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第3話 過去の傷跡



リビングのテーブルに広げられた古い書類の束。


それは二十年以上も封印してきた、私の人生の汚点であり、決して忘れてはならない戦いの記録だった。

 離婚届の控え、公正証書の写し、そして数枚の色褪せた写真。


書類の夫の欄には『二階堂健一郎』。妻の欄には『二階堂佐和子』――私の旧姓だ。


「……やっぱり、あいつらね」


記憶の中の男の顔と、写真の中の男の顔が重なる。

 二階堂健一郎。そして、その横で勝ち誇ったように腕を組む女、二階堂(当時は別の姓だったが)玲子。

 

 時計の針は深夜一時を回っていたが、眠気など微塵も感じなかった。

 書類を見つめていると、当時の記憶が泥水のように溢れ出してくる。


あれは、私がまだ二十代後半、美咲をお腹に宿していた時のことだ。


健一郎は、創業家の一族であることを鼻にかけた、プライドの高い男だった。

 口癖は「俺は二階堂の長男だ」。


実家の威光を自分の実力だと勘違いしているような、今思えば薄っぺらい男だったけれど、若かった私は彼の自信満々な態度に惹かれて結婚した。


しかし、幸せは長くは続かなかった。


私がつわりで苦しみ、家事もままならなくなった頃、彼の帰りが遅くなり始めた。

 最初は仕事だと言っていたが、すぐに香水の匂いと、シャツについた口紅をごまかせなくなった。


浮気の証拠を突きつけた時、健一郎が放った言葉を私は一生忘れない。


『お前が女としての魅力をなくしたのが悪いんだ。妊婦だからって甘えるな』


開いた口が塞がらなかった。

 自分の子供を必死に守っている妻に対して、言う言葉だろうか。


そして、開き直った彼が家に連れ込んできたのが、玲子だった。


玲子は当時、健一郎の取引先の社員の妻だった。

 つまり、ダブル不倫だ。


彼女は大きくなった私のお腹を見ても、罪悪感のかけらも見せなかった。

 それどころか、私を嘲笑うようにこう言ったのだ。


『健一郎さんはね、あなたみたいな地味な女じゃ満足できないのよ。名家の嫁としての品格も、妻としての魅力も足りないんじゃない?』


二人は私を追い出すために、精神的な攻撃を繰り返した。


結局、心身ともに限界を迎えた私は、離婚に応じるしかなかった。

 美咲を守るためには、この異常な環境から逃げるしかなかったのだ。


当然、実家の二階堂家――義理の両親は大激怒した。


厳格な義父は、妊娠中の妻を裏切り、あろうことか取引先の妻と不倫関係になった息子を許さなかった。


『恥を知れ! 二階堂の顔に泥を塗りおって!』


義父の怒号が屋敷に響き渡ったのを覚えている。


その場で健一郎は勘当を言い渡されたはずだった。

 ……少なくとも、当時の私はそう認識していた。


義父は私に頭を下げ、十分な慰謝料と養育費を健一郎に約束させた。


『息子は絶縁だ。だが、生まれてくる孫には罪はない。せめてもの償いとして、金銭面だけは責任を持たせる』


そうして公正証書が作られた。

 養育費は月五万円。子供が成人するまでの二十年間。ボーナス時には上乗せ。


決して高額ではないが、シングルマザーとして生きていく私には命綱になるはずのお金だった。


けれど。

 最初の三ヶ月だけだった。


振り込みがあったのは、たったの三回。その後、ぷっつりと入金は途絶えた。

 電話をしても着信拒否。内容証明を送っても無視。


「金がない」「玲子の慰謝料で消えた」と、人づてに言い訳が聞こえてきただけだ。


私は、乳飲み子の美咲を抱え、必死に働いた。

 昼は事務のパート、夜は飲食店。睡眠時間を削り、自分の服や化粧品なんて何年も買わず、ただひたすらに美咲のために生きてきた。


熱を出した美咲を病児保育に預けられず、泣きながら仕事を休んだ日もあった。

 「片親だから」と後ろ指を指されないよう、歯を食いしばって笑顔を作ってきた。


その苦労の原因を作ったのは、誰だ?


「……よくもまあ、ぬけぬけと」


私は書類を握りしめた。紙がくしゃりと音を立てる。


自分たちが不倫の末に私を捨て、片親にさせたのだ。

 養育費という最低限の義務すら果たさず、自分たちは愛の逃避行を楽しんだのだ。


それなのに。

 二十数年ぶりに再会した娘に向かって、「片親育ちは躾がなっていない」だと?

 「財産目当ての卑しい女」だと?


どの口が言うのか。

 卑しいのは、躾がなっていないのは、どっちだ。


怒りを通り越して、冷たい笑いがこみ上げてくる。


もし相手が、私が知らない真っ当な名家の人たちだったなら、私は娘のために頭を下げて引き下がったかもしれない。身分違いの恋だったと、美咲を諭したかもしれない。


でも、相手がお前たちなら話は別だ。

 健一郎、玲子。お前たちにだけは、美咲を否定する資格はない。


私はスマートフォンの電卓アプリを立ち上げた。

 月五万円かける十二ヶ月。それが二十年分。


五万×十二×二十。


画面に表示された数字は『12,000,000』。


一千二百万円。


利息や遅延損害金を含めればもっといくが、わかりやすくこの数字でいいだろう。

 これは、私と美咲が流した涙の値段だ。そして、彼らが支払うべき「過去のツケ」だ。


「……いいわ。会いに行きましょう」


独り言が、冷たく響く。

 翔太さんが作ってくれた「最後のチャンス」。


それは彼らにとっての更生のチャンスではない。

 私が彼らを断罪し、奪われたものを取り返すための、処刑台への招待状だ。


私は書類を丁寧にクリアファイルに戻し、明日、一番に連絡すべき相手の顔を思い浮かべた。


二階堂の本家。かつての義父だ。

 健一郎がまだ「二階堂」の看板を勝手に使っているとしたら、義父も黙ってはいないはずだ。


最強の援軍を味方につけて、私は戦場へ向かう。


待っていなさい、元夫とその愛人。

 二十年分の「ご挨拶」を、たっぷりとしてあげるから。

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