VIXが跳ねた朝
※本作の相場や金融商品、取引制度は物語上の架空設定です
八月に入った。朝五時、目を開けた瞬間に暑かった。
エアコンは夜中に切れていた。タイマーを三時間にしていた。古い壁付けのエアコンで、つけっぱなしにすると室外機が唸る。隣の近江の家にも聞こえるだろうと思って、夜中は切っている。
窓を開けた。風がない。湿気を含んだ熱が動かないまま溜まっている。蝉がすでに鳴いている。
PCを起動し、米国市場を確認した。
手が止まった。
S&Pが二・五パーセント下落している。VIXが前日比で四割上昇。二十を超えている。引け際に急落が加速していた。きっかけは米雇用統計の悪化と、FRB高官の発言。市場が利上げ継続を嫌気した。恐怖が数字に出ていた。
南里の背筋が伸びた。椅子に深く座り直した。画面を見る目が変わった。瞳孔が広がっている気がした。
スプレッドシートを開いた。ポジションの時価を計算する。ストラングルの売りは含み損が出ているはずだった。IVの急騰でプレミアムが膨らんでいる。プット側のデルタが大きくなっている。
計算した。含み損は出ているが、証拠金にはまだ余裕がある。まだ致命的ではない。
だが同時に、これはチャンスだった。
IVが高い。プレミアムが厚い。ここで新規にプレミアムを売れば、IVが戻ったときに大きく取れる。会社時代なら、この水準で入れる判断をしていた。
ノートを開いた。シナリオを書く。
IVがさらに上昇する場合。この場合は含み損が拡大するが、証拠金の範囲なら耐えられる。横ばいの場合。セータが効いて、時間が味方になる。反落する場合。プレミアムが縮小し、大きく取れる。
三つのシナリオを整理した。どれが来ても対応できるようにポジションを考える。残存日数、証拠金、ヘッジの余地。
これだった。これをやるために向島へ来た。
この集中。この精度。この静けさの中で、自分の判断だけで相場に向き合う。一億への距離を詰められる局面が、今来ている。
コーヒーを淹れた。いつもより濃くした。窓は閉めた。エアコンをつけた。室外機が低く唸る。構わなかった。今日は暑さに付き合っている場合ではない。
七時。指数オプションの気配値が出始めた。原指数は大幅安。三百円以上下げて寄りそうだった。板を確認する。IVが跳ねている。板全体が膨らんでいた。
南里は注文の準備を始めた。キーボードに指を置いた。指先の感覚が鋭くなっている。
八時。玄関の方から音がした。近江の声。
「南里さん、暑いねえ。エアコン動いとる?」
無視した。返事をしなかった。今日は返事をしている場合ではない。
近江はしばらくして帰った。引き戸が閉まる音がした。
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九時、前場が始まった。
指数は大幅安で寄りついた。IVは急騰している。南里のストラングルは含み損が拡大した。想定内だった。
板を見る。出来高が厚い。動いている。プットのプレミアムが膨らんでいる。ここに入るかどうか。
南里は待った。寄り直後は荒れる。十分待った。板が少し落ち着いた。指数の下げが一服した。
プットの遠いところに売りの指値を出した。プレミアムは厚い。約定すれば、IVが戻ったときに大きい。
約定した。画面に約定の通知が出た。
南里は小さく息を吐いた。指先がわずかに冷えていた。緊張している。だが手は震えていない。あの日とは違う。ポジションが追加された。証拠金を再計算する。まだ余裕がある。
十時半。指数がさらに下げた。含み損が膨らんだ。だがIVが天井に近い。ここから反転すれば、今日入れたポジションは利益になる。
待つ。今は待つ。セータが効くまでの時間を稼ぐ。
十一時半、前場が引けた。昼の間に米国先物の動きを確認する。欧州市場の反応を見る。
昼食。冷蔵庫に昨日買ったパンがあった。それで済ませた。片岡の店には行かなかった。往復の時間が惜しかった。
十二時半、後場が始まった。指数は少し戻した。IVの上昇が止まった。含み損が縮小し始めている。
南里は画面に張りついていた。トイレに立つ以外、椅子から動かなかった。
十五時十五分、後場が引けた。
振り返りをする。含み損は朝より縮小している。新規で入れたポジションは含み益に転じた。まだ小さいが、方向は正しい。
明日以降がさらに重要だった。IVが戻り続ければ利益が膨らむ。逆に、もう一段下げればさらに含み損が出る。ここからが勝負だった。
ノートに書いた。明日の前場までにやること。米国市場の動きを追う。シナリオを更新する。証拠金の余裕を再計算する。ヘッジの水準を決める。
スマホが鳴った。森脇からだった。
「南里さん、先日の屋根の件なんですけど、もう一箇所見たいところがあって。今週中に一回行きたいんですが」
「今週は少し立て込んでいます」
「急ぎじゃないんで、来週でも大丈夫です」
「来週にしてください。すみません」
「分かりました」
電話を切った。来週。来週でいい。今週は相場に集中する。他は全部後ろへ回す。
夜間立会を軽く確認した。米国市場の寄り前の気配を見る。少し戻している。明日も動くだろう。
窓の外は暗くなっていた。八月の夜は遅い。二十時を過ぎてようやく暗くなる。蝉が止んでいる。代わりに虫の音が細く聞こえる。
近江の家の灯りが見えた。台所の窓が光っている。近江はもう夕飯を食べている頃だろう。朝、声をかけてきた近江に返事をしなかった。そのことが少し引っかかった。だが今日は仕方なかった。
南里はパンの残りを食べた。冷蔵庫の中が寂しい。買い出しに行く余裕がなかった。明日も朝が早い。
この波を逃せば、また遠くなる。




