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第5話 不運なトラブルと高慢な催促



決戦の日。

 私は仕事を定時よりも少し早く切り上げ、会社のトイレで身だしなみを整えた。


紺色のシンプルなスーツに、パールのネックレス。

 派手すぎず、かといって「卑しい」などと言わせない、品格のある装いを選んだつもりだ。


カバンの中には、離婚時の書類のコピーと、手帳が入っている。

 これが私の武器だ。


「よし」


鏡の中の自分に気合を入れ、私は会社を出て駅へと向かった。


約束の時間にはまだ余裕がある。

 相手は格式を気にする連中だ、十分前には到着して、余裕を持って迎え撃たなければ。


そう思っていた矢先だった。


『ただいま、当駅にて人身事故が発生いたしました。運転再開の見込みは――』


駅のホームに、無情なアナウンスが響き渡った。

 ホームは瞬く間に、帰宅ラッシュのサラリーマンや学生たちで溢れかえり、騒然となる。


「嘘でしょう……こんな時に」


よりによって今日。

 私は舌打ちしたい衝動をこらえ、すぐに改札を引き返した。電車が動くのを待っていては間に合わない。


タクシー乗り場へと急いだが、考えることは皆同じだ。ロータリーには長蛇の列ができている。


私はすぐに配車アプリを起動したが、回線が混み合っているのか、なかなか捕まらない。

 焦りが募る。


とにかく連絡を入れなくては。私は美咲の携帯を鳴らした。


「もしもし、美咲? ごめん、今駅なんだけど、人身事故で電車が止まっちゃって……」


『えっ、本当? 大丈夫?』


美咲の声は強張っていた。

 背景から、カチャカチャという食器の音や話し声が聞こえる。もう向こうは揃っているようだ。


「私は大丈夫なんだけど、タクシーも捕まらなくて。十分か二十分くらい遅れるかもしれない。本当にごめんね、向こうのご両親に謝っておいてくれる?」


『わ、わかった。伝えておくね』


電話が切れた後、私はようやく配車アプリで一台のタクシーを確保することに成功した。

 少し離れた交差点でのピックアップになるらしい。私は小走りで指定場所へ向かった。


息を切らせて交差点で待っていると、再びスマホが震えた。

 美咲からのメッセージだ。


『お母さん、あとどれくらいかかりそう?』


短い文面だが、切羽詰まった様子が伝わってくる。私はすぐに返信した。


『今タクシーに乗れたわ。あと十五分くらいで着くと思う。ごめんなさいね』


送信してすぐに、既読がつく。

 そして、数秒後に返ってきたメッセージを見て、私は血の気が引くのを感じた。


いや、恐怖ではない。どす黒い怒りで、視界が赤く染まるような感覚だ。


『あのね、向こうのお母さんが……「これだから育ちが悪い人間は困る」って』


『「時間は金より重いって教わらなかったのかしら? やっぱり常識がないのね、この娘にしてこの親ありだわ」って……大声で言ってるの』


『翔太くんが「事故なんだから仕方ないだろ」って怒ってくれてるんだけど、「言い訳なんて聞きたくない」って……もう私、限界かも』


スマホを握る手に力が入りすぎて、指の関節が白くなる。


人身事故だと言っているのに。

 誰のせいでもない不可抗力なのに、それを「育ち」や「常識」の問題にすり替えて、ここぞとばかりに人格攻撃をしてくる。


こいつらは、ただイチャモンを付けたいだけなのだ。

 私と美咲を見下し、マウントを取って優越感に浸りたいだけなのだ。


――許さない。


私の到着が遅れている数分の間にも、美咲は針のむしろに座らされ、サンドバッグにされている。

 想像するだけで、はらわたが煮えくり返りそうだ。


タクシーが滑り込んできた。

 私は乱暴にドアを開けて乗り込むと、運転手に行き先を告げた。


「急いでください。……少しでも早く」


流れる街の景色を見つめながら、私は深く息を吸い込んだ。


当初の予定では、最初は穏便に挨拶をして、向こうの出方を伺うつもりだった。

 でも、もう手加減は無用だ。


遅れて申し訳ないという気持ちは、完全に消え失せた。

 あるのは明確な殺意――いや、社会的な死を与えるという決意だけだ。


「美咲、もう少しだけ我慢しなさい」


私はスマホに向かって呟く。


「あと十分で、そのふざけた口を二度ときけなくしてやるから」


タクシーは夜の街を疾走し、戦場となるレストランへと滑り込んでいく。


さあ、ご対面だ。

 元夫・健一郎、そして不倫女・玲子。

 首を洗って待っていなさい。

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