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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第5章「それでも、向島で生きる」
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持っていくもの

九月の半ば。向島に来て五ヶ月ほどになった。


朝夕の風が変わっている。窓を開けると、八月にはなかった涼しさが混じる。蝉の声はほとんど消え、虫の音だけが残っている。朝五時の空気が肌に涼しい。半袖では少し寒い日が出てきた。


コーヒーを淹れた。いつもの手順。マグカップにスプーン一杯半。湯は沸騰から少し落とす。およそ五ヶ月間、同じ台所で同じ手順を繰り返している。


PCを起動した。米国市場は小幅安。VIXは低水準のまま。九月のSQが近づいている。ポジションの最終調整が必要かもしれないが、今のところIVは安定している。


前場はいつも通りだった。IVは低い。ポジションは安定している。セータが毎日少しずつ効いている。プレミアムが日ごとに減る。時間が味方になる局面だった。


十一時半、前場が引けた。片岡の店へ向かった。


島の道を走ると、道沿いの石垣の向こうに海がちらちらと見える。水面が昼の光を受けて、白い鱗のように光っていた。


造船所のドックに船が一隻入っている。クレーンが動いていなかった。昼休みだろう。


店に入った。客は三人。カウンターに座った。


片岡が顔を上げた。


「日替わりですか」


「はい」


やり取りは短い。いつの間にか、この短さが定まっていた。


日替わりは太刀魚の塩焼きだった。九月の魚が続いている。身が白くて柔らかい。味噌汁は豆腐とわかめ。小鉢は里芋の煮物ときゅうりの酢の物。


食べながら、南里は店の中を見ていた。


カウンターの木目。箸立て。醤油差し。壁にかかった品書き。厨房の鍋。バットに並んだ惣菜。片岡の動き。まな板の上で大根を切っている。包丁のリズムが一定だった。速くも遅くもない。同じ間隔で同じ音が続く。


この景色を何十回も見ている。最初に来たときと変わっていない。片岡は同じ動きで、同じ段取りで、同じ品を出している。カウンターの配膳位置も、箸の向きも、味噌汁と小鉢の並びも、いつも同じだった。


だが南里の見方は変わっていた。


最初は「効率がいい店」と思った。安い定食を手早く出す。合理的だと思った。次に「安いだけでは続かない」と教わった。仕入れ、段取り、客との距離。それを毎日回していると知った。その次に「また来るなら、それで十分」と言われた。


今は、何も言わずに入って、何も聞かずに出される。南里が端の席に座り、片岡が日替わりを出す。その反復自体が、もう南里の一日の中に組み込まれている。組み込むつもりはなかった。通ったら組み込まれていた。


食べ終えた。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


会計をしている間に、南里は言った。


「片岡さん」


「はい」


「冷蔵庫のことで店に行きましたけど」


「はい。助かりました」


「あのとき、自分でも不思議だったんです。なんで行ったのか」


片岡は手を止めなかった。釣りを数えている。


「構造が見えたからじゃないですか」


南里は少し驚いた。


「構造、ですか」


「南里さん、そういうの得意でしょう。何がどうなってるか見えたら、放っておけないタイプなんだと思います」


南里は黙った。構造。片岡がその言葉を使うとは思わなかった。だが言われてみれば、そうだった。冷蔵庫のフィンが詰まっている構造が見えた。見えたから動いた。それだけだった。


「善意とかじゃないんですよね、たぶん」


片岡はそう付け足した。南里の顔を見ていなかった。次の客の配膳をしている。


「見えたから動いた。それだけの話だと思いますよ。でもそれで十分じゃないですか。理由はあとからでも」


南里は釣りを受け取った。店を出た。


---


車に乗った。古家へ向かう道を走っている。


島の道は狭い。石垣と生垣のあいだを抜けると、不意に海が開けた。


坂の途中から見える尾道水道。午後の光が水面に散っている。対岸の尾道が、陽炎のように揺れて見えた。


向島から見る尾道は、いつも少し遠い。橋を渡れば数分の距離なのに、海を挟むと別の場所に見える。


対向車が来た。路肩に寄せた。そのタイミングも覚えた。


片岡の言葉を考えていた。構造が見えたから動いた。たしかにそうだった。冷蔵庫のフィンが詰まっている。掃除すれば直る。直さなければ魚が駄目になる。構造が見えたから、手を出した。


近藤の水道も同じだった。配管が詰まっている。庭の水栓は生きている。構造が見えたから、蛇口をひねった。


近江の雨戸も同じだった。戸車がずれている。持ち上げて戻せば動く。構造が見えたから、直した。


南里はトレーダーとして、構造を見る訓練をしてきた。板の構造。IVの構造。リスクの構造。どこに歪みがあり、どこに機会があるか。それを見つけて入る。プットとコールのスプレッドに歪みがあれば、そこにエッジがある。歪みが見えたら入る。見えなければ見送る。十年以上、そうやってきた。


その目が、向島でも動いていた。相場の外でも、構造は構造だった。見えてしまったら、放置のコストが分かってしまう。冷蔵庫のフィンを放置すれば、コンプレッサーに負荷がかかり、電気代が上がり、最悪壊れる。放置コストが分かったら、動いてしまう。


それは善意ではなかった。習性だった。


だが習性であっても、動いた事実は残る。動いた結果も残る。片岡の冷蔵庫は動き続けている。近藤は水を使えた。近江の雨戸は閉まった。


そしてその経験が、南里の頭の中に残っている。


森脇の「壊れんようにする仕事」。片岡の「安いだけでは続かない」。近江の「住んだら残る」。


それぞれの言葉が、南里の思考の中に入り込んでいた。意図して入れたわけではない。聞いたから残った。見たから覚えた。相場のことだけ考えていればよかった頃には、こんなものは入り込まなかった。


トレードのノートに、相場以外のメモが混じっている。それが証拠だった。以前のノートは数字だけだった。損益とポジションとIVの記録。今のノートには、冷蔵庫のフィン掃除の手順や、戸車の直し方や、森脇の電話番号まで書いてある。


南里は、ここから出ていくとき、金だけを持っていくつもりだった。資産が増えた分だけ持って帰る。それ以外は置いていく。


だが、もう置いていけないものがあった。


「壊れないように回す」という考え方。「続けるために今日を回す」という考え方。「切ればいいとは限らない」という考え方。


それらは南里の口座には入らない。スプレッドシートには載らない。だが頭の中に入っている。消そうとしても消えない。聞いてしまったから。見てしまったから。


---


古家に戻った。後場を見た。動きはなかった。指数は十円高。IVは朝と変わらない。SQまであと三日。ポジションはこのまま持ち越しても問題ない。微増。


十五時十五分、引けた。振り返りをした。


ノートを閉じた。ペンを置いた。


台所で水を飲んだ。蛇口をひねると水が出る。当然のことだった。だが近藤の家では水が出なかった。配管が詰まっていた。庭の蛇口は生きていた。構造を見て、迂回した。当然のことが当然でない場所で、当然のことを取り戻す手間。それを見たことが、南里の中に残っている。


窓の外を見た。九月の午後の光は、八月より柔らかい。


空気が少し透明になっている。海の方から風が来ている。風に乗って、かすかに潮の匂いがした。


干潮が近い。瀬戸内の潮は一日に二度満ち引きする。潮が引くと、海岸の岩場に牡蠣殻のついた石が現れる。その匂いの変化を、五ヶ月経ってようやく感じ取れるようになっていた。


窓の外の瓦屋根が、午後の光を受けて鈍く光っている。屋根の向こうに見える空は、どこまでも広かった。


南里はこの島から、何を持っていくのか。


金は持っていく。増えた分だけ持っていく。それは変わらない。口座の数字が増えた分だけ、この島に来た意味がある。そのはずだった。


だが、それ以外のものも、もう混じっている。片岡の段取り。森脇の手間。近江の時間。古家の癖。向島の朝の音。それらは口座には載らない。スプレッドシートにも載らない。だが南里の頭の中に入っている。消そうとしても消えない。


勝ちだけを持って帰るつもりだったが、どうもそれだけでは済まなかった。


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