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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第5章「それでも、向島で生きる」
22/25

残していくもの

九月の一週目。朝、六畳間を見回した。


机の上にモニターが二台。左にチャートと板情報、右にスプレッドシート。キーボードとマウス。コーヒーのマグ。ノート。ペン。スマホの充電器。配置は四月に決めたまま、一度も変えていない。


机の横に本棚代わりの段ボール箱。中にオプション関連の参考書と、トレードのノートが四冊。五冊目に入りかけている。四冊で四ヶ月。ここでの時間が紙の厚さになっている。


壁にはカレンダー。SQの日に赤丸がついている。九月のSQは第二金曜。あと十日ほどだった。四月のカレンダーはもう捨てた。五月から八月までのページも、めくって過ぎた。


畳は焼けている。だが、机の下の部分だけ色が違う。机を置いた四月から、そこだけ日が当たっていない。南里の机の形が、畳に残っている。動かせば跡が出る。四ヶ月分の日焼けの差が、そのまま形になる。


窓の開け方にも癖がついていた。右側を半分開け、左側は閉めておく。そうすると風が斜めに抜けて、モニターの画面に直射日光が当たらない。最初の週に試行錯誤して見つけた配置だった。梅雨の時期は両方閉めた。八月は両方開けた。九月はまた右だけに戻っている。季節ごとの開け方を、体が覚えていた。


台所を見た。調味料が並んでいる。醤油、塩、胡椒、味噌。来たときは何もなかった。買い足したものが棚に定着している。醤油は二本目になっていた。最初に買った醤油がいつ空いたかは覚えていない。気づいたら買い足していた。


冷蔵庫の中。麦茶のピッチャー。卵。牛乳。パン。来た頃は空だった冷蔵庫に、繰り返し同じものが入っている。片岡の店が休みの日に備えて、卵と食パンを切らさないようにしている。それも四月にはなかった習慣だった。


風呂場のタイルの隙間にカビが出たとき、自分で漂白剤を買って落とした。玄関の引き戸が引っかかるとき、レールに蝋を塗るようになった。森脇に教わったやり方だった。建具の動きが変わったのは、季節が変わったからだと森脇が言った。木は湿気で膨らむ。蝋を塗れば滑る。そういう家だった。


仮設拠点のはずだった。安い箱。用が済めば出ていく。それだけの場所だった。


出ていくつもりで来た人間の住まいには見えなくなっていた。


---


九時、前場が始まった。板を見た。IVは低い。ポジションは安定している。セータが毎日効いている。こういう日は画面を見ていても何も起きない。だが見ないわけにはいかない。何も起きないことを確認するのも仕事だった。


十時過ぎ、近江が来た。引き戸の向こうから声がする。


「南里さん、涼しくなったねえ」


「そうですね」


「この家は秋が気持ちええんよ。風が通るけえ」


近江は縁側に立っていた。引き戸を開けて、外の空気を入れている。勝手に開ける。四月にはそれが気になった。今は気にならない。近江にとって、この家の引き戸は自分の家と地続きのものなのだろう。


「前の人もね、この時期がいちばん好きじゃて言いよった」


「前の人」


「ここに住んどった人よ。三年くらいおったかね。造船所に勤めとって、転勤で出ていったんじゃけど、秋だけは離れがたかったて」


南里は何も言わなかった。三年。自分の四ヶ月より長い。だがその人も出ていった。


「その人も、手を入れとったんよ。風呂場のタイル張り替えたのはあの人じゃし、台所の棚もあの人がつけたんよ」


南里は台所の棚を思い出した。木の棚。調味料を置いている棚。あれは前の住人がつけたものだった。


「この家も、ずっと誰かが持たせてきたんよ。わしが知っとるだけでも、四人は入れ替わっとるけえ」


「古い家ですからね」


「古いけど、壊れとらんのは誰かが手を入れてきたからよ。屋根も、柱も、建具も。放っとったら、とっくに潰れとるわ」


近江は淡々と言った。説教ではなかった。事実を言っているだけだった。この家は古い。古い家が残っているのは、誰かが手を入れ続けたからだ。それだけのことを言っている。


「南里さんも、少しは手を入れたじゃろう」


「最低限ですよ」


「最低限でも、入れたら残るんよ。住んだら、少しは残るもんじゃけえ」


近江は帰った。サンダルの音が遠ざかる。隣の家の引き戸が閉まる音がした。


南里は六畳間に戻った。畳の日焼けの跡を見た。机の形。自分の形。四ヶ月前にはなかった跡だった。


四ヶ月間の形が、この家に残っている。前の住人の棚も残っている。その前の住人が何を残したかは分からない。だが、この家は誰かの痕跡の上に成り立っている。


もし明日ここを出るとしたら、机を動かすだろう。モニターを外し、ケーブルを巻き、段ボールに詰めるだろう。


車に積んで、橋を渡って、この島を出る。因島大橋を越え、生口島を抜け、しまなみ海道を走り切れば四国に出る。逆に尾道側へ渡れば、山陽道で東京まで戻れる。


半日あれば終わる。


だが畳の日焼け跡は残る。窓の開け方は忘れられる。台所の調味料は処分するか、置いていく。玄関のレールに塗った蝋は、次の住人が引き戸を引くときに効く。排水溝を掃除した効果は、しばらく続く。


置いていく。


その言葉が、少し引っかかった。


---


昼、片岡の店へ向かった。


島の道を走ると、坂の上から海が見えた。九月の瀬戸内は穏やかだった。


波がない。島々が水面の上に静かに浮かんでいる。因島、生口島、その向こうの小さな島。重なり合う島影が、遠くなるほど薄い青になっていく。


空気が澄んでいるのだろう。八月には見えなかった島の輪郭が、今日ははっきり見えた。


片岡の店で食べた。日替わりは鰆の西京焼き。身が白くて、味噌の香りが甘い。小鉢はひじきの煮物と冬瓜の煮浸し。味噌汁は大根。


食べながら考えていた。


東京のマンションを出るとき、荷物を処分した。粗大ごみの手配をして、不用品を捨てて、必要なものだけ車に積んだ。三日で終わった。六年住んだマンションだった。六年分を三日で片づけた。未練はなかった。使い終えた場所から出ていくだけだった。


この古家から出るとき、同じようにできるだろうか。


机を片づける。モニターを外す。ケーブルを巻く。それは同じだ。荷物は少ない。車に積めば終わる。


だが、排水溝を掃除したこと。雨戸の戸車を直したこと。屋根の瓦を森脇に頼んだこと。冷蔵庫の裏が見えるようになったこと。窓の開け方を覚えたこと。畳に自分の跡がついたこと。


それらは荷物のようには持ち出せなかった。かといって、捨てるようには消えなかった。段ボールに入れて運び出すことはできない。ごみ袋に入れて捨てることもできない。


食べ終えた。会計をした。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございます」


片岡はいつも通りだった。特別なことは何もない。南里が来て、食べて、帰る。片岡にとってそれは客の反復でしかない。だが南里にとっては、この反復自体が、もう一つの痕跡になっていた。


店を出た。


---


後場を見た。動きはなかった。指数は五円安。IVは朝と変わらず。微増。


十五時十五分、引けた。振り返りをした。損益をノートに記録した。ノートを閉じた。


夕方、六畳間の窓を開けた。九月の風が入ってきた。


八月の風とは違う。少し乾いている。少し涼しい。肌に触れる空気の質が変わっている。潮の匂いが混じっていた。満ち潮の時間なのかもしれなかった。


窓の向こうに、隣の家の屋根が見える。その向こうに空がある。夕方の光が低い角度で入っている。瓦の色が赤く染まっている。


屋根の隙間から、海峡の水面が覗いていた。夕日に染まった細い金色の帯が揺れている。


この景色を、四ヶ月間見てきた。最初の頃は、何も感じなかった。安い場所に住んでいるだけだった。窓の外は、どうでもよかった。相場の画面を見ていればそれでよかった。


今も、どうでもいいと言えば言える。だが、見慣れた景色には、見慣れた分の重さがあった。東京のマンションの窓から見えたビルの壁と、この窓から見える瓦屋根は違う。違いが分かるようになったこと自体が、ここに住んだ証拠だった。


近江が言ったことを考えていた。住んだら、少しは残る。


残る。自分がここに残すもの。畳の跡。窓の癖。排水溝を掃除した記憶。雨戸を直した記憶。レールに蝋を塗った跡。それらは、この家の時間の中に混じっていく。前の住人が棚をつけた。その前の住人が何かを直した。そして南里が排水溝を掃除し、蝋を塗った。痕跡が重なっていく。


出ていくときに、全部は持っていけない。かといって、全部を消すこともできない。


使っただけのはずなのに、少しは残してしまうらしかった。


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