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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第2章「島の時間、相場の時間」
10/25

向こうも合わせる気はない

SQまで一週間を切っていた。


六月の下旬。梅雨は本格化している。三日続けて雨だった。今日も朝から降っている。風はないが、空気が重い。窓を開けても湿気が入るだけで、閉めても籠もるだけだった。


南里は朝四時半に起きた。いつもより早い。眠れなかったのではない。起きたかったのだ。


米国市場が動いていた。昨夜、ECBの政策決定がサプライズとなり、欧州市場が急落。その連鎖で米国市場も下げた。S&Pは一・八パーセントの下落。VIXは前日比で三割上昇している。


南里の背筋が伸びた。


IVが跳ねている。プレミアムが膨らんでいる。ストラングルの売りポジションは含み損が出ているはずだった。だが同時に、この水準でプレミアムを売るチャンスでもある。高いIVで売って、IVが戻れば利益になる。ボラティリティ売りの本領が出る局面だった。


スプレッドシートを開き、ポジションの時価を計算した。含み損は出ているが、証拠金にはまだ余裕がある。今日の前場でIVがさらに跳ねるなら、追加で売りを入れる余地がある。


ノートを開いた。シナリオを書く。IVがさらに上昇する場合。横ばいの場合。反落する場合。それぞれの判断を整理する。SQまでの残存日数と、セータの効き方を計算する。


これがやりたかった。これをやるために向島へ来た。この集中。この精度。余計なものを入れたくなかった。


コーヒーを淹れた。窓は閉めたまま。湿気が籠もるが、今日は構わなかった。画面の前を離れたくなかった。


七時半。指数オプションの気配値が出始めた。原指数は大幅安。二百五十円以上下げて寄りそうだった。板を確認する。プットのIVが急騰している。コールの方も上がっている。板全体が膨らんでいた。


南里は指をキーボードに置いた。注文の準備をする。寄りの動きを見てから判断する。今日は待つだけの日ではなかった。


八時十五分。


玄関の引き戸が鳴った。


近江の声だった。


「南里さん」


南里は歯を食いしばった。今日だけは来ないでくれ。今日だけは。


「南里さん、ちょっとだけ」


南里は無視した。画面を見ている。指数オプションの気配値が動いている。あと四十五分で前場が始まる。ここからが勝負だった。


「おるんじゃろう。車あるけえ」


引き戸が開いた。鍵。今日もかけていなかった。


近江が廊下に入ってきた。南里は椅子から振り返った。苛立ちが顔に出ていると分かっていた。


「すみません、今日はちょっと」


「すぐ済むけえ。排水のことなんよ」


「排水?」


「裏の排水溝がね、詰まりかけとるんよ。この雨でゴミが溜まっとるみたいで。放っとくと水が溢れるけえ、ちょっと見てくれん?」


「今じゃないと駄目ですか」


「雨が強くなる前にやっといた方がええんよ。溢れたら台所の方に回るけえ」


南里は立ち上がった。立ち上がるしかなかった。裏の排水溝が溢れて台所に水が回ったら、それこそ相場どころではなくなる。


長靴は持っていなかった。スニーカーのまま裏手に出た。雨が降っている。排水溝は家の裏手にあった。確かに、枯れ葉とゴミが溜まっていた。水の流れが悪くなっている。


南里はしゃがんで、手でゴミを掻き出した。枯れ葉、泥、小枝。手が汚れた。雨に濡れた。五分ほどで通りがよくなった。水が流れ始めた。


近江は軒下から見ていた。


「ああ、通ったね。それでええわ。雨が続くときは、ときどき見といた方がええよ」


「分かりました」


南里は手を洗い、六畳間に戻った。八時三十分。前場まで三十分。画面を見る。気配値は変わっていない。ポジションの確認をやり直す。


手が冷えていた。雨と泥で指先が冷たい。タオルで拭いた。キーボードに触る。指の感覚が戻るまで少し待った。


---


九時、前場が始まった。


指数は大幅安で寄りついた。IVは急騰している。南里のストラングルは含み損が拡大した。だが想定内だった。


問題は、ここから追加の売りを入れるかどうかだった。IVが高い。プレミアムは厚い。ここで売れば、IVが戻ったときに大きく取れる。だが、さらに下げるリスクもある。証拠金の余裕を確認する。ぎりぎりではないが、余裕があるとも言えない。


板を見る。出来高を見る。気配値の厚みを見る。


十時。少し落ち着いた。指数の下げが止まった。IVの上昇も一服している。南里は判断した。プットの遠いところに、小さく売りを入れる。プレミアムは厚い。期限まで一週間。セータが効く。


注文を出した。指が動く。約定を待つ。


約定しなかった。指値が遠すぎた。板が薄い。


指値を修正する。少し近づける。出し直す。


スマホが鳴った。


森脇からだった。


「南里さん、屋根の件なんですけど。先日の処置で瓦は戻したんですが、隣の瓦も少しずれとるのが見えたんです。今度晴れたときに、もう一回上がらせてもらいたいんですけど」


「今、ちょっと立て込んでいて」


「すみません、今日じゃなくてええんです。今週中に一回、時間もらえたらと思って」


「分かりました。また連絡します」


電話を切った。画面を見る。注文はまだ約定していない。板を確認する。指数が少し戻している。IVが下がり始めている。指値が遠くなった。


修正するか。待つか。


迷っている間に、IVがさらに下がった。プレミアムが縮んでいく。売りを入れるなら五分前が最適だった。電話の間に、入り口を逃した。


南里は注文を取り消した。


椅子にもたれた。損をしたわけではない。機会を逃しただけだった。だが機会損失は、損失と同じくらい重い。


十一時。近江がまた来た。


「南里さん、排水溝のとこ、ちゃんと通っとった?」


「通ってます」


「ほうね。あとね、回覧板の返事、書いた? 清掃の参加のとこ」


「まだです」


「早めに出しんさいね。取りまとめの人が困るけえ」


南里は回覧板を探した。机の横に置いてあった。清掃日の参加欄に丸をつけた。参加する気はなかったが、丸をつけた方が早いと判断した。


近江に渡した。近江は確認して頷いた。


「日曜ね。朝八時から。長くても一時間くらいじゃけえ」


「分かりました」


近江が帰った。南里は画面に戻った。前場はあと三十分。板を見る。IVは下がり続けている。さっきのチャンスは完全に過ぎていた。


---


昼、片岡の店へ行こうとした。車に乗り、店の前まで来た。


暖簾が出ていなかった。


入口に小さな張り紙がある。「本日、仕込みの都合により昼の営業はお休みします」


片岡が言っていた。木曜は定食の種類が少なくなるかもしれない、と。今日は木曜ではなかったが、仕込みの都合は片岡の都合であって、南里に事前通知されるものではなかった。


南里は車の中で数秒止まった。それからスーパーへ向かった。橋を渡る。往復三十分。弁当を買って古家に戻った。後場はすでに始まっていた。五分遅れた。


冷たい弁当を食べながら板を見た。指数は戻している。IVは午前中にほぼ戻った。朝の急落は織り込まれた。ポジションの含み損も縮小している。


結果としては悪くない一日だった。大きな損失は出ていない。ヘッジは効いている。ポジションは維持できている。


だが、朝のチャンスは逃した。追加の売りを入れるタイミングがあった。プレミアムが厚い瞬間があった。そこに集中していれば、入れたかもしれない。入れなかったのは、排水溝と電話と回覧板と、店が休みだったからだ。


どれも南里のせいではない。どれも誰のせいでもない。排水溝は詰まるものだし、森脇は屋根を気にしてくれているし、回覧板は回すものだし、片岡の店は片岡の都合で休む。


ただ、全部合わさると、南里の最適な一日は成立しなかった。


十五時十五分、後場が引けた。


振り返りをする。損益は微減。朝の含み損を日中で縮小したが、前日比では少しマイナスだった。問題のない範囲だが、プラスにできた日をマイナスで終えている。


ノートを閉じた。椅子にもたれた。


窓の外は雨だった。六月の終わりの雨は、止む気配がなかった。


南里は思った。向島の時間に合わせるつもりはない。自分の時間で、自分の相場を、自分の判断で回す。それがトレーダーとしての基本だった。


だが、この土地は南里の時間を中心には回っていなかった。近江には近江の朝がある。森脇には森脇の段取りがある。片岡には片岡の仕込みがある。排水溝には排水溝のタイミングがある。


どれも南里に合わせる気がなかった。南里もそれに合わせる気はなかった。


だが住むということは、その中にいるということだった。中にいる以上、触れる。触れれば削られる。削られても住んでいる。


時間が違う土地へ来たのだと、ようやく腹立たしく分かってきた。

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