第1話_夕立の東屋と不機嫌な公爵令息
春の陽気が満ちていたはずの王宮庭園は、西の空から押し寄せてきた鉛色の雲によって、わずか数分のうちに薄暗い影へと呑み込まれていった。
遠くで低い雷鳴が轟き、湿り気を帯びた冷たい風が薔薇の生垣を激しく揺らす。華やかな春物のドレスを着飾った令嬢や貴公子たちが、悲鳴混じりの笑い声を上げながら本館のテラスへと駆け戻っていく中、リディア・ヴェールは一人で庭園の奥の小径を急いでいた。
「いけない、このままでは本が濡れてしまうわ……」
リディアは淡い若草色のドレスの裾を片手でたくし上げ、もう片方の腕に抱えた布張りの詩集を胸元へと強く引き寄せた。少し前に従姉のカロリーナから「日傘を馬車に忘れたから取ってきてちょうだい」と言いつけられ、庭園の反対側まで往復していたせいで、本館へ戻る人の波から完全に遅れてしまったのだ。
ポツリ、と冷たい大粒の雫がリディアの頬を打った。次の瞬間には、バケツをひっくり返したような激しい夕立が白亜の砂利道を叩きつけ、白い水煙が視界を覆い尽くした。
本館まではまだ遠い。リディアは視線を巡らせ、菩提樹の林の奥にひっそりと佇む石造りの古い東屋を見つけると、迷わずそちらへと駆け込んだ。
「はあ、はあ……っ。よかった、詩集は無事だわ」
石の屋根の下へ滑り込んだリディアは、まず何よりも先に胸元の本を確かめ、ほっと安堵の息を吐き出した。肩や亜麻色の髪の毛先は雨粒でしっとりと濡れてしまったが、大切な本に染みひとつ付かなかったことだけで十分に思えた。
ハンカチを取り出して頬の水滴を拭おうとした、その時だった。
「……随分と騒々しい侵入者だな。ここは俺が先に使っているんだが」
東屋の奥、石柱の陰から低く不機嫌そうな声が降ってきた。
リディアは驚いて顔を上げた。薄暗い東屋の奥のベンチに、黒を基調とした上質なフロックコートを纏った長身の青年が、長い脚を組んで腰掛けていたのだ。雨の湿気で少し乱れた黒髪の下から、氷のように冷ややかな蒼灰色の瞳がリディアを射抜くように見つめている。
整いすぎた美貌と、周囲を寄せ付けない刺々しい空気。その顔に見覚えがあったリディアは、思わず息を呑んで一歩後ろへ下がった。
ヴァレンタイン公爵家の嫡男、エドガー・ヴァレンタイン。王国内で王家に次ぐ権勢を誇る公爵家の跡取りでありながら、社交界の夜会では常に壁際で不機嫌そうに顔をしかめ、言い寄る令嬢たちに辛辣な言葉を浴びせることから、『氷雨の公爵令息』と噂されている人物だった。
「も、申し訳ございません、ヴァレンタイン様! 先にどなたかいらっしゃるとは気づかず、その……すぐに他へ移りますわ!」
リディアは慌てて一礼し、豪雨の降りしきる外へと足を踏み出そうとした。伯爵家の居候の身である自分が、公爵家の嫡男と同じ空間に居合わせて不興を買えば、あとで叔母や従姉からどれほど叱責されるか分からなかったからだ。
だが、リディアが雨の中へ出ようとした瞬間、背後から鋭い舌打ちが響いた。
「おい、待て。この土砂降りの中へ出て行って、風邪でも引いて俺のせいにされるのは御免だ。そこに座っていろ」
「え……?」
振り返ると、エドガーは忌々しげに眉間へ皺を寄せながらも、自分が座っていた長い石のベンチの反対側の端を顎でしゃくった。
「東屋は俺の私物ではない。雨が止むまで、お互い空気として扱えばいいだけの話だろう。ただし、下らない世間話や家の自慢話を始めるつもりなら、今すぐ追い出すからな」
ぶっきらぼうな物言いだったが、濡れ鼠になるリディアを引き止めてくれたのは確かだった。リディアは小さく頷き、エドガーからできるだけ離れたベンチの端へと遠慮がちに腰を下ろした。
屋根を叩く激しい雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていく。
リディアは膝の上に置いた詩集をそっと撫でながら、隣に座る公爵令息の様子を控えめに窺った。エドガーは腕を組み、外の雨脚をぼんやりと眺めている。社交界では「傲慢で冷血」と恐れられている彼だが、こうして近くで見る横顔は、怒っているというよりも、ただひどく疲れ切っているように見えた。
ふと、エドガーの組まれた腕の袖口が雨で濡れ、白いカフスが肌に張り付いているのが目に入った。彼はリディアよりも前にここへ逃げ込んだようだが、途中でかなり雨に打たれたらしい。
リディアは自分の手提げ袋の中から、予備として持ち歩いていた乾いた大判の麻のハンカチを取り出した。少し迷った末に、ベンチの真ん中あたりへそっと差し出す。
「あの……ヴァレンタイン様。よろしければ、こちらをお使いください。袖口が濡れたままですと、お体が冷えてしまいますから」
エドガーが訝しげに視線を落とし、リディアの手にある白いハンカチを見た。派手な金糸の刺繍も、家紋も入っていない。隅に白糸の小さな縫い取りがあるだけの、清潔にアイロンがかけられた素朴なハンカチ。
「……お前、自分がどれだけ濡れているか分かっているのか。人の心配をする前に、自分の肩を拭け」
「私は普段着のショールを中に重ねておりますので平気ですわ。それに、先ほど『風邪を引いて自分のせいにされるのは御免だ』とおっしゃいましたでしょう? お互い様でございます」
リディアが控えめに、けれど少しだけおかしそうに微笑んで言い返すと、エドガーは虚を突かれたように目を瞬かせた。自分の皮肉をそのまま返されるとは思っていなかったのだろう。数秒の沈黙のあと、エドガーは小さく息を吐き、差し出されたハンカチを無言で受け取った。
「……妙な奴だな、お前は」
エドガーが濡れた袖口と首筋を拭う間、その視線がふと、リディアが膝の上で大事そうに抱えている淡い灰色の布張りの本へと留まった。
「その本は……百年前の詩人、クレマンの『雨月集』か」
思いがけない言葉に、リディアは驚いて顔を上げた。
「ご存じなのですか!? あまり刷られていない古い詩集ですので、周りの方に話しても誰も知らなくて……」
「王都の古書店でも滅多に見かけない版だからな。先月、南街の『時計坂古書店』の棚の隅にあった一冊だろう。装丁の角に、小さな銀杏の押し葉の栞が挟んであったはずだ」
「えっ……! な、なぜそれを……!」
リディアが目を丸くすると、エドガーは少しだけバツが悪そうに視線を逸らした。
「俺も買おうか迷って、一度手に取っただけだ。次に店へ行った時には、もう誰かに買われたあとだったがな。……まさか、園遊会で自分のドレスよりその古本を優先して守る令嬢がいるとは思わなかった」
「だ、だって、ドレスは洗えば綺麗になりますけれど、百年前の紙は一度水を含んでしまったら元には戻りませんもの」
リディアが真剣な顔で答えると、エドガーの口元から、ふっと小さな笑い声が漏れた。氷が溶けるように和らいだその表情は、リディアが今まで社交界の遠くから見ていたどの貴公子よりも自然で、穏やかだった。
ちょうどその時、雲の切れ間から淡い陽射しが差し込み、あれほど激しかった雨脚が嘘のように遠のいていった。木々の葉から落ちる雫が、太陽の光を受けて宝石のように煌めいている。
「……止んだな」
エドガーが立ち上がり、借りていたハンカチを丁寧に折りたたんで上着の内ポケットへしまった。
「ハンカチは洗って返す。だが、お前は俺と関わり合いになるのを嫌がっているようだから、いつになるか分からん。代わりに、これを置いていく」
そう言ってエドガーがベンチの上に置いたのは、彼が胸ポケットに挿していた、雨露を含んだ一輪の白い鈴蘭のブローチだった。
「えっ、あ、あの、このような高価なものをいただくわけには……!」
「礼ではない。古書を雨から守った同志への敬意だ。……それと、その『雨月集』の三十四頁の詩は、雨上がりの夕暮れに読むのが一番いい。試してみろ」
エドガーはそれだけ言い残すと、リディアの返事も待たずに長い脚で東屋の階段を降り、湿った石畳の向こうへと去っていった。
残されたリディアは、ベンチの上の鈴蘭のブローチをそっと手に取り、呆然と彼の背中を見送った。
(三十四頁の詩を、雨上がりの夕暮れに……?)
その言葉は、リディアが半年前から『時計坂古書店』の匿名書簡箱を通じて手紙を交わしている、顔も名前も知らない文通相手――『灰色の梟』が、先週の手紙に書いてくれた一節と、そのまま重なっていた。
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