向こうも合わせる気はない
SQまで一週間を切っていた。
六月の下旬。梅雨は本格化している。三日続けて雨だった。今日も朝から降っている。風はないが、空気が重い。窓を開けても湿気が入るだけで、閉めても籠もるだけだった。
南里は朝四時半に起きた。いつもより早い。眠れなかったのではない。起きたかったのだ。
米国市場が動いていた。昨夜、ECBの政策決定がサプライズとなり、欧州市場が急落。その連鎖で米国市場も下げた。S&Pは一・八パーセントの下落。VIXは前日比で三割上昇している。
南里の背筋が伸びた。
IVが跳ねている。プレミアムが膨らんでいる。ストラングルの売りポジションは含み損が出ているはずだった。だが同時に、この水準でプレミアムを売るチャンスでもある。高いIVで売って、IVが戻れば利益になる。ボラティリティ売りの本領が出る局面だった。
スプレッドシートを開き、ポジションの時価を計算した。含み損は出ているが、証拠金にはまだ余裕がある。今日の前場でIVがさらに跳ねるなら、追加で売りを入れる余地がある。
ノートを開いた。シナリオを書く。IVがさらに上昇する場合。横ばいの場合。反落する場合。それぞれの判断を整理する。SQまでの残存日数と、セータの効き方を計算する。
これがやりたかった。これをやるために向島へ来た。この集中。この精度。余計なものを入れたくなかった。
コーヒーを淹れた。窓は閉めたまま。湿気が籠もるが、今日は構わなかった。画面の前を離れたくなかった。
七時半。指数オプションの気配値が出始めた。原指数は大幅安。二百五十円以上下げて寄りそうだった。板を確認する。プットのIVが急騰している。コールの方も上がっている。板全体が膨らんでいた。
南里は指をキーボードに置いた。注文の準備をする。寄りの動きを見てから判断する。今日は待つだけの日ではなかった。
八時十五分。
玄関の引き戸が鳴った。
近江の声だった。
「南里さん」
南里は歯を食いしばった。今日だけは来ないでくれ。今日だけは。
「南里さん、ちょっとだけ」
南里は無視した。画面を見ている。指数オプションの気配値が動いている。あと四十五分で前場が始まる。ここからが勝負だった。
「おるんじゃろう。車あるけえ」
引き戸が開いた。鍵。今日もかけていなかった。
近江が廊下に入ってきた。南里は椅子から振り返った。苛立ちが顔に出ていると分かっていた。
「すみません、今日はちょっと」
「すぐ済むけえ。排水のことなんよ」
「排水?」
「裏の排水溝がね、詰まりかけとるんよ。この雨でゴミが溜まっとるみたいで。放っとくと水が溢れるけえ、ちょっと見てくれん?」
「今じゃないと駄目ですか」
「雨が強くなる前にやっといた方がええんよ。溢れたら台所の方に回るけえ」
南里は立ち上がった。立ち上がるしかなかった。裏の排水溝が溢れて台所に水が回ったら、それこそ相場どころではなくなる。
長靴は持っていなかった。スニーカーのまま裏手に出た。雨が降っている。排水溝は家の裏手にあった。確かに、枯れ葉とゴミが溜まっていた。水の流れが悪くなっている。
南里はしゃがんで、手でゴミを掻き出した。枯れ葉、泥、小枝。手が汚れた。雨に濡れた。五分ほどで通りがよくなった。水が流れ始めた。
近江は軒下から見ていた。
「ああ、通ったね。それでええわ。雨が続くときは、ときどき見といた方がええよ」
「分かりました」
南里は手を洗い、六畳間に戻った。八時三十分。前場まで三十分。画面を見る。気配値は変わっていない。ポジションの確認をやり直す。
手が冷えていた。雨と泥で指先が冷たい。タオルで拭いた。キーボードに触る。指の感覚が戻るまで少し待った。
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九時、前場が始まった。
指数は大幅安で寄りついた。IVは急騰している。南里のストラングルは含み損が拡大した。だが想定内だった。
問題は、ここから追加の売りを入れるかどうかだった。IVが高い。プレミアムは厚い。ここで売れば、IVが戻ったときに大きく取れる。だが、さらに下げるリスクもある。証拠金の余裕を確認する。ぎりぎりではないが、余裕があるとも言えない。
板を見る。出来高を見る。気配値の厚みを見る。
十時。少し落ち着いた。指数の下げが止まった。IVの上昇も一服している。南里は判断した。プットの遠いところに、小さく売りを入れる。プレミアムは厚い。期限まで一週間。セータが効く。
注文を出した。指が動く。約定を待つ。
約定しなかった。指値が遠すぎた。板が薄い。
指値を修正する。少し近づける。出し直す。
スマホが鳴った。
森脇からだった。
「南里さん、屋根の件なんですけど。先日の処置で瓦は戻したんですが、隣の瓦も少しずれとるのが見えたんです。今度晴れたときに、もう一回上がらせてもらいたいんですけど」
「今、ちょっと立て込んでいて」
「すみません、今日じゃなくてええんです。今週中に一回、時間もらえたらと思って」
「分かりました。また連絡します」
電話を切った。画面を見る。注文はまだ約定していない。板を確認する。指数が少し戻している。IVが下がり始めている。指値が遠くなった。
修正するか。待つか。
迷っている間に、IVがさらに下がった。プレミアムが縮んでいく。売りを入れるなら五分前が最適だった。電話の間に、入り口を逃した。
南里は注文を取り消した。
椅子にもたれた。損をしたわけではない。機会を逃しただけだった。だが機会損失は、損失と同じくらい重い。
十一時。近江がまた来た。
「南里さん、排水溝のとこ、ちゃんと通っとった?」
「通ってます」
「ほうね。あとね、回覧板の返事、書いた? 清掃の参加のとこ」
「まだです」
「早めに出しんさいね。取りまとめの人が困るけえ」
南里は回覧板を探した。机の横に置いてあった。清掃日の参加欄に丸をつけた。参加する気はなかったが、丸をつけた方が早いと判断した。
近江に渡した。近江は確認して頷いた。
「日曜ね。朝八時から。長くても一時間くらいじゃけえ」
「分かりました」
近江が帰った。南里は画面に戻った。前場はあと三十分。板を見る。IVは下がり続けている。さっきのチャンスは完全に過ぎていた。
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昼、片岡の店へ行こうとした。車に乗り、店の前まで来た。
暖簾が出ていなかった。
入口に小さな張り紙がある。「本日、仕込みの都合により昼の営業はお休みします」
片岡が言っていた。木曜は定食の種類が少なくなるかもしれない、と。今日は木曜ではなかったが、仕込みの都合は片岡の都合であって、南里に事前通知されるものではなかった。
南里は車の中で数秒止まった。それからスーパーへ向かった。橋を渡る。往復三十分。弁当を買って古家に戻った。後場はすでに始まっていた。五分遅れた。
冷たい弁当を食べながら板を見た。指数は戻している。IVは午前中にほぼ戻った。朝の急落は織り込まれた。ポジションの含み損も縮小している。
結果としては悪くない一日だった。大きな損失は出ていない。ヘッジは効いている。ポジションは維持できている。
だが、朝のチャンスは逃した。追加の売りを入れるタイミングがあった。プレミアムが厚い瞬間があった。そこに集中していれば、入れたかもしれない。入れなかったのは、排水溝と電話と回覧板と、店が休みだったからだ。
どれも南里のせいではない。どれも誰のせいでもない。排水溝は詰まるものだし、森脇は屋根を気にしてくれているし、回覧板は回すものだし、片岡の店は片岡の都合で休む。
ただ、全部合わさると、南里の最適な一日は成立しなかった。
十五時十五分、後場が引けた。
振り返りをする。損益は微減。朝の含み損を日中で縮小したが、前日比では少しマイナスだった。問題のない範囲だが、プラスにできた日をマイナスで終えている。
ノートを閉じた。椅子にもたれた。
窓の外は雨だった。六月の終わりの雨は、止む気配がなかった。
南里は思った。向島の時間に合わせるつもりはない。自分の時間で、自分の相場を、自分の判断で回す。それがトレーダーとしての基本だった。
だが、この土地は南里の時間を中心には回っていなかった。近江には近江の朝がある。森脇には森脇の段取りがある。片岡には片岡の仕込みがある。排水溝には排水溝のタイミングがある。
どれも南里に合わせる気がなかった。南里もそれに合わせる気はなかった。
だが住むということは、その中にいるということだった。中にいる以上、触れる。触れれば削られる。削られても住んでいる。
時間が違う土地へ来たのだと、ようやく腹立たしく分かってきた。




