それはノイズのはずだった
翌朝も暑かった。五時に起きた。エアコンのタイマーが切れた後の空気が重い。
米国市場を確認した。前日の下げ幅を半分ほど戻していた。VIXは高止まりだが、前日のピークよりは下がっている。
南里の判断は正しかった。昨日の売りポジションは含み益が膨らんでいるはずだった。IVが下がれば、さらに利益になる。あと二日か三日、この水準でIVが落ち着けば、一億への距離が一歩縮まる。
今日も集中する。他は入れない。
コーヒーを淹れた。パンを焼いた。冷蔵庫を見た。パンはあと二枚。牛乳が少ない。買い出しが要る。だが今日は行かない。明日まで持たせる。
八時。前場の準備を始めた。気配値を確認する。小幅安。昨日ほどの急落はなさそうだった。IVは高いが、落ち着き始めている。
八時二十分。近江の声がした。
「南里さん」
引き戸の向こうだった。いつもの声だが、少し違った。声が低い。
南里は返事をしなかった。昨日も無視した。今日も無視するつもりだった。
「南里さん、ちょっとだけ」
間があった。近江は普段、返事を待たずに話し始める。今日は間があった。
「雨戸がね、動かんのよ」
南里は画面を見たまま止まった。
「昨日の夜、閉めようとしたら途中で引っかかって。朝もやってみたんじゃけど、動かんのよ」
雨戸。近江の家は古い木造だった。南里の古家より古いかもしれない。
「森脇さんに連絡したら、今日は因島で仕事が入っとるて。明日にはなるて」
南里は返事をしなかった。画面を見ていた。前場まで四十分。
「台風が来よるけえ、雨戸閉めたいんよ」
台風。天気予報は確認していなかった。相場の方ばかり見ていた。
スマホで天気を見た。台風が九州の南にいた。進路予想は中国地方へ寄っている。明後日には瀬戸内に近づく。
近江は雨戸を閉めたい。台風が来るから。森脇は今日いない。明日になる。だが台風は明後日来る。明日閉められれば間に合う。
「明日、森脇さんが来るなら大丈夫じゃないですか」
「うん、たぶんね。ただ、一枚だけ完全に動かんのがあって。力がいるかもしれんのよ。森脇さんが来るまでにもう一回やってみたいんじゃけど、一人じゃ無理かもしれんけえ」
南里は椅子から立たなかった。
近江の声は穏やかだった。切迫してはいない。大げさに頼ってもいない。ただ、事実を言っている。雨戸が動かない。一人では無理かもしれない。台風が来る。
「五分だけ、見てもらえん?」
五分。前場まで三十五分。五分なら間に合う。
南里は立ち上がった。
近江の家は隣だった。歩いて三十秒。
雨戸は縁側にあった。木製の引き戸式。四枚あるうちの一枚が、レールの途中で完全に止まっていた。
南里はしゃがんで下のレールを見た。木が膨張している。湿気で歪んでいる。上のレールも確認した。戸車が外れかけていた。
「戸車がずれてます。レールに乗り直せば動くと思います」
「わしにはよう分からんのよ」
南里は雨戸を持ち上げた。重い。古い木製で、分厚い。片手では持ち上がらなかった。両手で抱えるように持ち上げ、戸車をレールに乗せ直した。
動いた。滑りは悪いが、動く。端まで引いた。閉まった。
「ああ、動いた。ありがとうね」
「レールに蝋を塗ると滑りがよくなります。森脇さんに言えば分かると思います」
「ほうね。明日言うわ」
南里は古家に戻った。八時三十二分。前場まで二十八分。手を洗った。指が少し痛い。古い木の角で擦った。
椅子に座った。画面を見る。気配値は変わっていない。七分だった。五分のつもりが七分。
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九時、前場が始まった。
指数は小幅安で寄りついた。昨日ほどの動きはない。IVは高止まり。南里のポジションは含み益を維持している。今日は大きく動かなくてよい。このままIVが時間とともに下がれば、セータで取れる。
十時。近江がまた来た。
「南里さん、さっきの雨戸なんじゃけど、他の三枚も硬いんよ。自分で動かそうとしたんじゃけど、二枚目が途中で止まってしまって」
南里は歯を食いしばった。
「今、ちょっと」
「うん、無理せんでもええよ。森脇さんが明日来るけえ」
無理せんでもいい。その言葉の裏に、だが今日動かせるなら動かしたい、という気配がある。台風は明後日。森脇は明日。時間はある。あるが、ぎりぎりだ。
「昼にします。十一時半以降なら」
「ほうね。ありがとうね」
近江が帰った。南里は画面に戻った。
前場の残りを見た。板は動いていない。ポジションに問題はない。だが集中が削れていた。頭の隅に、近江の雨戸がある。あと二枚。戸車がずれているか、レールが歪んでいるか。どちらにしても力がいる。
十一時半、前場が引けた。
近江の家へ行った。雨戸を二枚、同じ要領で持ち上げ、戸車を直し、レールに乗せ直した。一枚は戸車が完全に外れていたので、はめ直すのに時間がかかった。
二十分かかった。五分のつもりが、合計三十分近くになった。
手が痛い。古い木で掌を擦った。汗が出た。八月の昼、縁側で雨戸と格闘するのは、相場を見ているのとは別の消耗があった。
近江は麦茶を出した。
「ごめんねえ、こんなこと頼んで」
「いえ」
「台風、どのくらい来るんかねえ」
「直撃ではなさそうですけど、風は強くなると思います」
「ほうね。雨戸閉められたら安心じゃわ」
南里は麦茶を飲んで、古家に戻った。十二時十五分。後場まで十五分。
手を洗った。指先が赤くなっていた。キーボードに触る。感覚が少し鈍い。
後場が始まった。指数は横ばい。IVはわずかに下がった。ポジションは問題ない。
問題ないはずだった。だが集中が戻りきらない。雨戸を直したときの木の重さが手に残っている。近江の台所の匂いが鼻に残っている。麦茶の味が口に残っている。
十五時十五分、後場が引けた。損益は微増。ポジションは健全。結果だけ見れば、何も問題のない一日だった。
だが南里は苛立っていた。三十分。今日の相場に三十分の穴を開けた。結果には影響しなかった。しなかったが、集中の糸が一度切れた。切れた糸は、同じ強さには戻らない。
近江の雨戸。台風の準備。七十二歳の一人暮らしの女が、雨戸を閉めたいと言った。それだけのことだった。
ノイズのはずだった。自分には関係ないはずだった。排水溝も、水道も、雨戸も、全部関係ないはずだった。
だが関係ないと言い切るには、近江の家が近すぎた。声が届く距離に住んでいるということは、そういうことだった。
こんなところで神経を削るはずではなかった。




