第5話_硝子温室の月明かりと宛名のある手紙
ざわめく広間の喧騒を背後に残し、エドガーに手を引かれたリディアは、回廊を抜けた先にある大温室へと足を踏み入れた。
高いドーム状の硝子天井からは、澄み渡った春の月明かりが銀色のヴェールのように降り注いでいる。温室の奥では小さな噴水が静かな水音を奏で、鉢植えの白い鈴蘭や夜咲きのジャスミンが、しっとりとした甘い香りを漂わせていた。
「……ここまで来れば、もう誰も邪魔はしない」
エドガーは足を止め、握っていたリディアの手を名残惜しそうにそっと離した。そして、先ほどカロリーナの手から取り戻した水色のリボンの手紙の束を、リディアの両手へと丁寧に返してくれた。
「ありがとうございます、エドガー様。もう二度と戻ってこないかと思っていましたから……本当に嬉しいですわ」
リディアが胸元に手紙の束を抱きしめて微笑むと、エドガーは月明かりの下で少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「大切な手紙をあんな連中に奪わせてしまって、すまなかった。お前があの家でどんな扱いを受けているか、もっと早く俺が気づいていればよかったんだが」
「いいえ、エドガー様が謝られることではございませんわ。私がずっと、波風を立てるのが怖くて言いなりになっていただけなのですから。……でも、今夜はエドガー様が前に立ってくださったおかげで、初めて自分の言葉で言い返すことができました」
リディアは顔を上げ、目の前の青年の蒼灰色の瞳をまっすぐに見つめた。
「あの……エドガー様は、いつから私が『白い鈴蘭』だと気づいていらっしゃったのですか? 東屋でお会いした時には、まだお名前も名乗っておりませんでしたのに」
不思議そうに尋ねるリディアに、エドガーは口元をわずかに綻ばせ、夜会服の胸ポケットから一枚の白い麻のハンカチを取り出した。
先日の夕立の東屋で、リディアがエドガーに貸したあのハンカチだった。綺麗に洗われ、丁寧にアイロンがかけられている。
「お前が東屋でこれを貸してくれた時、最初はただの風変わりで親切な令嬢だと思った。だが、濡れた袖を拭おうとしてハンカチの隅を見た瞬間、心臓が止まるかと思ったよ」
エドガーの長い指先が、ハンカチの角に白い糸で小さく縫われた、控えめな一輪の鈴蘭の刺繍をなぞった。
「お前が書簡箱に入れてくれた手紙の便箋の隅には、いつもペン先でこれとまったく同じ形の小さな鈴蘭の絵が添えてあっただろう。それを見た瞬間、俺が半年間ずっと言葉を交わし、勝手に心を救われていた相手が、目の前に座っているのだと分かった」
「あ……! あの小さな落書きを、覚えていてくださったのですか」
「忘れるわけがないだろう。俺は毎回、お前の手紙を穴が空くほど読み返していたんだからな」
エドガーは少し不機嫌そうに唇を尖らせ、耳の端を赤く染めながら低く呟いた。
「だから、去り際に俺の鈴蘭のブローチを置いて、わざと最後の手紙に書いた『雨月集』の三十四頁の話をしたんだ。もしお前が本当に『白い鈴蘭』なら、きっと気づいてくれると思ってな。……それなのに、時計坂古書店で再会した時もお前はニコニコと本の話ばかりして、ちっとも文通のことを切り出さないから、どれだけ焦らされたか」
「だ、だって、もし私の思い違いだったらと思うと、恥ずかしくてお聞きできなかったのですもの……!」
あの『氷雨の公爵令息』と恐れられるエドガーが、実はそんなふうにヤキモキしながら自分を待っていてくれたのだと知り、リディアの胸にじんわりと温かな幸福感が広がっていく。
けれど、ふと現実のことが頭をよぎり、リディアは小さく眉を下げた。
「でも……今夜のことで、叔母様たちはきっとカンカンに怒っていらっしゃいますわ。屋敷へ戻ったら、今度こそ追い出されてしまうかもしれません……」
不安げに呟いたリディアの言葉を、エドガーの力強い声が遮った。
「あの屋敷には、もう二度と戻らなくていい」
「え……?」
「親類を侍女のように扱い、手紙を盗んで嘘をつくような家に、お前を帰すつもりはない。今夜それを、この目で確かめた」
エドガーは一歩踏み出し、リディアの正面に立った。そして、内ポケットから一枚の真新しい封筒を取り出し、リディアの前へと差し出した。
いつもと同じ、厚みのある灰色のコットン紙の封筒。けれど、その表書きに記されていたのは『白い鈴蘭様』という仮の名前ではなかった。
『リディア・ヴェール様へ』
深い青黒色のインクで丁寧に綴られた自分の本当の名前に、リディアは息を呑んだ。
「これが、先日古書店で言っていた、お前にどうしても渡したかった手紙だ。……だが、書簡箱を通さずに直接渡す手紙だから、中身は俺の口から直接言わせてくれ」
エドガーは深く息を吸い込むと、逃げ場のないほど真っ直ぐで熱を帯びた蒼灰色の瞳で、リディアを見つめた。
「半年前、社交界の打算や嘘に疲れ果てていた俺を救ってくれたのは、お前の紡ぐ誠実で優しい言葉だった。そして東屋で出会い、古書店で語り合ううちに、俺は手紙の中の『白い鈴蘭』にだけでなく、生身のリディア・ヴェールという女性そのものに、どうしようもなく惹かれていった」
エドガーはリディアが抱えていた手紙の束を受け取り、封筒と重ねて傍らの花台へそっと置いた。そして、空いたリディアの華奢な手を、大きな手でそっと包み込む。東屋でハンカチを受け取った時とは違う、確かな熱を持った優しい手のひらだった。
「俺は口下手だし、お前以外の人間にはこれからも愛想よく振る舞えないかもしれない。だが、お前一人だけは、生涯をかけて誰よりも大切にし、守り抜くと誓う。……リディア。これからは手紙ではなく、毎日俺の隣で、お前の言葉を聞かせてくれないか。俺の妻になってほしい」
静かな温室に響いた、不器用で、けれどどんな美辞麗句よりも真っ直ぐな求婚の言葉。
両親を亡くしてからずっと、誰の邪魔にもならないようにと声を潜めて生きてきたリディアにとって、それは自分の存在のすべてを肯定してくれる、奇跡のような光だった。
瞳からあふれ出た涙が頬を伝い落ちるのも構わず、リディアは満面の笑みを咲かせて頷いた。
「はい……! はい、エドガー様。私でよろしければ、喜んで。これからは毎日、一番近くであなたにお返事を伝えさせてください」
リディアが両手でエドガーの手を握り返すと、エドガーは心底ほっとしたように顔をほころばせ、もう片方の手でリディアの頬の涙をそっと拭った。そして、そのままリディアの細い肩を自らの胸元へと優しく抱き寄せる。
頬に触れる黒髪の柔らかさと、エドガーの胸から伝わる温かな鼓動。お互いに不器用で、少しだけ遠回りをした二つの心が、月明かりの温室でようやくひとつに重なり合った。
硝子天井の向こうでは、澄み切った春の夜空に、無数の星々が優しく瞬いている。
古い書簡箱から始まり、雨の東屋で結ばれた二人の物語は、これから先も終わることのない温かな対話とともに、新しい頁を静かに紡ぎ始めていた。
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