイツだった。心が欠けているくせに姉面をして、幸福に身を浸し笑って死んだ馬鹿な娘の、小さな手を離してやることは出来なかった。
ブランノワールの双子。
悪名高き畜生腹。
小さな女の子を守る、兄と姉。
(俺は、俺たちは、お前を愛しているけれど)
どうしようも無く、苦しいくらいに、3人揃った死の淵で、末妹を選んでしまうくらいには。本当に本当に、愛して、いたけれど。
(ーーー仕方がねぇよなぁ)
おんなじ顔、おんなじ色。
おんなじ世界に生きた片割れ。
『きょうだいがいるからいいの』と笑って。寂しさの一つも知らないままに死んでいった、美しい少女の手を離せないことが、俺の悪逆だった。
懐から、魔石を取り出す。
これは、末妹を逃がすときに握らせたものと、ヴィクトリアが自爆に使ったものと同じものであった。
漆黒のそれを暫し見つめて、徐に、ヴィクトリアの肉片を己の内に抱え込むように、丸くなる。
まるで、何かを守るように。
まるで、何かを慈しむように。
ゆらゆらと黒い光が溢れ出し、炎が彼の身を包む。
この死にかけの身体で、ヴィクトリアのように、周りを巻き込むような魔法を使うことはできない。けれど、対象が自分一人くらいの魔法なら。自分を殺すための魔法を放つことは、できる。
ーーー狂気は愛の形をしている。
彼は、苦痛の呻きを遂にひとつも漏らさずに。生きながら燃え死ぬことを、決めたのだ。




