第2話_古書店の書簡箱と奪われた招待状
夕立の上がった王都の街路を馬車に揺られ、ヴェール伯爵邸へと戻ったリディアを待っていたのは、玄関ホールに響き渡る甲高い叱責の声だった。
「いったいどこをほっつき歩いていたの、リディア! あなたが日傘を持ってくるのが遅いせいで、私のせっかくの巻き髪が湿気で台無しになったじゃない!」
階段の下で扇を荒々しく仰いでいたのは、リディアの従姉であるカロリーナだった。薔薇色の豪華なドレスを身に纏い、母親であるマルグリット伯爵夫人と並んでリディアを睨みつけている。
三年前に両親を流行り病で亡くし、爵位を継いだ叔父の屋敷に身を寄せることになったリディアにとって、この母娘からの理不尽な小言は日常茶飯事だった。
「申し訳ございません、カロリーナお姉様。馬車置き場からの帰り道で夕立が激しくなってしまって、少しの間だけ東屋で雨宿りをしておりましたの」
「ふん、どうせ私の用事をサボって油を売っていたんでしょう! おかげで今日の園遊会の最大の目的だったエドガー・ヴァレンタイン様のお姿を、一目も拝めなかったわ!」
カロリーナが悔しそうに地団駄を踏む横で、叔母のマルグリット夫人が冷ややかな溜息を吐いた。
「まったく、役に立たない娘ね。いいこと、リディア。あなたをこの屋敷に置いてやっているのは、カロリーナが良縁を得るまでの引き立て役としてよ。濡れたドレスで見苦しいから、さっさと裏階段から部屋へ戻っていなさい」
「……はい、叔母様」
リディアは反論の言葉を静かに飲み込み、一礼してホールの脇にある使用人用の狭い階段を上った。
三階の奥にある、かつて客間用の衣装部屋だった小さな自室へ入ると、リディアはようやく肩の力を抜いて扉に背を預けた。窓辺の小さな木製机に歩み寄り、雨から守り抜いた詩集『雨月集』と、エドガーが置いていった白銀と真珠細工の鈴蘭のブローチを並べて置く。
夕暮れの柔らかな茜色の光が窓から差し込み、繊細な鈴蘭の花弁を温かく照らし出していた。
(あのヴァレンタイン公爵令息が、『雨月集』の三十四頁の詩をご存じだったなんて……)
リディアは机の鍵付きの引き出しを開け、一番奥にしまってあった淡い水色のリボンで結ばれた手紙の束を取り出した。
すべて同じ、少し厚みのある灰色のコットン紙に、深い青黒色の万年筆のインクで綴られた十数通の手紙。差出人の署名はいつも『灰色の梟』とだけ記されている。
きっかけは半年前の秋、リディアが叔母たちの買い物の付き添いで南街を訪れた際、ふと立ち寄った『時計坂古書店』でのことだった。その古書店には、本を読んだ客が感想を書き残し、店主を介して同じ本を愛する誰かと匿名で手紙を交換できる『書簡箱』という古い習わしがあった。
リディアが古い随筆集の感想を書いて箱に入れたところ、次に店を訪れた際に達筆な文字で返事をくれたのが『灰色の梟』だった。お互いの名前も、家柄も、年齢すら明かさないまま、二人は本や詩、季節の移ろい、そして日常の中で感じた小さな孤独について手紙を交わすようになった。
リディアが自分の署名として使っていた名前こそが、『白い鈴蘭』だったのだ。
リディアは手紙の束の一番上にある、先週受け取ったばかりの手紙を広げた。
『白い鈴蘭様。最近、私は周囲の人間が向けてくる打算的な笑顔に、少し疲れを感じています。誰もが私の背後にある家の名ばかりを見て、私自身の言葉には耳を貸そうとしません。けれど、あなたが綴ってくださる飾らない言葉を読む時だけ、私はただの一人の人間として息ができるのです。追伸――もし機会があれば、クレマンの雨月集の三十四頁を、雨上がりの夕暮れに読んでみてください。きっとあなたの心に似合うはずです』
指先でその文字をなぞりながら、リディアの胸の奥がトクトクと速い音を立てた。
東屋で出会ったエドガーの、あのひどく疲れたような横顔。白いハンカチを差し出した時に見せた、拍子抜けしたような表情。そして、去り際に置いていった鈴蘭のブローチと、三十四頁の詩の言葉。
(偶然にしては、あまりにも重なりすぎているわ。でも、もし本当にヴァレンタイン様が『灰色の梟』様だとしたら……どうしてあんなに不機嫌そうに振る舞っていらっしゃったのかしら)
いや、手紙にあった通りなのだとしたら、すべて合点がいく。公爵家の嫡男という立場ゆえに、周囲から常に家柄や財産目当てで媚びへつらわれ、誰も彼自身の本心を見ようとしなかったからこそ、彼は自分を守るために『氷雨』のような冷たい仮面を被っていたのではないか。
リディアが詩集の三十四頁を開き、夕陽の中で静かな詩の行間を読み耽っていた時、階下の廊下から慌ただしい足音と、カロリーナの歓喜の悲鳴が聞こえてきた。
「お母様、ご覧になって! ヴァレンタイン公爵家から、正式な招待状が届きましたわ!」
何事かと思ってリディアが部屋の扉を少し開けると、二階のサロンからマルグリット夫人の興奮した声が響いてきた。
「まあ! 来週、公爵家の別邸で開かれる『春宵の読書夜会』への招待状じゃないの! ごく限られた令嬢しか招かれない特別なサロンだと聞いているわ!」
「ええ! 宛名は『ヴェール伯爵家の令嬢へ』となっていますし、添え状には『本日の園遊会でのご縁に感謝し、雨上がりの詩の続きを伺いたく存じます』ですって! 間違いありませんわ、エドガー様は園遊会の会場で、遠目に私の美しい姿を見初めてくださったのですわ!」
サロンから聞こえてくる母娘の勝手な解釈に、リディアは思わず机の上のブローチをつかみ、階段の手すりへと歩み出た。
「あ、あの、叔母様、カロリーナお姉様……! その添え状の言葉は、もしかすると……」
「ちょっと、リディア! 聞き耳を立てていたの!?」
階段の下から見上げたカロリーナが、封筒を胸に抱え込んで鋭く言い放った。
「まさか、エドガー様があなたなんかを招いたとでも言うつもり!? 泥水で裾を汚した地味な居候の娘を、あの誇り高い公爵令息が相手になさるはずがないでしょう!」
「そ、そうですけれど、その詩のお話は……」
「黙りなさい、リディア!」
マルグリット夫人が冷酷な声で遮った。
「『ヴェール伯爵家の令嬢』といえば、この家の長女であるカロリーナのことです。お前が図々しくしゃしゃり出る幕はありません。……ああ、そうね、当日の夜会は読書の話題が出るそうだから、お前は侍女代わりに同行して、カロリーナの後ろで控えなさい。万が一カロリーナが知らない本の名前が出たら、後ろから小声で耳打ちして教えるのよ。いいわね!」
二人はリディアに有無を言わせず、招待状を持ってサロンの中へと引っ込んでしまった。
人気のなくなった階段の踊り場で、リディアは唇を噛みしめた。いつもなら、波風を立てないためにただ俯いて引き下がっていた場面だった。
だが、リディアの手の中で、先ほど東屋で渡された鈴蘭のブローチが、確かな重みを持って指先に触れていた。
(あの招待状は、私とエドガー様が東屋で交わした言葉の続きだわ。……嘘で塗り固めたお姉様の言葉で、あの人の誠実な想いを踏みにじらせるわけにはいかない)
リディアは静かに顔を上げた。近いうちに南街の『時計坂古書店』へ行き、自分の手で真実を確かめよう――そう心に決めた彼女の瞳には、今までになかった強い光が宿っていた。




