第9話 請求書は1200万円
テーブルの上に叩きつけられたメモ。
そこに書かれた『12,000,000』という数字を見て、健一郎と玲子の目が飛び出さんばかりに見開かれた。
「い、一千二百万だと……!?」
「ふざけないでよ! なんで私たちがそんな大金を払わなきゃいけないの!」
玲子がヒステリックに叫ぶ。
私は冷静に、まるで出来の悪い生徒に算数を教える教師のような口調で説明した。
「ふざけてなんかいませんよ。計算してみなさい。月五万円。それを二十年間。本来ならボーナス時の加算や、二十年分の遅延損害金、それに精神的苦痛への慰謝料を乗せてもいいところよ。それをこの額で許してあげようって言ってるの。感謝してほしいくらいだわ」
「そ、そんな金、あるわけないだろう!」
健一郎が悲鳴を上げた。
名家気取りで散財し、見栄を張るために浪費を繰り返してきたのだろう。彼らの生活が火の車であることは容易に想像がついた。
「ない? それはおかしいわね。さっきまで『二階堂の格式』だの『片親は貧乏』だのと、散々お金持ちアピールをしていたじゃないですか」
私は二人の顔を交互に見ながら、追い打ちをかける。
「まさか、見栄を張っていただけ? 中身はスッカラカン? ……あらあら、それはまた随分と恥ずかしい話ね」
「ぐっ……!」
図星を突かれ、二人は言葉に詰まる。
そこへ、玲子が責任転嫁を始めた。
「だ、大体ねえ! それは健一郎さんの借金でしょ!? 私には関係ないわよ!」
「なんだと玲子! お前だって俺の給料でブランド物を買い漁っていただろうが!」
「あなたが甲斐性なしだからストレスが溜まったのよ!」
再び始まる醜い内輪揉め。
私はそれを手で制した。
「どっちでもいいわよ。夫婦なんだから連帯して払いなさい。……それとも」
私はバッグからスマートフォンを取り出し、画面をタップして見せた。
表示されているのは、もちろん『二階堂本家』の電話番号だ。
「払う意思がないなら、今ここでお義父さんに電話しましょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、二人の動きがピタリと止まった。
「お義父さん、カンカンだったものねえ。『あいつらがまだ私の孫に迷惑をかけているなら、徹底的に潰す』って。もし養育費まで踏み倒そうとしていると知ったら……どうなるかしら? あ、そうそう。本家の顧問弁護士団が動くかもしれないわね。そうなれば、家の差し押さえや、給料の差し押さえ……社会的信用も完全に終わるでしょうね」
健一郎の顔から、完全に血の気が引いた。
本家の力、そして父親の恐ろしさを誰よりも知っているのは彼だ。
本気で潰しにかかられたら、今の彼らに為す術はない。
「そ、それだけは……! 親父にだけは……!」
「だったら、書きなさい」
私は用意していた「債務承認弁済契約書」とペンを差し出した。
ネットで調べて作成した簡易的なものだが、法的効力を持たせるための文言はしっかり入れてある。
「今ここで、全額支払うと署名して。支払期限は一ヶ月以内。家を売るなり、車を売るなり、借金するなりして金を作りなさい」
健一郎の手が震える。
ペンを持つ手が、まるで鉛のように重そうだ。
彼は助けを求めるように、息子の方を見た。
「しょ、翔太……頼む、助けてくれ……! 父さんたちには、そんな金……」
しかし、翔太さんの眼差しは、真冬の湖のように冷たかった。
「……払えばいいじゃないか」
「なっ……」
「自分が作った子供の養育費だろう? 今まで払わずに逃げてきたこと自体がおかしいんだよ。それを棚に上げて、美咲ちゃんを貧乏呼ばわりしてたなんて……本当に幻滅だ」
翔太さんは、父親から目を逸らし、私に向かって頭を下げた。
「お義母さん。俺からもお願いします。こいつらに、きっちり払わせてください。それが、美咲ちゃんへのせめてもの償いです」
「翔太さん……ありがとう」
息子の言葉は、最後の一押しとなった。
誰も味方がいない。逃げ場もない。
観念した健一郎は、涙目になりながらペンを取り、震える手で署名と捺印(拇印)をした。
続いて玲子も、泣きわめきながら署名する。
「私の老後資金が……!」
「エルメスのバッグを売らなきゃ……!」
そんな呟きが聞こえたが、知ったことではない。
私は署名された書類を手に取り、内容を確認した。間違いなく、彼らは1200万円の借金を背負った。
「はい、確かに。……これで契約成立ね」
私は書類を大切にバッグにしまうと、晴れやかな笑顔で二人に告げた。
「期日までに振り込まれなかったら、即座に本家に通報して強制執行の手続きに入りますからね。一秒でも遅れたらアウトよ。必死に働きなさい」
二人はテーブルに突っ伏し、廃人のようになっている。
もう、かつての傲慢な態度の欠片もない。ただの借金まみれの初老の男女だ。
私は立ち上がると、美咲と翔太さんに声をかけた。
「さあ、行きましょうか。こんな空気の悪いところに長居することはないわ。美味しいものでも食べに行きましょう」
「うん、お母さん!」
「はい、お義母さん!」
二人は元気よく返事をし、私に続いて部屋を出て行く。
去り際、私はもう一度だけ振り返り、かつての夫と不倫相手に、最後の言葉を贈った。
「二度と、私たちの前に顔を見せないでね。……さようなら、他人さん」
バタン、とドアが閉まる音。
それは、私の二十年にわたる因縁に、終止符が打たれた音だった。




