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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第2章「島の時間、相場の時間」
9/25

こちらの予定だけが予定ではない

今日は組めると思っていた。


朝五時に起き、米国市場を確認し、コーヒーを淹れ、八時から前場の準備に入る。九時から板を見る。昼に片岡の店で食事を取り、後場に戻る。十五時十五分に引けたら振り返り。夜間立会は軽く流す。間に入る用事はない。買い出しは昨日済ませた。ゴミの日でもない。近江にも用事はないはずだった。


今日は、SQまで二週間を切っていた。ポジションの調整を考えたい日だった。ストラングルのプット側が少し近くなっている。指数が下がれば、デルタが偏る。ヘッジを入れるか、ポジションを閉じるか、それとも追加で売るか。今日中に方針を決めたかった。


九時、前場が始まった。板を見る。寄りはほぼ横ばい。IVは低水準のまま。


九時二十分、スマホが鳴った。


知らない番号だった。出ようか迷ったが、島で暮らし始めてからの連絡は限られている。大家か、回線業者か。出た。


森脇だった。


「南里さん、森脇です。近江さんから番号聞きました。すみません」


「いえ、大丈夫です」


「屋根の件なんですけど、雨が上がったんで明日見に行こうと思っとったんですが、明日はちょっと別件が入ってしまって。今日の午後なら一時間くらい空くんですけど、よろしいですか」


今日の午後。後場の時間だった。


「何時くらいですか」


「二時くらいから。屋根に上がって見るだけなんで、一時間もかからんと思います」


後場は十二時半に始まる。二時だと、後場の途中だった。だが屋根の確認は必要だった。梅雨はまだ続く。次の雨で漏る可能性がある。先送りすれば、次に森脇が空く日まで待つことになる。


「分かりました。二時でお願いします」


電話を切った。画面に戻る。板は動いていない。


十時半、近江が来た。


「南里さん、回覧板」


回覧板。そういうものがあることを忘れていた。近江が持ってきた板には、町内会の連絡が挟んであった。道路の清掃日と、ゴミ置き場のネットの交換日。


「見たら、次の家に回してね。隣の山本さんのとこ」


「隣、ですか」


「二軒先の。表札が出とるけえ、分かるよ」


南里は回覧板を受け取った。見る。清掃日は来週の日曜。ゴミ置き場のネット交換は再来週。日曜は相場が休みだから問題ないが、清掃に参加するかどうかは別の話だった。


回覧板を次の家に届けるために、外に出ないといけない。今は前場の途中だった。


「あとで届けます」


「早めにね。止めとくと次の人が困るけえ」


近江は帰った。回覧板が机の横に置かれている。些細な用事だった。二軒先に届けるだけだ。だが今は画面の前にいたい。


十一時半、前場が引けた。回覧板を持って外に出た。隣の隣。山本という表札の家を見つけ、玄関先に声をかけた。年配の男性が出てきた。回覧板を渡した。「ありがとう」と言われた。それだけだった。三分で終わった。


だがその三分は、南里が組んだ予定にはなかった。


---


昼、片岡の店へ向かった。


十一時五十分に着いた。今日は混んでいた。カウンターが五席埋まっていた。残り一席。テーブル席も一卓使われている。


カウンターの端に座った。片岡は忙しそうだった。注文を受けながら、会計をしながら、厨房で鍋を見ている。


「すみません、今日は少し待ちます」


「大丈夫です」


待った。十分以上待った。前の客の定食が先に出て、会計が済んで、それから南里の番が来た。


日替わりは鰯のフライだった。食べた。急いで食べた。後場が十二時半に始まる。食べ終えて会計をしたのが十二時二十五分。


店を出て車に乗り、古家に戻ったのが十二時三十二分。後場はすでに始まっていた。二分遅れた。


PCの前に座る。板を開く。動いていない。二分の遅れは結果に影響しなかった。しなかったが、気分は悪かった。


十四時、森脇が来た。


軽トラが止まる音。南里は玄関に出た。森脇は梯子を下ろしていた。


「じゃあ上がりますね」


「お願いします」


森脇が屋根に上がった。南里は六畳間に戻った。板を見る。後場の途中。指数は小動き。ポジションの調整を考えたかったが、頭の半分が屋根の方に向いていた。


十分ほどで森脇が降りてきた。靴を脱いで上がり、南里に説明した。


「瓦が一枚ずれとります。その下の防水紙も少し切れとる。瓦を戻してコーキングすれば、しばらくは持ちます。ただ、防水紙の全体が弱ってきとるけえ、来年にはもうちょっとちゃんとやった方がええです」


「今日、直せますか」


「瓦だけなら三十分くらいです。やりましょうか」


「お願いします」


森脇は再び屋根に上がった。瓦を動かす音、コーキングガンの音が上から聞こえた。


南里は板を見ていた。見ていたが、集中はしていなかった。屋根の上で人が作業している状態で、相場の判断に沈み込むのは難しかった。


三十分ほどで森脇が降りてきた。


「終わりました。瓦は戻したんで、次の雨で様子を見てください。漏りよったらまた言ってください」


「ありがとうございます。見積もりは」


「今日は応急処置なんで、材料費だけもらいます。二千円で大丈夫です」


安い。東京で業者を呼べば、出張費だけで数千円かかる。だが、二千円の問題ではなかった。時間の問題だった。後場の途中に屋根の作業が入り、その間、相場に集中できなかった。


森脇が帰った。軽トラのエンジン音が遠ざかる。時計を見ると十四時五十分だった。後場の引けまで二十五分。ポジションの調整は結局できなかった。SQまでの方針を決めたかったのに、明日に持ち越しになった。


---


十五時十五分、後場が引けた。


振り返りをする。損益はほぼ変わらず。微増。ポジションに問題はない。調整は明日すればいい。


今日、南里がやったこと。前場を見た。回覧板を届けた。片岡の店で食事を取った。森脇の作業に立ち会った。後場を見た。


それだけだった。どれも大したことではなかった。一つひとつは十分か三十分で終わる。だが全部合わせると、今日の予定は形が変わっていた。


ポジション調整の時間はなくなった。SQまでの戦略を考える時間もなくなった。トレードの結果には影響しなかった。だが思った通りの一日にはできなかった。


崩されたわけではない。ただ、削られた。


こちらの予定だけが予定ではなかった。森脇には森脇の予定がある。近江には近江の段取りがある。片岡の店には店の混み具合がある。回覧板には回覧板の順番がある。


どれも南里に悪意はない。どれも南里を邪魔しようとしているわけではない。だが、どれも南里の時間を中心には回っていなかった。南里が画面を見ている間も、島は動いている。島の時間と南里の時間は、同じ場所にあるのに別の速度で動いている。


生活は、小さく何度も相場に触ってきた。

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