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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第4章「損切りできないもの」
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順番がずれる

八月の半ば。盆の気配が始まっていた。


朝五時に起きた。窓を開けると、夜明け前の空気が湿っていた。海峡の方角が白み始めている。島の輪郭がうっすらと浮かんでいた。対岸の尾道の灯りがまだ点いている。夜と朝のあいだの、静かな時間だった。


米国市場を確認した。小幅安。VIXは高止まりのまま、方向感がない。先週の急落からまだ市場は揺れている。IVは依然高い。南里のポジションは含み益を維持しているが、ここから先が読みにくい。


今日は午前中にポジションの見直しをしたかった。SQまで一週間を切っている。ストラングルのプット側が近くなっている。ヘッジを入れるか、ポジションを閉じるか。証拠金の余裕を再計算して、シナリオを更新する。午前中に方針を決めたかった。


順番を決めた。


五時半、米国市場の確認。六時、ノートにシナリオを書く。七時、朝食。八時、気配値の確認と注文の準備。九時、前場。十一時半、前場引け後に振り返り。昼食は冷蔵庫のもので済ませる。十二時半、後場。


この順番を崩したくなかった。今日は特に。SQ前のポジション調整は、集中と時間の両方が要る。


六時。ノートを開いた。シナリオを書き始めた。


六時二十分。スマホが鳴った。


片岡だった。


「南里さん、すみません、朝早くに。ちょっと相談なんですけど」


「はい」


「冷蔵庫が調子悪くて。昨日の夜から冷えが弱いんです。中のもの、今日使い切らないと駄目になるかもしれなくて」


「業者に」


「連絡しました。今日は盆前で対応できないて。最短で三日後です」


三日後。片岡の店は毎日仕入れた魚を使い切る。冷蔵庫が止まれば、在庫が全部駄目になる。三日間休むか、別の冷蔵手段を探すか。


「何か手伝えることがありますか」


言ってしまった。言うつもりはなかった。


「いえ、そこまでは。ただ、南里さん、冷蔵庫のこと詳しかったりしますか」


「詳しくはないです。ただ、見れば分かることはあるかもしれません」


「本当ですか。今日の仕込み前に見てもらえたら助かるんですけど」


南里は時計を見た。六時二十五分。前場まで二時間半。店へ行って見るだけなら、一時間で戻れる。シナリオの作成は後ろにずらす。


順番が変わった。


「七時に行きます」


「ありがとうございます」


---


七時前に古家を出た。車を出して坂を下りると、道の切れ目から尾道水道が見えた。朝凪の海峡に光が落ちている。対岸の尾道の家並みが、山の斜面に薄く重なって見えた。渡船が一隻、白い航跡を引いて向島から対岸へ渡っていく。


盆前の朝だった。水面は静かで、光だけが動いている。


七時、片岡の店に着いた。店はまだ開いていない。裏口から入った。


厨房の冷蔵庫は業務用の大型だった。コンプレッサーの音が弱い。庫内の温度計を見た。十二度。本来なら五度以下のはずだった。


南里は冷蔵庫の背面を見た。埃が溜まっている。コンデンサーのフィンが詰まっていた。


「掃除機ありますか」


「はい」


掃除機でフィンの埃を吸った。背面のパネルを外して、内部の通気口も確認した。ゴミが詰まっていた。取り除いた。


コンプレッサーが少し強く唸り始めた。十分待った。温度計を見た。十度。下がり始めている。


「フィンが詰まって放熱できなくなっていたんだと思います。これで下がるかもしれません。ただ、コンプレッサー自体が弱っている可能性もあるので、業者には来てもらった方がいいです」


「助かります。これで今日の分は持ちそうですか」


「たぶん。温度計を見て、五度まで下がれば大丈夫です」


片岡は冷蔵庫の中を確認していた。鯵、鰆、海老。今日の仕入れ分。


「これが駄目になったら、今日は開けられなかったです」


「原因が埃なら、定期的に掃除すれば防げます」


「そうですよね。忙しくて後ろが見えてなかったです」


片岡は少し笑った。後ろが見えていなかった。南里も、そうかもしれなかった。


七時四十五分。店を出た。日差しが強くなっていた。


駐車場の端から海峡が覗く。さっきより渡船が増えている。水面の光が白く跳ねていた。


車で古家に戻った。八時五分。前場まで五十五分。シナリオはまだ書いていない。


机に座った。ノートを開いた。書き始めた。だが頭の中に、冷蔵庫のコンデンサーのフィンの埃が残っていた。あの埃を取らなければ、今日の仕入れは駄目になっていた。片岡は店を開けられなかった。


それは南里に関係のないことだった。関係のないことのはずだった。


八時四十分。シナリオが書き終わらないまま、前場の準備に入った。指数オプションの気配値を確認する。原指数は小幅安。IVは高止まり。


九時、前場が始まった。


板を見た。SQ前の動きが出始めている。プット側の建玉が増えている。ヘッジの注文を入れたかった。だがシナリオが完成していない。方針が固まっていない。


南里は指をキーボードに置いたまま止まった。


普段ならこの時間にはシナリオが三つ書けている。方針が決まっている。注文の準備ができている。今日はできていない。順番がずれたからだった。


朝の一時間を店で使った。その一時間がシナリオの時間を食った。シナリオが遅れたから方針が固まらない。方針が固まらないから注文が出せない。


一つのずれが連鎖している。


十時。板を見ながらシナリオを頭の中で組み直した。書く時間はない。頭の中で判断する。プット側の近いポジションを少し閉じる。ヘッジは見送る。閉じた分の証拠金でセータを稼ぐ。


注文を出した。約定した。判断は悪くなかった。だが、いつもの精度ではなかった。


十一時半、前場が引けた。


昼食。冷蔵庫を開けた。何もなかった。昨日のパンも食べ切っていた。買い出しを後回しにし続けた結果だった。


外に出ると、真昼の日差しが垂直に落ちていた。


八月の盆前の光は白い。集落の路地には人影がない。石垣の上のみかんの木が、重い日差しの中で動かずにいた。


片岡の店へ行った。冷蔵庫の様子を見たかったのもあった。


店は開いていた。カウンターに座った。日替わりは鯵のたたき。冷蔵庫は動いているらしい。


「温度、下がりましたか」


「五度まで下がりました。大丈夫そうです。本当にありがとうございました」


「よかったです」


食べた。急いで食べた。後場に間に合わせるために。


十二時二十八分、古家に戻った。後場まで二分。椅子に座る。板を開く。


後場は動きがなかった。指数は横ばい。ポジションに問題はない。


十五時十五分、引けた。


振り返りをした。損益は微減。朝のポジション調整で少し損が出たが、ヘッジを入れなかった分は問題なかった。大きな失敗ではない。だが、最適でもなかった。


最適ではなかった理由は分かっていた。順番がずれたからだった。


朝の一時間。冷蔵庫のフィンの埃。あれを放っておけば、今日の相場はいつも通りに回せた。シナリオは書けた。方針は固まった。注文はいつもの精度で出せた。


だが、放っておいたら片岡の店は今日開けなかった。仕入れた魚は駄目になっていた。


どちらが正しいか。


南里の正しさは相場の側にある。相場を最優先にする。他は切る。それがルールだった。


だが今日、南里は相場の前に冷蔵庫を見た。見てしまったから、放置のコストが分かった。放置のコストが分かったから、先に処理した。後回しにすると大きくなるものを先にやった。森脇と同じだった。


森脇と同じことをしている自分に、南里は驚いていた。


最適ではなかった。だが、間違いとも言い切れなかった。


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