損切りできないもの
SQ前日だった。八月の下旬。
朝四時半に起きた。眠れなかったのではない。起きたかった。今日が山だった。
米国市場を確認した。前日は大幅安。FRBの議事要旨が想定より強い緊縮姿勢を示し、市場が嫌気した。S&Pは二パーセント下落。VIXが再び跳ねている。
南里の背筋が伸びた。
先週のVIX急騰で入れたポジションは含み益を出していた。だがここでもう一段下げれば、既存のストラングルの含み損が膨らむ。含み益と含み損が綱引きしている。
今日の動き次第だった。
IVがさらに上がるなら、もう一段プレミアムを売る。ここが天井なら、今のポジションを保持してセータで取る。逆に指数が崩れるなら、プット側のヘッジを入れないと証拠金が危うくなる。
三つのシナリオをノートに書いた。注文の水準を決めた。指値の位置を計算した。
今日は全神経を相場に集中させる。他は全て切る。食事は冷蔵庫のもので済ませる。外には出ない。電話にも出ない。
五時半。コーヒーを淹れた。窓の外を見た。
夜明け前の海峡が、暗い藍色から少しずつ明るくなっていく。対岸の尾道の灯りが、まだ水面に映っている。
今日は、この景色を見ている場合ではなかった。窓を閉めた。エアコンをつけた。
六時。スマホが鳴った。
近江だった。出なかった。
六時十分。もう一度鳴った。出なかった。
六時十五分。玄関の引き戸が鳴った。
「南里さん」
南里は動かなかった。画面を見ている。
「南里さん、おるんじゃろう」
近江の声は普段と違った。低い。急いている。
「ごめんね。森脇さんが怪我したんよ」
南里の手が止まった。
「屋根から落ちたんよ。朝早くに向こうの家の屋根に上がっとって。救急車は呼んだんじゃけど、奥さんに連絡がつかんのよ。森脇さんのスマホ、屋根の上にあるみたいで」
南里は椅子から立たなかった。
「病院には行ったんですか」
「うん。因島の病院に運ばれたて。骨折みたいじゃて」
「命には」
「命は大丈夫よ。ただ、奥さんに知らせんといけんのに、連絡先が分からんのよ。森脇さんの家に行けば分かるかもしれんけど、わしは車が運転できんけえ」
南里は時計を見た。六時二十分。前場まで二時間四十分。
森脇の家は車で十分ほどのはずだった。行って、奥さんの連絡先を探して、連絡して、戻る。一時間あれば足りる。前場には間に合う。
だが今日は、一時間の余裕がなかった。今日はシナリオの最終確認と注文の準備に充てたかった。SQ前日の朝は、一分でも多く画面の前にいたかった。
切るべきだった。
ルール通りなら、切る。相場以外の判断を相場に持ち込まない。森脇の怪我は気の毒だが、南里の仕事ではない。近江が他の誰かに頼めばいい。町内に他にも人はいる。
切るべきだった。そう判断していた。
だが、立ち上がっていた。
靴を履いていた。車の鍵を取っていた。
「森脇さんの家、場所は分かりますか」
「分かるよ。案内するけえ」
近江を車に乗せた。走った。六時半の島の道は静かだった。
坂を上がると、しまなみ海道の橋が朝靄の向こうに見えた。因島大橋の白い弧が薄く浮かんでいる。その向こうに島影が重なっていた。
因島、生口島。瀬戸内の島々が、朝の淡い光の中に青く連なっている。
森脇の家は古家から車で八分のところにあった。小さな一軒家。庭に軽トラが停まっていない。病院に行っているのだから当然だった。
玄関は開いていた。近江が中に入った。南里は車で待った。車の窓を開けると、朝の空気が入ってきた。
東の空に朝焼けの名残りが広がっている。遠くの島の稜線が、光の中に青く浮かんでいた。静かだった。鳥の声だけがあった。
三分ほどで近江が出てきた。メモを持っていた。冷蔵庫に貼ってあった連絡先のリスト。奥さんの携帯番号があった。
南里は車の中で待ちながら、近江が電話するのを聞いていた。
「森脇さんの奥さん? 近江です。ごめんね、朝早くに。透さんがね、屋根から落ちて……うん、骨折みたい。因島の病院に……うん、大丈夫、命は大丈夫じゃけえ」
奥さんの声が小さく聞こえた。泣いてはいなかった。動揺はしていた。
電話が終わった。近江を古家の前まで送った。
「ありがとうね、南里さん。助かったわ」
「いえ」
六時五十八分。車を降りて、六畳間に戻った。椅子に座った。画面を見た。
前場まで二時間。シナリオは書いてある。注文の準備はできる。間に合う。
間に合った。
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九時、前場が始まった。
指数は大幅安で寄りついた。IVが再び急騰している。南里のストラングルは含み損が拡大した。だが先週入れたポジションの含み益が相殺している。全体では微減。
板を見た。プレミアムが膨らんでいる。ここで追加の売りを入れるか。
南里はシナリオを確認した。IVの水準。証拠金の余裕。残存日数。
入れるべきだった。プレミアムは厚い。IVが天井なら、ここから先はセータとベガの両方で利益が出る。一億への距離が一気に縮まる可能性がある。
指をキーボードに置いた。指値を入力した。
入力したまま、止まった。
森脇のことが頭にあった。屋根から落ちた。骨折。あの男が屋根に上がるのを、南里は何度も見ていた。軽々と梯子を上がり、瓦を触り、降りてくる。あの男が落ちた。
落ちる。
南里も落ちたことがある。会社で。相場で。一度の判断ミスで。
あのとき、すぐに切れなかった。「今回だけは例外」と思った。戻ると思った。戻らなかった。
今、目の前にプレミアムが厚い板がある。入れれば大きく取れるかもしれない。入れなければ、この機会は過ぎる。
だが、証拠金の余裕はぎりぎりだった。ここでもう一段下げたら、追証がかかる。追証がかかったら、ポジションを強制的に閉じられる。
「今回だけは」。
その言葉が浮かんだ。
南里は指を離した。注文を出さなかった。
追加の売りは入れなかった。既存のポジションを維持するだけにした。攻めなかった。
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十一時半、前場が引けた。
指数は下げ止まった。IVは高止まり。南里のポジションは含み損と含み益が拮抗している。追加の売りを入れていれば、少し含み益が増えていた。入れなかったから、微減のまま。
昼食。冷蔵庫にあったものを食べた。味は覚えていない。
十二時半、後場が始まった。指数が少し戻した。IVが下がり始めた。ポジションの含み益が膨らんだ。
十五時十五分、後場が引けた。
振り返りをした。結果だけ見れば、悪くない一日だった。大きな損失は出ていない。ポジションは維持できている。明日のSQを無事に通過できれば、今月は利益で終わる。
だが、最適ではなかった。
追加の売りを入れていれば、もう少し取れた。入れなかったのは、証拠金の計算が合わなかったからだ。それは合理的な判断だった。
合理的な判断だった。だが、入れなかった本当の理由は別にあった。
「今回だけは」と思いそうになった。その言葉が浮かんだ瞬間に、指を止めた。あの日と同じ言葉だった。会社で大損を出した日と同じ言葉だった。
止めたのは正しかった。止めたことで、一億への距離はほんの少し遠くなったかもしれない。だが壊れることは避けた。
森脇も落ちた。だが骨折で済んだ。命は残った。
南里も、今日は落ちなかった。
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夜。ノートを閉じた。画面を消した。
窓を開けた。八月の夜の空気が入ってきた。湿気がある。蝉は止んでいる。虫の音が聞こえる。
海峡の方に目を向けた。対岸の尾道の灯りが、水面に細長く映っていた。橙色の街灯と白い窓の明かりが混じって、水の上で揺れている。
渡船はもう止まっている時間だった。海峡に動くものはない。潮が静かに流れているだけだった。夜の瀬戸内は音がない。波も立たない。
内海だから、外海のうねりは島と島のあいだで消える。ここに届くのは凪だけだった。灯りだけが水面に映って、島と陸を静かにつないでいる。
近江の家の灯りが見える。まだ起きている。
森脇は病院にいる。奥さんが駆けつけたはずだった。骨折なら、しばらく仕事はできない。あの男がいない間、この辺の家の修繕は誰がやるのか。
片岡の店の冷蔵庫は動いているだろうか。業者は来たのか。
南里は考えていた。考えるつもりはなかったが、考えていた。
今朝、南里は森脇の家まで車を出した。それは正しかったのか。ルール通りなら、切るべきだった。相場の日に、相場以外のことに時間を使うべきではなかった。
だが、あの場面で切れなかった。
近江の声を聞いた。森脇が落ちたと聞いた。奥さんに連絡がつかないと聞いた。聞いたら、車を出していた。
善意ではなかった。義務感でもなかった。ただ、見えてしまった構造を放置できなかった。連絡先が分からない。車がない。解ける問題が目の前にある。解ける人間が自分しかいない。
解いた。それだけだった。
それだけのことが、従来の南里ならしなかったことだった。
従来の南里なら切った。「自分の仕事ではない」と言った。画面に向き直った。
今日は、切らなかった。
勝ちたかった。一億に届かせたかった。その気持ちは今も変わっていない。
だが今日は、勝ちだけでは動けなかった。
損切りできないものがあるというのは、こういうことかもしれなかった。




