第3話_時計坂の邂逅と奪われた手紙
石畳を濡らしていた雨の名残がすっかり乾き、王都の南街には爽やかな春の風が吹き抜けていた。
カロリーナが夜会用の新しいドレスを仕立てるため、大通りの高級洋装店へ入ったのを見届けたリディアは、「生地選びには二時間はかかるから、外で待っていなさい」と命じられたのを幸いに、裏通りの石階段を下った先にある『時計坂古書店』へと足を運んだ。
蔦の絡まるレンガ造りの小さな店に入り、真鍮のドアベルを鳴らすと、古紙と乾いたインクの懐かしい匂いが優しく鼻腔をくすぐった。
「やあ、いらっしゃい。お嬢さん、今日もいい日和だね」
カウンターの奥で虫眼鏡を片手に目録を整理していた白髪の老店主が、柔和な笑みを浮かべて迎えてくれた。その傍らには、真鍮の金具がついた古いクルミ材の『書簡箱』が置かれている。
リディアは手提げ袋から、昨夜丁寧に書き上げた封書を取り出した。まだ確証はないけれど、もし『灰色の梟』があの東屋で出会ったエドガーなのだとすれば、どうしてもあのお礼と三十四頁の詩の感想を伝えたかったのだ。
「ご主人、また『灰色の梟』様宛てのお手紙をお願いできますか」
「あいよ、確かに預かろう。……おや、そういえば今ちょうど、奥の書架に常連さんが来ているよ」
店主が目を細めたのと同時に、店の奥の通路から、数冊の革装本を抱えた長身の青年が姿を現した。
上質な濃紺のジャケットを飾り気なく着こなしたその姿を見て、リディアは思わず息を呑んだ。
「……ヴァレンタイン様!?」
「……お前は、昨日の東屋の」
エドガーもまた、カウンターの前に立つリディアの姿を見止めて足を止めた。驚きに目を見開いた二人は、古い書架に囲まれた狭い店内で、互いに言葉を失って見つめ合った。
老店主が二人の様子を微笑ましそうに眺めながら、気を利かせるように立ち上がった。
「わしは少し裏の倉庫で荷解きをしてくるよ。ゆっくり本を見ていきなさい」
店主が奥の扉へと引っ込むと、店内には柱時計の振り子の音だけが残された。
エドガーは少し気まずそうに咳払いをひとつすると、リディアの隣へと歩み寄った。その視線が、カウンターの上に残された封書と、クルミ材の書簡箱へと落ちる。
「……お前も、この店の客だったのか。昨日の『雨月集』といい、本当に妙なところで鉢合わせるな」
「ええ、本当に……。あの、昨日はハンカチのお礼にと、あのような素敵なブローチまでいただいてしまって、ありがとうございました。それに、教えていただいた三十四頁の詩も、家に帰ってから夕暮れの光の中で読みましたわ」
リディアが胸元にそっと留めていた鈴蘭のブローチに触れながら微笑むと、エドガーの蒼灰色の瞳がわずかに揺れた。
「……どうだった、あの詩は」
「とても静かで、温かい詩でした。通り雨に打たれた旅人が、見知らぬ誰かが軒先に置いてくれた一杯の白湯に救われるお話……。なんだか、昨日の東屋でのヴァレンタイン様の不器用な優しさと重なって見えて、胸がいっぱいになりましたわ」
リディアが素直な感想を口にすると、エドガーは不意を突かれたように息を詰まらせ、ぷいっと横を向いた。長い黒髪の隙間から覗く耳朶が、うっすらと朱色に染まっている。
「……俺は別に、優しくなどしていない。ただ雨宿りの場所を貸しただけだ」
「ふふ、そういうことにしておきますわ。でも、世間の方々が噂していらっしゃる『氷雨の公爵令息』なんて、きっと誰かの大きな勘違いなのですね。ヴァレンタイン様は、本と静かな時間を愛する、とても誠実な方ですもの」
誰の目も気にせず、ただ目の前の彼自身を見て紡がれたリディアの言葉。
エドガーはゆっくりと向き直ると、まるで珍しい宝物でも見るかのような深い眼差しで、リディアの顔をじっと見つめた。
「……お前は、俺の家の名前に興味はないのか。普通の令嬢なら、公爵家の嫡男と二人きりになれば、どうにかして気に入られようと家柄を褒めそやすものだが」
「お家がどれだけご立派でも、本の感想は語り合えませんもの。私は、公爵家の看板とお話ししているのではなく、昨日私に詩の頁を教えてくださったエドガー様とお話ししているのですわ」
リディアが屈託なく答えると、エドガーはしばらく呆然としたあと、やがて肩を震わせて低く笑った。
「……負けたよ。お前みたいな令嬢に出会ったのは、生まれて初めてだ」
エドガーの顔に浮かんだのは、昨日の東屋よりもさらに柔らかく、年相応の青年の輝きを帯びた笑顔だった。
「お前、ヴェール伯爵家の娘だろう。名前を聞いていなかった。何という」
「リディアと申します。リディア・ヴェールですわ」
「リディアか。……来週、うちの別邸で開く読書夜会に、ヴェール伯爵家へ招待状を送らせた。お前も来るんだろうな」
やはり、あの招待状はエドガーがリディアのために送ってくれたものだったのだ。胸の奥に温かい喜びが広がる一方で、叔母と従姉に招待状を取り上げられた現実が頭をよぎる。けれど、侍女代わりとしてでも会場へ同行することは決まっていた。
「ええ、会場には必ず伺いますわ」
「よし、なら約束だ。俺は騒がしい広間は苦手だから、夜会の間は別邸の奥にある硝子温室にいることが多い。会場に着いたら、温室へ来い。……お前に、どうしても渡したい手紙と、話したいことがある」
エドガーの真剣な瞳に見つめられ、リディアは頬を染めながら「はい」と頷いた。彼が書簡箱の『灰色の梟』であることは、もはや疑いようのない確信へと変わっていた。
しかし、幸福な余韻に浸りながら洋装店へ戻ると、カロリーナの馬車はすでになかった。一人で歩いてヴェール伯爵邸へと帰り着いたリディアを待っていたのは、思いもよらない惨状だった。
三階の自室へ戻ると、鍵をかけていたはずの部屋の扉が半開きになっていたのだ。
「え……?」
慌てて部屋へ駆け込んだリディアの目に飛び込んできたのは、無残にこじ開けられた机の引き出しと、その前に立って水色のリボンの手紙の束を勝ち誇ったように読み耽っている従姉カロリーナの姿だった。
「カロリーナお姉様! な、何をなさっているのですか! それは私の大切な手紙です、返してください!」
リディアが手を伸ばして取り返そうとすると、カロリーナは意地悪な笑みを浮かべて手紙を高く掲げ、背後に控えていた二人の下男にリディアの両腕を押さえつけさせた。
「いやあね、リディア。あなたが昨日からやけにコソコソしているから部屋を調べさせてみれば、こんな宝の山を隠していたなんてね!」
カロリーナは手紙の一枚をひらひらと揺らした。
「この最高級のコットン紙の透かし模様、ヴァレンタイン公爵家御用達の特注品よ! それにこの万年筆の筆跡、間違いなく昨日届いた招待状の添え状と同じエドガー様の字だわ! あなた、『白い鈴蘭』なんて気取った偽名を使って、時計坂古書店でエドガー様と秘密の文通をしていたのね!」
「お姉様、お願いですから返してください! それは私とあの方が、半年かけて少しずつ紡いできた大切な言葉なのです!」
必死に訴えるリディアを見下ろし、カロリーナは冷酷に唇を歪めた。
「あんたみたいな親なしの居候に、公爵家の嫡男なんて釣り合うはずがないでしょう! この手紙は全部、私が預かってあげるわ。来週の読書夜会では、この手紙を証拠にして、私こそが文通相手の『白い鈴蘭』だとエドガー様に名乗り出て差し上げるの!」
「そんな……! 嘘をついても、お話しすればすぐに分かってしまいますわ!」
「だから、あんたには夜会の当日、私の後ろで一言も喋らずに控えさせるんじゃないの。もし余計な真似をしたら、お父様に言ってあんたの両親の形見の品も本もすべて焼き捨てて、今すぐ屋敷から放り出してやるわよ!」
カロリーナは手紙の束を自分の懐へと押し込むと、高笑いを残して部屋から出て行った。
荒らされた机の前で、リディアは床に膝をついた。半年間、心の支えとして大切に読み返してきた手紙がすべて奪われてしまった悔しさに、指先が震える。
だが、リディアは涙を拭い、胸元の鈴蘭のブローチをぎゅっと握りしめた。
(手紙の紙束は奪えても、私が書いてきた言葉や、東屋と古書店でエドガー様と交わした時間までは絶対に奪えない。……私はもう、ただ黙って俯いているだけの人形にはならないわ)
リディアは散らばった引き出しを片付け、夜会の日へ向けて静かに覚悟を決めたのだった。
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