決めきらずに決める
九月の第二週。朝、玄関を出て郵便受けを開けた。
封筒が入っていた。
玄関先に立つと、朝の空気が涼しかった。海峡の方角から薄い靄が立ち上っている。対岸の尾道の山が、靄の中にぼんやりと浮かんでいた。秋の朝だった。
大家からだった。賃貸契約の更新通知。現在の契約は九月末で満了。更新する場合は月末までに連絡すること。更新しない場合も同様。書面はA4一枚。事務的な文面だった。
南里は封筒を机の上に置いた。
PCを起動し、米国市場を確認した。動きはなかった。スプレッドシートを開いた。資産の推移を見た。四月から九月まで、緩やかな右肩上がり。大きく勝った月はない。大きく負けた月もない。セータを取り続ける戦略が、じわじわと効いている。
一億までの距離を見た。遠い。今のペースではあと一年以上かかる。大きなIV上昇が来て、そこでプレミアムを多く取れれば、半年短縮できるかもしれない。だが八月のように急変が来たとき、正しく取れる保証はない。
封筒を見た。
九月末で満了。あと三週間。更新するか、しないか。
しない場合、この古家を出る。出て、どこへ行くか。東京に戻るか。別の安い場所を探すか。一億にはまだ遠い。東京に戻れば家賃が三倍以上になる。生活コストも上がる。トレードに回せる資金が減る。ここを出る合理的な理由がない。
する場合、少なくともあと半年はここにいることになる。半年いれば、冬を越す。冬の向島は知らない。暖房は古いエアコン一台。灯油のストーブを買う必要があるかもしれない。ガス代が上がる。生活コストが少し増える。
計算した。冬の光熱費を加算しても、東京より安い。引っ越しのコストを考えれば、動かない方が合理的だった。オプションの世界では、取引コストを考慮せずにポジションを動かすのは下手な判断だった。動かないコストより動くコストが高ければ、動かない方がいい。
合理的だった。だが、合理性だけで判断しているのかと聞かれたら、少し黙ったかもしれない。
封筒を机の端に置いた。今日中に決める必要はない。
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九時、前場が始まった。板を見た。IVは低水準。出来高は薄い。九月の相場は静かだった。
十時過ぎ、森脇から電話があった。
「南里さん、先日の屋根の件なんですが。あの応急処置のまま冬を越すのはちょっと心配なんです」
森脇は八月の骨折から復帰していた。まだ完全ではないらしく、高い場所の仕事は控えていると聞いた。だが声は元気だった。
「防水紙を張り直した方がええんですけど、それなりに手間がかかります。やるなら秋のうちがいいです。冬は雨も多いですけえ」
「費用はどのくらいですか」
「瓦を一列外して防水紙を張り直して戻す。材料と手間で、五万くらいです」
五万。安くはないが、高くもない。雨漏りが悪化すれば、修理費はもっとかかる。後回しにすると大きくなる。森脇が前に言ったことだった。壊れてから直すより、壊れないようにする方が安い。オプションでいえば、損が小さいうちにヘッジするのと同じだった。
「ここにいる前提の話ですか」
「まあ、出られるなら関係ないですけど。残られるなら、やっといた方がええです」
残られるなら。森脇は淡々と言った。残るかどうかは南里の問題であって、森脇の問題ではない。森脇にとっては、頼まれれば直す、それだけだった。
「少し考えます」
「急がんでもええですけど、十月中にはやりたいです。それ以降は天候が読めんくなるんで」
電話を切った。
屋根の修理。五万。十月中。それは、少なくとも十月まではここにいる前提の話だった。契約を更新する前提の話だった。森脇は判断を迫ったわけではない。必要な情報を伝えただけだった。だがその情報が、南里に判断を迫っている。
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昼、片岡の店で食べた。日替わりは鯖の塩焼き。鯖は脂が乗っていて、皮目がきれいに焼けている。味噌汁は豆腐とねぎ。小鉢はほうれん草のおひたしと切り干し大根。
七百円。この内容で七百円は安い。東京なら千円以上する。片岡は安い定食を出しているのではなく、このレベルの定食を七百円で回す仕組みを作っている。仕入れと仕込みと客数の計算で成り立っている。
食べ終えて、会計をしたとき、片岡が言った。
「そういえば、来月から少し値上げするかもしれないです」
「いくらですか」
「五十円。七百五十円になります」
「仕入れですか」
「仕入れと光熱費です。ずっと据え置きだったんですけど、さすがに持たなくなってきて」
片岡は申し訳なさそうには言わなかった。事実として言った。コストが上がれば価格を上げる。上げなければ持たない。持たなければ店が続かない。続けるための判断だった。
「五十円くらいなら」
「ありがとうございます。常連さんには先に言っておこうと思って」
常連。南里は常連だった。片岡にそう分類されている。四月から五ヶ月、週に四回か五回通った。百回近く来ている計算になる。
「来月も来ますか」
片岡が聞いた。何気ない質問だった。値上げの前振りとしては自然な確認だった。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「契約の更新があって。まだ決めてないので」
「そうですか」
片岡はそれ以上聞かなかった。釣りを数える手も止まらなかった。
ただ、最後の硬貨を置く間だけ、いつもより少し間があった。
店を出た。
駐車場から海が見えた。午後の尾道水道は、昼の光を受けて静かに光っていた。
渡船が対岸から戻ってくるのが見える。小さな白い船体が、光の中をゆっくり進んでいく。向島の渡船場に着くと、数人が降りて、散っていった。
この島にも人が来る。来て、帰る。南里もそのはずだった。来て、いつか帰る。
車に乗った。
たぶん、と言った。たぶん来る。たぶんここにいる。決めていないのに、「たぶん」と言った。「分かりません」でも「未定です」でもなく、「たぶん」。その言葉の選び方に、もう傾きがあった。
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古家に戻った。後場を見た。動きはなかった。指数はほぼ横ばい。IVも動かない。SQが近い週は、こういう凪の日が多い。
十五時十五分、引けた。微増。
振り返りをノートに書いた。損益、ポジション、IV。書き終えて、ペンを置いた。
机の上の封筒を見た。
南里は計算した。スプレッドシートに新しいシートを作った。
更新した場合の固定費。家賃、光熱費、通信費、食費。屋根の修理費五万。冬の暖房費。灯油ストーブを買うなら一万五千。半年分の生活コスト。合計を出した。
東京に戻った場合のコストも出した。引っ越し、敷金、礼金、家賃の差額。東京の家賃は向島の三倍以上。半年で差額だけでも数十万になる。
数字だけ見れば、ここにいる方が安い。動かない方が合理的。トレードに回せる資金を最大化するなら、動くべきではない。
だが南里は、自分が数字だけで判断しているのではないことを知っていた。
屋根を直すのは、ここにいる前提だからだ。片岡の店に「来月も来る」と答えるのは、ここにいる前提だからだ。近江の声が聞こえる距離にいるのは、ここにいるからだ。
ここにいることを選んでいる。少しずつ、選んでいた。スプレッドシートを作る前から、答えは出ていたのかもしれない。計算は確認のためだった。
決めたわけではない。一億を諦めたわけでもない。東京に戻る可能性を捨てたわけでもない。
だが、次の季節まで手を入れることを選んでいた。屋根の修理を森脇に頼もうとしていた。片岡の店に来月も行こうとしていた。
それは実務的な判断だった。感情ではなく、コストと必要性の計算だった。
計算だった。そのはずだった。
南里はスマホを取った。森脇に電話した。
「屋根の件、お願いします。十月中でいつでもいいです」
「分かりました。日取りが決まったら連絡します」
電話を切った。
次に、大家に電話した。
「契約の更新をお願いします」
「分かりました。書類を送りますね」
電話を切った。二本の電話で、合計一分もかかっていなかった。五ヶ月住んだ場所にもう半年いることを、一分で決めた。
窓の外は夕暮れに近づいていた。西の空が橙から赤紫に変わっていく。
因島大橋のシルエットが、夕焼けの中に弧を描いていた。橋の下を、小さな漁船が港に戻っていくのが見える。
瀬戸内の夕暮れは長い。島と島に挟まれた空は狭いが、その狭さの中に色が凝縮していた。東京の広い空より、ここの狭い空の方が色が濃かった。
近江の家の方から、夕飯の匂いがした。魚を焼く匂いだった。
決めたというより、先の分まで引き受けただけだった。




