第4話_春宵の読書夜会と偽りの鈴蘭
春の宵闇が静かに降りたヴァレンタイン公爵家の別邸は、幾百もの柔らかなガス灯に照らし出され、幻想的な美しさを湛えていた。
『春宵の読書夜会』と銘打たれた今宵のサロンには、王都でも教養高いことで知られる貴族や文人たちが三十名ほど招かれ、室内楽の穏やかな調べの中で文学や詩についての語らいを楽しんでいた。広間の奥には、夜咲きの草花が咲き誇る全面硝子張りの大温室が続いており、月光を浴びた硝子屋根が銀色に煌めいている。
その華やかな広間の中央で、周囲の視線を一身に集めようと声を張り上げていたのは、真紅のドレスに大粒の宝石を飾り立てたカロリーナだった。
「ええ、私は幼い頃から詩集や古典を読むのが何よりの楽しみでしたの! 社交界の華やかなダンスよりも、静かに書物の頁をめくる時間こそが至福ですわ」
普段は本など一頁も開いたことがないカロリーナが、得意げに羽扇を揺らして微笑む。その三歩後ろでは、地味な灰色のドレスを着せられたリディアが、カロリーナの予備のショールと手提げ袋を持たされ、侍女のように静かに控えていた。
「リディア、絶対に余計な口を開くんじゃないわよ。エドガー様がいらしたら、私がすべて話すんだから」
マルグリット夫人が扇の陰から鋭い小声で釘を刺した、ちょうどその時だった。
広間の奥の扉が開き、夜会の主催者であるエドガー・ヴァレンタイン公爵令息が姿を現した。
漆黒の夜会服を隙なく着こなし、銀糸の刺繍が施されたベストを纏ったその姿は、息を呑むほど端麗だった。だが、その蒼灰色の瞳はいつものように冷ややかで、会場の中から「誰か一人」だけを探すように鋭く視線を巡らせている。
「エドガー様! 今宵はお招きいただき、心より感謝申し上げますわ!」
誰よりも早くエドガーの前へと飛び出したのは、カロリーナだった。カロリーナは優雅に裾を引いて一礼すると、懐から水色のリボンで結ばれた灰色のコットン紙の手紙の束を取り出し、胸元に掲げて見せた。
「実は私、どうしてもエドガー様にお伝えしたい秘密がございまして……! 先日の園遊会のあと、お送りいただいた招待状の添え状を読んで確信いたしました。時計坂古書店の書簡箱で、あなた様と半年間お手紙を交わしていた『白い鈴蘭』とは、私のことでございます!」
カロリーナの言葉に、広間中の貴族たちが「なんと、あのエドガー様に秘密の文通相手が!」「ヴェール伯爵家の長女だったのか!」と一斉にざわめき立った。
マルグリット夫人も誇らしげに胸を張り、「娘は恥ずかしがり屋で、ずっとお名前を伏せてお便りを差し上げておりましたのよ」と笑顔で口を添える。
手紙の束を目にしたエドガーの足が止まった。その眉間にかすかな皺が寄り、冷徹な視線がカロリーナの顔から、その手にある手紙の束へと落ちる。
「……ほう。君が、俺と手紙を交わしていた『白い鈴蘭』だと?」
「はい! このお手紙の束がその何よりの証拠ですわ。あなたが書いてくださった『周囲の打算的な笑顔に疲れた』というお言葉を読んで、私、どれほどお心をお慰めしたいと思ったことか……!」
うっとりと頬に手を当ててみせるカロリーナに対し、エドガーの表情は微塵も動かなかった。それどころか、その瞳の温度は氷点下へと下がっていく。
「そうか。そこまで言うなら、いくつか確認させてもらおうか」
エドガーが一歩踏み出し、静まり返った広間に低くよく通る声を響かせた。
「半年前の秋、俺と『白い鈴蘭』が一番最初に書簡箱で感想を交わした随筆集の題名は何だったか。……それと、君が自分のペンネームの由来として手紙に書いてくれた、一番好きな春の野草のエピソードをここで話してみてくれ」
「えっ……?」
カロリーナの顔から、サッと得意げな笑みが消えた。
彼女がリディアの机から盗み出したのは、エドガーからリディアへ宛てられた手紙の束だけだ。リディア自身がエドガーへ送った手紙の内容までは、読んだはずがなかった。
「そ、それは……ええと、半年前のことですので、その……薔薇の詩集、でしたかしら? あまりにたくさんの本を読んでおりますから、うっかり題名を忘れてしまいまして……」
「二人で最初に感想を交わした本の題名を忘れた、と? ではもうひとつ聞くが、先週俺が送った手紙の追伸に記した『雨月集』の三十四頁の詩は、どのような情景を詠んだ詩だった?」
「あ、えっと、それは……雨が降って、月が綺麗だという……」
しどろもどろになり、顔面を蒼白にさせたカロリーナが、焦りきった様子で背後を振り返った。
「ちょっと、リディア! ぼさっと突っ立っていないで、早くあの詩の内容を言いなさいよ! あなたが代わりに答えなさい!」
居丈高な怒声が広間に響き、周囲の貴族たちが呆気にとられて視線を向けた。その視線の先にいたリディアと、エドガーの蒼灰色の瞳が、まっすぐに交錯した。
エドガーの瞳には、驚きではなく、最初からすべてを見通していたかのような静かな光が宿っていた。
リディアは預かっていたカロリーナのショールと手提げ袋を傍らの椅子にそっと置くと、俯くのをやめ、自らの足で一歩前へと踏み出した。
「リディア、お前、何を勝手な真似を……!」
マルグリット夫人が慌てて止めようとしたが、リディアは背筋を伸ばし、澄み切った声で広間全体に響くように語り始めた。
「『雨月集』の三十四頁に綴られているのは、春の夕立に降られて凍えていた旅人が、見知らぬ誰かが軒先に置いてくれた一杯の白湯と乾いた布に救われる詩でございます。顔も名前も知らない相手の、見返りを求めない不器用な優しさが、どれほど人の心を温めるかという一節ですわ」
リディアが一言紡ぐごとに、広間の空気がシンと張り詰めていく。
「そして、半年前に私たちが書簡箱で最初に感想を交わしたのは、植物学者アルベールの『森の歳時記』です。高い木々の陰で誰にも見向きもされずに咲く白い鈴蘭が、それでも自分の香りを失わずに春を告げる姿が好きだと……私は最初のお手紙に、そう書きました」
「な、何を言っているの、この泥棒猫! 私のお手紙を盗み見たのね!」
半狂乱になって叫ぶカロリーナを遮ったのは、エドガーの冷たく、しかしどこか晴れやかな声だった。
「見苦しいぞ、そちらの令嬢。……俺が今日、ヴェール伯爵家へ招待状を送ったのは、この広間にいる誰のためでもない。先日の園遊会の東屋で、自分のドレスが濡れるのも構わずにクレマンの『雨月集』を守り抜き、俺にハンカチを貸してくれた、そちらのリディア・ヴェール嬢を招くためだ」
エドガーは自らの夜会服の内ポケットから、淡い若草色の便箋の束を取り出した。それは、リディアが半年間『白い鈴蘭』としてエドガーへ送り続けてきた手紙の束だった。
「俺は最初から、東屋で言葉を交わしたあの時から、リディアこそが『白い鈴蘭』だと気づいていた。手紙に綴られた優しい言葉の選び方も、本を愛する真っ直ぐな瞳も、他人が手紙の束だけを盗んで真似できるものではない」
エドガーは呆然と立ち尽くすカロリーナとマルグリット夫人を冷徹に見下ろした。
「他人の手紙を盗み出し、公爵家を欺いて縁談を掠め取ろうとしたその浅ましさ、到底看過できるものではない。ヴェール伯爵夫人、ならびにカロリーナ嬢。両名にはただちに当家の別邸から退去していただく。本日付で、ヴァレンタイン公爵家はヴェール伯爵家との一切の社交および取引を断絶する」
「そ、そんな……! エドガー様、お許しください!」
泣き叫ぶ母娘が執事と警備員たちによって会場からつまみ出されていく。執事がカロリーナの手から取り上げた手紙の束を受け取ると、エドガーはゆっくりとリディアの前へと歩み寄り、その白い手を優しく差し伸べた。
春の宵闇が静かに降りたヴァレンタイン公爵家の別邸は、幾百もの柔らかなガス灯に照らし出され、幻想的な美しさを湛えていた。
『春宵の読書夜会』と銘打たれた今宵のサロンには、王都でも教養高いことで知られる貴族や文人たちが三十名ほど招かれ、室内楽の穏やかな調べの中で文学や詩についての語らいを楽しんでいた。広間の奥には、夜咲きの草花が咲き誇る全面硝子張りの大温室が続いており、月光を浴びた硝子屋根が銀色に煌めいている。
その華やかな広間の中央で、周囲の視線を一身に集めようと声を張り上げていたのは、真紅のドレスに大粒の宝石を飾り立てたカロリーナだった。
「ええ、私は幼い頃から詩集や古典を読むのが何よりの楽しみでしたの! 社交界の華やかなダンスよりも、静かに書物の頁をめくる時間こそが至福ですわ」
普段は本など一頁も開いたことがないカロリーナが、得意げに羽扇を揺らして微笑む。その三歩後ろでは、地味な灰色のドレスを着せられたリディアが、カロリーナの予備のショールと手提げ袋を持たされ、侍女のように静かに控えていた。
「リディア、絶対に余計な口を開くんじゃないわよ。エドガー様がいらしたら、私がすべて話すんだから」
マルグリット夫人が扇の陰から鋭い小声で釘を刺した、ちょうどその時だった。
広間の奥の扉が開き、夜会の主催者であるエドガー・ヴァレンタイン公爵令息が姿を現した。
漆黒の夜会服を隙なく着こなし、銀糸の刺繍が施されたベストを纏ったその姿は、息を呑むほど端麗だった。だが、その蒼灰色の瞳はいつものように冷ややかで、会場の中から「誰か一人」だけを探すように鋭く視線を巡らせている。
「エドガー様! 今宵はお招きいただき、心より感謝申し上げますわ!」
誰よりも早くエドガーの前へと飛び出したのは、カロリーナだった。カロリーナは優雅に裾を引いて一礼すると、懐から水色のリボンで結ばれた灰色のコットン紙の手紙の束を取り出し、胸元に掲げて見せた。
「実は私、どうしてもエドガー様にお伝えしたい秘密がございまして……! 先日の園遊会のあと、お送りいただいた招待状の添え状を読んで確信いたしました。時計坂古書店の書簡箱で、あなた様と半年間お手紙を交わしていた『白い鈴蘭』とは、私のことでございます!」
カロリーナの言葉に、広間中の貴族たちが「なんと、あのエドガー様に秘密の文通相手が!」「ヴェール伯爵家の長女だったのか!」と一斉にざわめき立った。
マルグリット夫人も誇らしげに胸を張り、「娘は恥ずかしがり屋で、ずっとお名前を伏せてお便りを差し上げておりましたのよ」と笑顔で口を添える。
手紙の束を目にしたエドガーの足が止まった。その眉間にかすかな皺が寄り、冷徹な視線がカロリーナの顔から、その手にある手紙の束へと落ちる。
「……ほう。君が、俺と手紙を交わしていた『白い鈴蘭』だと?」
「はい! このお手紙の束がその何よりの証拠ですわ。あなたが書いてくださった『周囲の打算的な笑顔に疲れた』というお言葉を読んで、私、どれほどお心をお慰めしたいと思ったことか……!」
うっとりと頬に手を当ててみせるカロリーナに対し、エドガーの表情は微塵も動かなかった。それどころか、その瞳の温度は氷点下へと下がっていく。
「そうか。そこまで言うなら、いくつか確認させてもらおうか」
エドガーが一歩踏み出し、静まり返った広間に低くよく通る声を響かせた。
「半年前の秋、俺と『白い鈴蘭』が一番最初に書簡箱で感想を交わした随筆集の題名は何だったか。……それと、君が自分のペンネームの由来として手紙に書いてくれた、一番好きな春の野草のエピソードをここで話してみてくれ」
「えっ……?」
カロリーナの顔から、サッと得意げな笑みが消えた。
彼女がリディアの机から盗み出したのは、エドガーからリディアへ宛てられた手紙の束だけだ。リディア自身がエドガーへ送った手紙の内容までは、読んだはずがなかった。
「そ、それは……ええと、半年前のことですので、その……薔薇の詩集、でしたかしら? あまりにたくさんの本を読んでおりますから、うっかり題名を忘れてしまいまして……」
「二人で最初に感想を交わした本の題名を忘れた、と? ではもうひとつ聞くが、先週俺が送った手紙の追伸に記した『雨月集』の三十四頁の詩は、どのような情景を詠んだ詩だった?」
「あ、えっと、それは……雨が降って、月が綺麗だという……」
しどろもどろになり、顔面を蒼白にさせたカロリーナが、焦りきった様子で背後を振り返った。
「ちょっと、リディア! ぼさっと突っ立っていないで、早くあの詩の内容を言いなさいよ! あなたが代わりに答えなさい!」
居丈高な怒声が広間に響き、周囲の貴族たちが呆気にとられて視線を向けた。その視線の先にいたリディアと、エドガーの蒼灰色の瞳が、まっすぐに交錯した。
エドガーの瞳には、驚きではなく、最初からすべてを見通していたかのような静かな光が宿っていた。
リディアは預かっていたカロリーナのショールと手提げ袋を傍らの椅子にそっと置くと、俯くのをやめ、自らの足で一歩前へと踏み出した。
「リディア、お前、何を勝手な真似を……!」
マルグリット夫人が慌てて止めようとしたが、リディアは背筋を伸ばし、澄み切った声で広間全体に響くように語り始めた。
「『雨月集』の三十四頁に綴られているのは、春の夕立に降られて凍えていた旅人が、見知らぬ誰かが軒先に置いてくれた一杯の白湯と乾いた布に救われる詩でございます。顔も名前も知らない相手の、見返りを求めない不器用な優しさが、どれほど人の心を温めるかという一節ですわ」
リディアが一言紡ぐごとに、広間の空気がシンと張り詰めていく。
「そして、半年前に私たちが書簡箱で最初に感想を交わしたのは、植物学者アルベールの『森の歳時記』です。高い木々の陰で誰にも見向きもされずに咲く白い鈴蘭が、それでも自分の香りを失わずに春を告げる姿が好きだと……私は最初のお手紙に、そう書きました」
「な、何を言っているの、この泥棒猫! 私のお手紙を盗み見たのね!」
半狂乱になって叫ぶカロリーナを遮ったのは、エドガーの冷たく、しかしどこか晴れやかな声だった。
「見苦しいぞ、そちらの令嬢。……俺が今日、ヴェール伯爵家へ招待状を送ったのは、この広間にいる誰のためでもない。先日の園遊会の東屋で、自分のドレスが濡れるのも構わずにクレマンの『雨月集』を守り抜き、俺にハンカチを貸してくれた、そちらのリディア・ヴェール嬢を招くためだ」
エドガーは自らの夜会服の内ポケットから、淡い若草色の便箋の束を取り出した。それは、リディアが半年間『白い鈴蘭』としてエドガーへ送り続けてきた手紙の束だった。
「俺は最初から、東屋で言葉を交わしたあの時から、リディアこそが『白い鈴蘭』だと気づいていた。手紙に綴られた優しい言葉の選び方も、本を愛する真っ直ぐな瞳も、他人が手紙の束だけを盗んで真似できるものではない」
エドガーは呆然と立ち尽くすカロリーナとマルグリット夫人を冷徹に見下ろした。
「他人の手紙を盗み出し、公爵家を欺いて縁談を掠め取ろうとしたその浅ましさ、到底看過できるものではない。ヴェール伯爵夫人、ならびにカロリーナ嬢。両名にはただちに当家の別邸から退去していただく。本日付で、ヴァレンタイン公爵家はヴェール伯爵家との一切の社交および取引を断絶する」
「そ、そんな……! エドガー様、お許しください!」
泣き叫ぶ母娘が執事と警備員たちによって会場からつまみ出されていく。執事がカロリーナの手から取り上げた手紙の束を受け取ると、エドガーはゆっくりとリディアの前へと歩み寄り、その白い手を優しく差し伸べた。




