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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第5章「それでも、向島で生きる」
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それでも、向島で生きる

九月の半ば。朝五時に目が覚めた。


エアコンはつけていなかった。窓が半分開いている。右側だけ。左側は閉めている。この配置は四月に決めた。外から風が入っていた。涼しい。夏の風ではない。乾いていて、軽い。肌に触れる空気の温度が違う。


蝉は鳴いていない。代わりに虫の音が細く鳴っている。


窓の外に、夜明けの海峡が見えた。水面が薄い紫色をしている。空が白み始めているが、海はまだ夜の色を残していた。その境目が、東から西へゆっくりと動いていく。


近江の家の方から、戸が開く音がした。水を流す音。サンダルが地面を擦る音。朝が始まっている。


南里はその音を聞いた。聞いて、それだけだった。排除しようとも、気に障るとも思わなかった。聞こえるから聞こえた。それだけだった。四月の南里なら、この音を「ノイズ」と分類した。今は分類しない。分類する前に、音が通り過ぎる。


台所で水を出した。コーヒーを淹れた。マグカップにスプーン一杯半。湯は沸騰から少し落とす。五ヶ月間、同じ手順。同じ台所。同じマグカップ。この反復が、南里の朝を作っている。


PCを起動した。米国市場を確認した。小幅高。VIXは低水準。何も動いていない。九月のSQは無事に通過した。ポジションはきれいに消えた。新しいポジションを建てる時期だった。


スプレッドシートを開いた。資産の推移を見る。緩やかな右肩上がり。四月に来てから五ヶ月。大きく勝った月はない。大きく負けた月もない。毎月、セータを拾い、プレミアムを集め、急変をしのぎ、残った分を積み上げてきた。


一億までの距離を見た。遠い。


遠い。だが、その数字を見たとき、四月に感じた切迫感とは少し違っていた。


四月は、この数字だけが自分を証明する手段だった。届かなければ壊れたまま。届けば戻れる。一億は最低ラインであり、唯一の尺度だった。会社にいた頃の失敗を「途中の損失」にするためには、一億に届くしかなかった。


今もその気持ちはある。消えてはいない。だが、唯一の尺度かと聞かれたら、少し間が空く。一億に届いたとして、それで何が終わるのか。口座の数字が変わる。証明になる。だがそれだけで、四月に壊れた自分が元に戻るわけではない。


南里はスプレッドシートを閉じた。コーヒーを飲んだ。苦い。いつもの味だった。


---


八時。前場の準備を始めた。指数オプションの板を確認する。原指数はほぼ横ばい。IVは低い。新しいストラングルを建てるにはIVがもう少し高い方がいい。だが低いなりにプレミアムは取れる。走りは走りの味がある。片岡がそう言った。秋刀魚の話だったが、同じだった。


九時、前場が始まった。板を見る。薄い。動かない。新しいポジションを十月限で建てた。少し遠めのストライクで、プレミアムは小さいが、急変しなければセータが効く。時間が味方になる局面だった。


十時過ぎ、近江の声がした。


「南里さん」


引き戸の向こうだった。声は近い。この距離がもう当然になっている。


「はい」


「回覧板よ」


南里は立ち上がった。玄関に行った。近江が回覧板を持っている。受け取った。近江はサンダルを履いていて、エプロンをしていた。朝の家事の途中だった。


「清掃の日と、秋祭りの準備の件が入っとるけえ」


「秋祭り」


「十月にあるんよ。準備の手伝い、できる人は出てくれて言うとる」


「出れるかは分かりませんけど、見ておきます」


「ほうね。無理せんでもええよ」


近江は帰った。サンダルの音。隣の引き戸が閉まる音。いつもの音だった。


南里は回覧板を見た。清掃日は来週の日曜。秋祭りの準備は十月初旬の土曜。地区の名前と担当者の名前が書いてある。知らない名前ばかりだった。だが近江の名前はあった。


以前なら、丸をつけて回して終わりだった。今日もそうするかもしれない。だが「出れるかは分かりませんけど、見ておきます」と言った。四月の南里なら言わなかった言葉だった。四月なら「確認します」と言って、何も確認せずに回していた。


六畳間に戻った。板を見る。動いていない。ポジションの含み損益はほぼゼロ。建てたばかりだから当然だった。ここから時間が経てば、セータが効き始める。


---


十一時半、前場が引けた。


片岡の店へ向かった。


車で五分。島の道を走る。道の両側にみかんの木がある。まだ青い実がついている。秋が深まれば色づくのだろう。


坂を下りると、海が見えた。昼の尾道水道は凪いでいた。水面に陽光が散って、無数の小さな光が揺れている。対岸の尾道の古い家並みが、山の緑の中に点々と見えた。


千光寺の塔が山の中腹に小さく光っている。四月に来たとき、この景色は目に入らなかった。道と信号と目的地しか見ていなかった。


店に入った。カウンターに先客が二人。南里はいつもの端に座った。端の席。背中側に壁がある。四月に初めて来たとき、無意識にこの席を選んだ。後ろに人がいない方が落ち着いた。今も同じ席に座っている。理由は変わったかもしれない。ただ、ここが自分の席になっていた。


片岡が顔を上げた。


「日替わりですか」


「はい」


「今日は鯛の煮つけです」


鯛。いい魚が入ったのだろう。片岡は仕入れに妥協しない。安い魚で数を出すのではなく、いい魚を仕入れて七百円で出す。その計算を毎日している。


待っている間に、森脇が入ってきた。作業着を着ている。袖をまくっている。腕にまだサポーターが巻いてあった。骨折の後遺症が残っているのだろう。だが歩き方は普通だった。


「おう、南里さん」


「お疲れさまです。腕、大丈夫ですか」


「まあまあです。高いとこはまだあかんですけど、低いとこは回れとります」


森脇はカウンターの南里の隣に座った。片岡に「日替わり」と言った。片岡は頷いた。


南里の定食が先に出てきた。鯛の煮つけは身がふっくらしていて、煮汁が甘辛く染みている。味噌汁はあおさ。小鉢はひじきの煮物とかぼちゃの煮物。


「屋根の件、来月の二週目あたりでどうですか」


森脇が食べながら言った。


「大丈夫です」


「瓦外して防水紙やり直すんで、一日かかります。雨が降らん日を選びます」


「分かりました」


「朝八時くらいから入ります。音出ますけど、気にせんでください」


「トレード中なので、音は問題ないです」


「相場やっとる間は上でやりますけえ」


森脇の定食が出てきた。二人で並んで食べた。


黙って食べた。特に会話はなかった。箸の音と、皿を置く音だけがあった。会話がなくても、並んで食べることに違和感がなかった。四月には想像もしなかったことだった。四月の南里は、誰かの隣で飯を食う予定はなかった。


食べ終えた。南里が先に会計をした。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


片岡が言った。


「来月から七百五十円になりますけど、よろしくお願いします」


「はい」


森脇が横で言った。


「五十円上がるん?」


「仕入れと光熱費で」


「ほうか。まあ、ここの飯は五十円分以上うまいけえ」


片岡は少し笑った。南里もほんの少しだけ口の端が動いた。笑ったとまでは言えない。だが、口の端が動いた。


店を出た。森脇の軽トラが横に停まっている。荷台に工具箱とブルーシートが積んである。


「じゃあ、来月」


「はい。よろしくお願いします」


森脇は手を上げて走っていった。軽トラのエンジン音が遠ざかる。四月に初めて聞いたとき、その音を「うるさい」と思った。今は音として聞こえるだけだった。


南里は車に乗った。古家へ向かった。


---


後場を見た。指数は微動。IVは横ばい。新しいポジションの含み損益はまだほぼゼロ。建てたばかりだから動かない。ここから一日ごとにセータが効いてくる。一日あたり数百円。小さい。だがそれが積み重なる。


十五時十五分、引けた。損益は微増。いつも通りの一日だった。劇的なことは何も起きない。劇的なことが起きない日が、南里の資産を少しずつ増やしている。


振り返りをノートに書いた。損益、ポジション、IV。新しいポジションの詳細も記録した。ストライク、限月、プレミアム、建てた理由。


書き終えた。ペンを置いた。


ノートをぱらぱらとめくった。四月から九月まで、五ヶ月分のメモが並んでいる。損益曲線。ポジションの記録。IVの推移。五月のSQ。六月の梅雨入り前のIV上昇。七月の薄商い。八月のVIX急騰。九月の凪。


その隙間に、相場以外のメモが少しずつ増えている。


「排水溝」「回覧板」「屋根・森脇」「冷蔵庫・フィン」「近藤・水道」「雨戸・近江」「片岡・走りの味」。


このノートは、南里のトレード記録だった。それが、南里の生活記録にもなっていた。損益曲線の横に、島の生活が書き込まれている。二つは別のものだった。別のもののはずだった。だが同じノートに、同じペンで書いている。


ノートを閉じた。


窓の外を見た。九月の午後。光の角度が低い。空が高い。四月の空より高い。雲は薄く、白い。風が通っている。窓の右側だけ開けている。いつもの配置だった。


海の方から、かすかに潮の匂いがした。窓を開けているときだけ届く匂いだった。来た頃から匂いはあったはずだった。気にしていなかっただけだった。五ヶ月経って、やっと匂いが分かるようになった。


瓦屋根の向こうに、瀬戸内の海が細く見えた。島と島のあいだの水面が、午後の光を受けて静かに光っている。因島、生口島、伯方島。しまなみの島々が海の上に連なっている。光は時間とともに色を変える。朝は白く、昼は青く、夕は橙に。毎日同じ海を見ているのに、同じ色だった日は一日もなかった。


南里は椅子にもたれた。


一億はまだ遠い。東京に戻る可能性も消えてはいない。この古家は安い箱で、仮設拠点で、いつでも出ていける。


いつでも出ていけるはずだった。だが、屋根の修理を頼んだ。契約を更新した。片岡の店に来月も行く。回覧板に目を通した。秋祭りの準備を「見ておく」と言った。


どれも大きな決意ではなかった。どれも感動的な選択ではなかった。ただ、先の時間を少しずつ引き受けていた。一日ずつ、一手ずつ。オプションのセータと同じだった。一日あたりは小さい。だが積み重なる。


南里は向島を好きになったわけではなかった。近江の声は今も少し重い。森脇の距離感は仕事の距離感でしかない。片岡との間に特別なものがあるかどうかは分からない。


だが、切ればいいとは思わなくなっていた。切るコストと、続けるコストを、前より正確に量るようになっていた。量った結果、続ける方が少しだけ勝っていた。少しだけ。その少しが、五ヶ月分の重さだった。


勝ったか負けたかで片づくほど、もう少しだけ単純ではなかった。


南里は立ち上がった。台所で水を飲んだ。台所の小さな窓から、西の空が見えた。


瀬戸内の夕暮れが始まっている。空の端が橙に染まり、その色が海面に降りて、水道全体がゆっくりと暮れていく。島影が一つずつ暗くなっていく。手前から、奥へ。最後まで光を残しているのは、いちばん遠い島だった。


窓の外から、近江の家の方で洗濯物を取り込む音が聞こえた。夕方の風に、洗濯物がはためく音。竿を外す金属の音。


明日も朝五時に起きる。米国市場を確認する。コーヒーを淹れる。マグカップにスプーン一杯半。前場を見る。ポジションのセータを確認する。昼は片岡の店で食べるかもしれない。近江が来るかもしれない。来なくても、声は聞こえるだろう。


まだ途中だった。


一億にも届いていない。壊れたままかどうかも、まだ分からない。この島が自分の場所かどうかも、決めていない。


窓の外で、夕暮れの最後の光が海峡の上で消えかけていた。瀬戸内の空が藍色に沈んでいく。星が出た。凪の水面は、その微かな光さえも映していた。


まだ途中だった。


たぶん、それでよかった。



ー完ー


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