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瀬戸内移住トレーダーは潮風のなかで相場を張る  作者: まる助
第4章「損切りできないもの」
18/25

切る理屈はある

台風は逸れた。瀬戸内には強い風と雨が半日降っただけで、翌日には晴れた。八月の日差しが戻った。


近江の雨戸は役に立った。森脇が翌日来て、レールに蝋を塗り、戸車を点検した。「よう直しましたね」と森脇は言った。南里は「戸車を戻しただけです」と返した。


台風が過ぎて三日目。南里は朝からノートを開いていた。


相場のノートではなかった。自分のルールを書いたノートだった。


会社を辞めてから書いた。東京のマンションで一週間かけて、自分のトレードルールを三十項目に整理した。あの失敗を二度と繰り返さないためのルールだった。その最初の五つを見ていた。


一、損失が証拠金の五パーセントを超えたら切る。

二、例外を作らない。

三、ポジションの保有根拠が消えたら、即座に閉じる。

四、相場以外の判断を相場に持ち込まない。

五、切るべき局面で迷ったら、切る方を選ぶ。


このルールは、あの失敗から作った。会社で大損を出した日、南里が守れなかったのは二番目だった。「今回だけは例外」と思った。統計的には正しいと信じた。だが統計は個別の局面を保証しない。その一度の例外が全てを壊した。


だから辞めてから、例外を禁じた。ルールを書いた。書いたルールを守れば、あの失敗は繰り返さない。四ヶ月間、このルールを守ってきた。守れていた。


ノートを閉じた。


問題は四番目だった。


相場以外の判断を相場に持ち込まない。


この三日間、南里は相場に集中していた。ポジションは含み益を保っている。IVは徐々に下がっている。セータが効いている。波は正しく乗れていた。


だが、集中の質が前と違っていた。


雨戸のことが頭に残っている。近藤の水道のことも残っている。片岡の店が三日間休んだことも。台風のあいだ、近江が一人で家にいたことも。


どれも相場に関係ない。関係ないものを切る。それがルールだった。


切る理屈はある。切った方が正しい。正しいはずだった。


---


昼、片岡の店へ行った。台風後、初めてだった。


店は開いていた。暖簾が出ている。入った。客は二人。カウンターに座った。


片岡は厨房にいた。目が合った。


「お久しぶりです」


「台風、大丈夫でしたか」


「うちは大丈夫でした。ただ、仕入れが二日止まったんで、三日休みました」


「大変でしたね」


「大変いうか、仕方ないですね。魚が入らんと出せないんで」


日替わりは鰈の煮つけだった。待っている間に、南里は言った。


「休んでいる間、売上はゼロですよね」


「ゼロです」


「固定費はかかる」


「かかります。家賃はないですけど、光熱費と借入の返済は止まらないです」


「それでも開けない判断をした」


「出せない日に開けても意味ないですから。質が落ちるものを出したら、次に来てもらえなくなります」


南里は黙った。


片岡の判断は合理的だった。短期の売上を捨てて、長期の信頼を守る。損切りの一種だった。三日分の売上を切って、店の価値を保つ。


「切った方が早い場合もあるでしょう」


南里は言った。自分に向けて言ったのか、片岡に向けて言ったのか、分からなかった。


片岡は皿を拭きながら答えた。


「早いだけなら、そうです」


定食が出てきた。食べた。鰈は柔らかかった。味噌汁は赤出汁。小鉢はおくらの和え物と冬瓜の煮物。


食べ終えて、会計をした。店を出た。


---


駐車場で、森脇の軽トラとすれ違った。森脇が窓を下ろした。


「南里さん、近江さんの雨戸、ちゃんと直っとりましたよ。蝋塗ったら滑りもよくなりました」


「よかったです」


「台風のときに閉められたけえ、近江さん助かったて言っとりました」


「たいしたことはしてないです」


森脇は少し間を置いた。


「僕も、台風のときは他の家を三軒回ったんです。屋根のシートが飛びかけとる家と、排水が溢れた家と、ガラスにひびが入った家。一日で三軒。全部応急処置です」


「忙しかったですね」


「忙しいいうか、後回しにすると大きくなるんで。あとで戻る手間まで入れるなら、話は別なんです」


南里は頷いた。


森脇は手を上げて走っていった。


車に乗った。エンジンをかけた。動かなかった。


あとで戻る手間まで入れるなら、話は別。


森脇の言葉が残っていた。


南里のルールは「切る」だった。切れば楽になる。集中できる。判断がクリアになる。それは正しい。


だが森脇は「切らない」の側にいた。後回しにすると大きくなるものを、先に処理する。それも正しかった。


片岡は「早いだけなら、そう」と言った。早さが最適解とは限らないと言った。それも正しかった。


三人の正しさが、全部違う場所にある。


南里の正しさは、相場の中にあった。相場の中では、切ることが最も合理的な局面がある。損切りは技術であり、美徳であり、生存の条件だった。


だが南里は今、相場の外にもいた。


相場の外では、切れば済むとは限らなかった。近江の雨戸を切っても、近江は隣にいる。片岡の店を切っても、昼はどこかで食べる。森脇を切っても、屋根は漏る。


切る理屈はある。正しいはずだ。正しいはずなのに、前ほど手応えがない。


車を出した。古家に戻った。後場の準備をする。


板を開いた。ポジションを確認した。含み益は維持されている。IVは下がり続けている。セータが効いている。相場の判断は正しかった。


相場の判断は正しかった。相場の外の判断は、まだ整理できていなかった。


夜、ノートを開いた。ルールの四番を見た。


相場以外の判断を相場に持ち込まない。


ルールは残っていた。だが、そのルールを読むときの手触りだけが、少し違っていた。


切る理屈はある。問題は、そのあとだった。

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