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【11】レティシアの初恋

「あら?」

はつりと瞬いて、ヴィクトリアは首を傾げた。

彼女の計画では、もうこの少女の役割は終わったはずだった。王家の破滅の見届け人。それだけだったはずなのに。

レティシアは、彼女の予想を乗り越える。

レティシアは、真っ直ぐにこちらを見つめている。


(嗚呼、そうね)


ヴィクトリアは、笑みの種類を変える。

貴女は、出会った時からそうだった。無垢で愚直でいて、己の正義を貫き通す芯の強さ。畜生腹の偏見を越えて、世に悪名轟くウィリアム・ブランノワールに心を傾けた。


王は排除し、妃は協力者に引き入れた。アロイスは丁寧に丁寧に心を折って、それで。


(私の前に立ちはだかってみせるのは、きっと貴女ね)


共に過ごした時間が、確かにヴィクトリアにそう思わせた。


「どうしたの?レティシア」

「やめにしませんか、ヴィクトリア様……。貴女の怒りも、憎しみも、決して同じだけ分かることはできないのですけれど。もうこれ以上、殿下を、王家を追い詰めても、ウィリアム様は帰ってこないじゃないですか」

「ふふ、凄いわね」


ヴィクトリアは、思わず笑ってしまった。

この私に、いま目の前で男を追い詰めて追い詰めて追い詰めてみせたこの私に向かって。真正面からそう言い放つなんて、なんて愚かで勇気のある子なの。


怒りは湧かなかった。レティシアの言葉から、ウィリアムへの忌避感も憎しみも何も感じなかったから。


「お願いですから、やめてあげていただけませんか。貴女には及ばないでしょうが殿下の苦しみも長く続きます。何より、貴女の手が汚れるのは見たくない」

「やめたとして、私の最愛は生き返らないのに?」


柔らかい否定に、レティシアは唇を噛んだ。

きっとあの人に、おためごかしの言葉など届かない。綺麗に取り繕った言葉などそよ風のようなものだ。ヴィクトリアが動く理由にレティシアはいない、そう思ったら堪らなくて。


「好きです」


気づいたら、言葉が転げ落ちていた。

緩やかに丸くなる檳榔子黒の瞳に、ハッと言葉が脳に染み込んで。真っ白になった思考の裏で、目尻にジワリと熱が滲む。


「あなたが好きです」

「残念ながら、私はウィリアムではないのよ」

「ええ。知っています。私は、図書館で手を差し伸べてくれたあなたを、旧図書館で共に過ごしたあなたを、きょうだいを呼ぶ寂しがりやのあなたを、好きになりました」


性別が違ったって。真実を隠されていたと知ってしまっても。それでも、この恋は燃え尽きなかった。私の知る優しい想い出は損なわれないまま、ずっとこの心臓に居座っている。

どうしようもなく切なくて、どうしようもなく愛おしくて、


「好き、好きなんです」


震える声が最後まで言い切る前に消えていた。大粒の涙が零れ、顔をぐずぐずにしながらレティシアは泣いていた。

悲しみでなく、苦しみでもなく。胸が張り裂けんばかりの愛しさで泣いていた。


本当に。本当の本当に、貴方のことを好きになった。貴方が同性だと知って、貴方の復讐を知って、それでも諦め切れないくらいの恋だった。


貴方と温もりを分かち合って、寄り添ってあげたい。そう想う気持ちに嘘はなかったというのに。


「レティシア、」


細やかな光を弾く夜絹のような髪。透き通るような氷肌が、彼女が持つ黒と相互に引き立てあって、黄金比を描く優美な貌を飾り立てている。

一片(ひとひら)の花弁のような唇は綻び、柔らかい微笑を湛えている。それ故に際立つその美貌。その中で、緩やかに伏せられた長い睫毛の奥。



人を白痴にするほどの凄絶な美しさ。

今までのありとあらゆる価値観が、一瞬で塗り潰されるほどの美しさだった。



「猟師だった貴女の父親が、十年前の冬に、何を狩りにいったと思う?」


その言葉が鼓膜に届いて。

優しい声が、いとも簡単に恋心を叩き折った。


レティシアは、はくりと息を吐いた。

一瞬で思考が打ち砕かれて、真っ白な視界のまま棒立ちとなる。

愕然と見開かれた瞳は、美しい琥珀色。かつて、ウィリアムに鉈を振り上げた男と同じ色であった。

(……知らない。そんなの、しらない。私のお父さんは、……おとうさんが?)

そして、自然と絡み合った視線に、頭の上から冷水をぶっかけられたかのような心地になる。


花降るように美しい檳榔子黒は、湖面のように澄んだまま。


その眼差しだけでわかってしまった。

許されていた。最愛を殺した罪人の娘であろうとも、怒りも憎しみもひとつも向けられていなかった。

いっそ憎悪を抱いてくれたのなら。まだ、私は救われたのに。


「畜生腹が救う道を探すと。あの言葉は嘘だったの?」

「どうして、」


グシャリと顔が歪みーーー傷だらけの声が転げ落ちた。


ウィリアム様を演じて、この恋を利用しようとしたのなら。巫山戯るなと頬を張り飛ばして罵声を浴びせられたのに。

柔和で麗しい顔は女性らしく。その仕草ひとつとっても優美な淑女の如く。

焼けた喉も、すらりとした背も。彼女を構成する全てが、男性とは到底間違えられないくらいの清らかさ、嫋やかさだ。


嗚呼、でも。

それでも。

貴方の顔は、私が恋した貴方だった。

貴方の全ては、私が恋した全てだった。

檳榔子黒はいつでも絢爛で美しい。


「どうして……」


心の底から恋をしていた。

貴方に恋をした。人生で最初で最後の恋をしたの。

貴方に騙されていたと知って、目の前が涙で見えなくなって、喚き散らしてどうでも良くなって、それでもーーー嫌いになれないくらい、どうしようもない恋をしたのよ。



「どうして、それを持ち出すのです」


よりによって、貴方の手でその誓いを持ち出されたら、堪らなかった。


何も知らず。生き別れの父が、貴女の地獄の元凶とも知りもせずに。ただ、呑気に貴方を救ってみせると約束した、そんな己が。


ーーー心の底から恥ずかしくて、苦しくて。


嗚呼、そうだ。

父の悪行を憎まれてなんていなかった。少なくとも、私に対して貴方が思うことなどなかった。好きになった人が、私のことを恨んでいなかった。

罪を知らず笑っていた馬鹿な女を、貴方は確かに赦していた。

それが、人生で一番の絶望になるとは思うものか。


(……これから、)


突き付けられた真実に、田舎に帰ることも考えた。これまでの努力も時間も全てを投げ捨てて。裏切られた恋を慰撫してひとりで涙に暮れる日々が脳裏に過らなかったと言えば嘘になる。


でも、レティシアは知ってしまった。

貴方の世界に私はいない。

貴方の視界に私はいない。

例えレティシアが舞台から逃げたとして。貴方が引き留めることなどないだろう、後悔のひとつなんてしてくれないだろう。

ただ、その脳裏からレティシアの名前も存在も、消え去って無かったことになるだけだ。


(……そんなの、許さないわ)


貴方が私のことを何とも思っていなくても。貴方に惜しまれるような未来さえ来ないと分かっていても。かつて子供だった私が夢見た、幸福な結末などあり得ないのだとしても。

レティシアは譲れない。この恋だけは諦めてあげられない。


(貴方の中に、名前だけでも残してみせる)


これが、少女の精一杯の意地だった。

涙でぐちゃぐちゃになった汚い顔で。世界で一番醜い女の顔で。たった一つの恋のために、少女は決めた。


「意地の悪い、ひと、ですね」


ひとつ呼吸を置いた。ジクジクと膿んだような恋を溶かした声は、もう震えない。

睨むように見上げる少女の視界はクリアだ。視線の先に立つ貴方は、この期に及んでどうしようもなく美しくて、眩しくて。その絢爛で鮮烈な檳榔子黒が、堪らないほどにーーー愛おしい。

ぽろり、と頬を一粒の涙が伝う。

それが、その一生涯で少女が零した最後の涙だった。


「……私の覚悟、そう安く見積もられては困ります」


例えこの心臓が腐り果てたとしても。

貴方の隣に立つ未来が来ないとしても。

貴方にもう二度と会えないとしても。



ーーー好いたひとの仇の妻になったとしても。



「畜生腹は、救われるべきです。救ってみせます。もう二度と、生まれてきただけの赤子が、悲しい目に遭わないように」



乱れ絡まった長い髪に、目元が腫れまだらに濡れた顔。唇を白くなるまで引き結んで、濡れた睫毛に囲まれた瞳が強い光を放つさまは、驚嘆するほど美しい。


彼女にもう幼さはない。

彼女は殻を破って翅を拡げた。



ーーーレティシア。



後の世に、平民初の王妃となり、荒れた王国を建て直すため伴侶と共に生涯かけて奔走し、畜生腹の悪習を打ち砕く大改革の端緒になったと言われる女傑である。



「そろそろ時間切れね」


美しい女が言った。

レティシアとアロイスに対峙するその顔は、妙に穏やかなままだ。

遠くから、気配を感じる。

怪物の時間は終わり、朝が来る。


「ッ、待ってくれ!」


アロイスが手を伸ばした刹那、轟音が耳を貫く。

天上から大理石の塊がひとつ、ふたつと落ちてきて。ヴィクトリアと彼らの間を割るように床に打ちつけられていく。


「な、なに!?」

「これはッ、」

「2人とも、こちらに来なさい!」


玉座から、鋭い声が飛んだ。妃の声に押され弾かれたように走り出した2人は、背後を見やる。


王座の間が崩落している。

天井から、その重みに耐え切れないというように、次々に崩落している。生き地獄を味わせるという言葉通りか、玉座のーーー王家の周りはぽっかりと空白が空いている。


目の前で、王座の間が、権力の象徴たる大広間が無惨に崩壊し砕け散っていく。

これが、ヴィクトリアの答えであり。


〝王国の首をもらう〟


かつての宣誓の、証明であった。

上から、様々な瓦礫が落ちてくる。

今にも瓦礫の向こうに隠れそうなヴィクトリアを見て。


「うわァァァァァ!!!!!」


アロイスは絶叫して手を伸ばす。

この後に及んで、彼はヴィクトリアに恋をしていた。二度目の喪失に耐え切れないくらい、本気の本気で好きだった。


彼の激情に反応して、その胸元のブローチが鈍く輝きだす。それは、王家の象徴。代々王太子が身につける緑色の魔石である。

それが、王家の正統後継者の呼び声に従って目を覚ます。呪文も何もない中で、アロイスの感情の向くまま、緑の線が鞭のように伸ばされて。


「ーーーア?」


意図も簡単に、振り払われた。

いきなり現れた乱入者が、今にもヴィクトリアを絡みとろうとしていた魔法を、腕の一振りで呆気なく打ち消したのだ。

風でグレーの裾が膨らみ、外套のフードが外れ、その相貌が明らかになる。

レティシアは息を呑む。

ヴィクトリアを抱え込むようにして庇う影はすらりと伸び、涼やかな切れ長の眼、冷ややかに引き結ばれた薄い唇、端正な顔立ちは野生みを帯びながらも際立って美しい。


そして、何よりレティシアを驚かせたのは。


(ジョーカーさんの、目が……)


花緑青の瞳孔が花開くように拡がって、深碧の瞳が、おのずから光を放っている。

闇を払い除けるかのように輝く瞳は、獣にしては優美で、宝石にしては力強い。まるで、王者の威風であった。


ーーー轟。


一際大きい、爆発音が鳴った。

これまで、部屋の形を保っていたのが奇跡だった。崩壊はもう止めることはできない。間断なく降り注ぐ瓦礫の隙間から、貴方と目が合う。


(ーーーあ、)


瞬間、花開いた笑みを、なんと例えよう。

世界から音が失われるほど、綺麗な笑みだった。

貴方しか見えないくらい、華やかな笑みだった。


腹心たる執事を後ろに控えさせて。

絢爛で、可憐で、凄艶で、愛らしくて、壮絶で、人生丸ごと焚べた女の、世界で一番美しい笑みだった。


刹那、天井が完全に崩れて。

レティシアは、全身に朝日を浴びた。

遠くから、王族を呼ぶ声がする。異変に気づいた城のものたちが次々と駆け寄ってくる。

半死半生の王と、穏やかな無表情の妃殿下。呆然と膝をつくアロイスを背後に。

ヴィクトリアたちがいた方向を見据えて、少女は深く、美しく、完璧にカーテシーをした。


ーーーこの瞬間から、レティシアは王国史に現れる。


後の歴史に、レティシアという少女はその激動の人生を讃えられ、中興の祖という名とともに足跡が刻まれる。

夫のアロイス王と共に滅びかけた王国を建て直し、その一環として畜生腹の悪習を打ち砕く端緒となった英傑である。


ただ、その半生。特に、少女時代のことは、どの歴史書にも残っておらず、限られた史料にも僅かに書いてあるだけだ。

田舎の平民だった彼女が立ち上がった理由も、王族まで成り上がり社交界に認められた手段も、ずっと何かを追い掛けるかのように駆け抜けて偉業を成し遂げ続けた意味も。彼女が死の間際、窓から覗く白樺の花を見て呼んだという誰かの名も。


何も、何も残らずに。


彼らの再会は二度とない。そのことを、王宮の庭にそよぐアネモネの花だけが、知っていた。


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