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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第2章「島の時間、相場の時間」
8/25

安いだけでは続かない

梅雨の中休みだった。朝から蒸し暑い晴れ間が出ている。


窓を全部開けた。風は弱い。空気は動くが、涼しくはない。六月の半ば。湿度だけが高い日だった。


前場はいつも通り始まった。IVは低水準のまま、ゆるやかに下がっている。ストラングルのポジションはセータが着実に効いていた。時間価値が一日ごとに減衰していく。含み益が少しずつ積み上がる。今はこの流れを邪魔しないことが仕事だった。


十一時半に前場が引けた。振り返りを済ませ、財布を持って車に乗った。


片岡の店へ向かった。三回目になる。


店に入ると、客は四人いた。カウンターに作業着の男が二人、テーブル席に年配の夫婦が一人。前の二回より混んでいた。


カウンターの空いた席に座った。片岡は厨房で動いている。注文を受けながら、鍋の火を見ながら、皿を出している。一人で回している。


目が合った。片岡は小さく頷いた。


「日替わりですか」


「はい」


「今日は鯖の味噌煮です。十分くらいかかります」


「大丈夫です」


待っている間、南里はカウンター越しに厨房を見ていた。


鯖が煮えている。味噌の匂いがする。別の鍋で味噌汁が温まっている。小鉢の惣菜は朝のうちに作ってあるのだろう、バットに並んでいる。ひじき、切り干し大根、ほうれん草の胡麻和え。


片岡は同時に三つのことをしていた。煮魚の火加減を見ながら、テーブル席の会計をし、次の注文の準備をする。一つひとつの動きが短い。無駄がない。だが急いでいるようには見えない。


定食が出てきた。鯖の味噌煮は味が染みていた。味噌汁は赤出汁。小鉢はひじきと胡麻和え。白飯。


食べながら、南里は考えていた。


この店の定食は七百円だった。原価を考える。鯖一切れ、味噌、味噌汁の具、惣菜の材料、米、光熱費。人件費は片岡一人分。家賃は自己所有かもしれない。


七百円で出して、一日に何食出せるか。昼の三時間で、カウンター六席とテーブル二卓。回転を考えると、一日三十食が上限だろう。三十食で二万一千円。惣菜の持ち帰りを加えても、一日の売上は三万に届くかどうか。


月に二十五日稼働で七十五万。原価と経費を引いて、手元に残るのはいくらか。


南里のトレードとは桁が違った。良い月なら一日で百万動く。悪い月でも、ポジションの時価は数百万単位で変動する。


だが、片岡は毎日この店を開けている。毎朝仕込み、毎昼出し、毎夕惣菜を並べ、毎晩片づける。相場が休みの土日も、片岡はたぶん仕込みをしている。日曜が定休日でも、翌週の準備はある。


食べ終えて、会計をした。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


南里は財布を閉じながら、少し迷って言った。


「効率がいい店ですね」


言ってから、褒め方が変だと分かった。だが片岡は特に気にした様子もなく答えた。


「そうですか? 自分ではよく分からないです」


「一人で回しているのに、待ち時間が短い」


「段取りの問題です。昼は限られてますから」


「もっと席を増やしたら、売上は上がるんじゃないですか」


言ってしまってから、また余計なことを言ったと思った。前回も営業時間のことで同じような反応をされている。


片岡は手を拭きながら答えた。


「席を増やしたら、一人じゃ回せなくなります」


「人を雇えば」


「雇ったら、その分売らないといけない。売るために質を落としたら、常連さんが来なくなる。常連さんが来なくなったら、新しい客だけじゃ持たない。この辺は観光客が来る場所じゃないですから」


南里は黙った。


「安いだけで続く店なんかないですよ」


片岡は淡々と言った。説教ではなかった。事実を言っているだけだった。


「この値段で出してるのは、この量とこの品で回せるからです。増やしたら崩れる。減らしても崩れる。今のバランスがいちばん持つんです」


南里はその理屈を理解した。ポートフォリオのバランスと同じだった。リスクを取りすぎれば崩れる。取らなさすぎれば機会を逃す。最適点は一つしかなく、それは数字だけでは決まらない。


だが、片岡の最適点は南里のそれとは違う場所にあった。南里は最大リターンを目指している。片岡は最大持続を目指している。同じ合理性を使っているのに、行き先が違う。


「すみません、余計なことを言いました」


「いえ。よく聞かれますから」


片岡は少し笑った。初めて笑顔を見た気がした。


店を出た。駐車場に向かう途中で、南里は店の外観を振り返った。あかね食堂。手書きの看板は小さく、色褪せている。壁は古い。窓枠も古い。だが、店の中は清潔だった。厨房も、カウンターも、客が使う箸立ても。ガラスには指紋がなかった。毎日拭いているのだろう。


あの店は、片岡が毎日手を入れているから、あの状態を保っている。安いから続いているのではなく、続ける力があるから安く出せている。順序が逆だった。南里は家賃が安いからこの島に来た。片岡は続けられるからこの場所で店を開いている。同じ「安い」でも意味が違っていた。


車に乗り、古家へ戻った。後場の準備をする。


板を開いた。画面の数字を見る。ストラングルのポジション。プレミアムの減衰。セータの効き。時間が経てば利益になる構造。


片岡の店も、時間をかけて回している。だが片岡の場合、時間が経てば自動的に利益が出るわけではない。毎日の仕込みと段取りと客の顔を見る時間が、売上を支えている。


南里のセータは、ポジションを組んだ後は自動で効く。片岡のセータは、毎日の手作業で効かせている。


どちらが楽かは明白だった。どちらが強いかは、分からなかった。


店にも時間があり、論理があるらしかった。分かるが、まだ合わせる気にはなれなかった。

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