第2話 翔太の謝罪と「最後のチャンス」
リビングの空気は重く沈んでいた。
美咲の涙は止まったものの、その瞳からはいつもの輝きが消え、虚ろにテーブルの木目を見つめている。
二階堂、という家名。
私の胸のざわつきは収まらないが、今はそれどころではない。
まずは傷ついた娘の心をケアするのが先決だ。
私が新しいお茶を淹れようと立ち上がった時、テーブルの上にあった美咲のスマートフォンが振動した。
ディスプレイに表示された名前は『翔太』。
美咲はビクリと肩を震わせ、スマートフォンを凝視したまま動かない。
「……出ないの?」
私が優しく声をかけると、美咲は迷うように唇を噛んだ後、震える指で通話ボタンを押した。
「……もしもし」
スピーカーモードになっているわけではないが、静まり返った部屋では、電話の向こうの必死な声が漏れ聞こえてくる。
『美咲ちゃん!? ごめん、本当にごめん! 大丈夫か? 家には着いた?』
翔太さんの声だ。
焦りと申し訳なさで、今にも泣き出しそうな響きだった。
「うん……今、お母さんと一緒にいる」
『そうか、よかった……。本当にごめん。俺の両親があんなに失礼なことを言うなんて、想像もしていなかった。俺、止めたんだけど、聞き入れてもらえなくて……美咲ちゃんを傷つけて、お義母さんのことまで悪く言って、本当に合わせる顔がない』
彼の言葉には、嘘偽りのない悔恨が滲んでいた。
美咲の表情が少しだけ緩む。彼が完全に自分の味方であることが伝わったからだろう。
「ううん、翔太くんのせいじゃないよ……でも、私、もうあそこの家に行くのは無理かもしれない」
『わかってる。俺も、あんな人たちとはもう縁を切ってもいいと思ってる』
えっ、と美咲が顔を上げる。私も思わず耳をそばだてた。
『あんな差別的なことを言う人たちが自分の親だなんて、恥ずかしくてたまらないよ。俺は美咲ちゃんと結婚したい。親に反対されたって、この気持ちは変わらない』
頼もしい言葉だ。
彼が親の言いなりになるようなマザコン男なら、私から引導を渡してやろうと思っていたけれど、どうやらその心配はなさそうだ。
けれど、彼は続けてこう言った。
『でも、だからこそ……最後にもう一度だけ、チャンスをくれないかな』
「え……?」
「チャンス?」
私が思わず声を上げると、電話の向こうの翔太さんが私に気づいたようだ。
『あ、お義母さんですか? 夜分遅くにすみません、広瀬です。この度は本当に申し訳ありませんでした』
「翔太さん。……チャンスって、どういうこと?」
私は努めて冷静な声で尋ねた。
あんな屈辱的な扱いを受けて、まだ向こうのご機嫌取りをしろと言うのだろうか。
『誤解しないでください。両親に許してもらうためのチャンスじゃないんです。俺たちが、両親を見限るための「最後の確認」をしたいんです』
「見限るための、確認?」
『はい。俺はもう家を出て、美咲ちゃんと一緒になる覚悟はできています。でも、結婚すればどうしても形式上の手続きや、親族との関わりがゼロにはなりません。だから、最後に一度だけ、俺とお義母さんと美咲ちゃんの三人で、両親に会ってもらえませんか?』
翔太さんは一息ついて、決意を込めて続けた。
『そこで改めてきちんと話をして、それでも彼らが態度を改めないようなら……俺は正式に実家と絶縁します。親戚中にも触れ回って、二度と関わらないようにします。その決心をするために、どうしても一度、お義母さんにも立ち会って、彼らの本性を見て判断してほしいんです』
なるほど。
彼なりのケジメというわけか。
親を捨てるというのは、口で言うほど簡単なことではない。
だからこそ、第三者である私を含めた場で決定的な亀裂を確認し、後腐れなく関係を断ち切りたいのだろう。
それに、私のことを「卑しい」と罵ったことに対しても、彼は怒ってくれている。
私が直接乗り込むことで、向こうに一言物申す機会を作ろうとしてくれているのかもしれない。
私は美咲を見た。
美咲は不安そうに私を見つめ返してくる。
「母さん……どうしよう」
「あんたはどうしたいの? 翔太さんと結婚したい?」
「……うん。したい。翔太くんのことは大好きだもん」
即答だった。
なら、私が迷う必要はない。
親としての役割は、娘の障害を取り除くこと。
そして、娘が選んだ相手が本当に信頼に足る人物か見極めることだ。
私は受話器に向かって、はっきりと答えた。
「わかったわ翔太さん。その話、乗りましょう」
『本当ですか!? ありがとうございます!』
「ただし、条件があるわ。もし次も向こうが美咲を侮辱するようなことがあれば、私は即座に席を立つし、二度と会わない。それでもいいわね?」
『はい! もちろんです。その時は俺も一緒に席を立ちます』
「それと……向こうのご両親、お名前は二階堂さんと言ったわね?」
『え? あ、はい。父は二階堂健一郎、母は玲子と言いますが……』
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
健一郎。玲子。
その二つの名前が揃った瞬間、頭の中の霧が晴れるように、過去の記憶が鮮明に蘇ってきた。
まさか。
いや、そんな偶然があるはずがない。
でも、もしそうなら……。
「……わかったわ。日程が決まったら教えてちょうだい」
私は湧き上がる動揺を必死に押し殺し、電話を切った。
「母さん? 顔色が悪いけど……大丈夫?」
心配そうに覗き込む美咲に、私は精一杯の笑顔を作ってみせる。
「平気よ。それより美咲、もう泣くのはおしまい。次は母さんが一緒だから、絶対に嫌な思いはさせないわ」
「うん……ありがとう、母さん」
美咲を寝室へ送り出した後、私は一人リビングに残った。
窓ガラスに映る自分の顔は、怒りで青ざめているようにも、獲物を見つけた猛獣のように笑っているようにも見えた。
二階堂健一郎。二階堂玲子。
二十年以上も前、私と娘を地獄へ突き落とした元夫と、その不倫相手の名前と完全に一致する。
もし彼らが「あの二人」だとしたら。
この戦い、ただの結婚反対騒動では終わらない。
私は引き出しの奥から、古い手帳と離婚時の書類のコピーを取り出した。
もう二度と見ることはないと思っていた、過去の遺物。
ページをめくる指が震える。
恐怖ではない。これは、武者震いだ。




